『リーダーシップの日本近現代史』(205)記事転載/『日本戦争外交史の研究』/『世界史の中の日露戦争』②ー「戦争の原因となったシベリア鉄道建設の真相』★『ロマノフ家とシベリア鉄道』●『北満洲はロシアによってあらゆる形式において軍事的に占領された』
/『世界史の中の日露戦争』記事再録
『ロマノフ家とシベリア鉄道』
ロマノフ家
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%9E%E3%83%8E%E3%83%95%E5%AE%B6
(以下は『ロシア史』ポクローフスキイ著、岡田宗司訳、学芸社、1937年より)
ニコライ二世の外交政策に移る前に、その父祖達の政策についてここに数言を費す必要がある。アレクサンドル二世が、そのコンスタンチノープル(イスタンブール)を占領する計画に失敗し、一八七八(明治11)年のベルリン会議 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%AA%E3%83%B3%E4%BC%9A%E8%AD%B0_(1878%E5%B9%B4) で混乱した。
その混乱はアレクサンドル二世の野望がドイツとの密約によるものであることがわかった。即ちドイツはロシアに『援助』を約束したのである。戦争の始まった時にドイツは種々な口実のもとにこの約束の実行を回避したのである。 アレクサンドル二世は、かつて一八五六年のパリの講和会議においてフランスのとった態度を赦すことが出来なかったと同様に、大宰相ビスマークのこの『裏切り』をゆるすことが出来なかった。このため、ドイツと不和になったツアーは、フランスと接近した。
[中略] ビスマークはロシアは経済的には彼の手中にあると確信していた一彼は「ロマーノフ』家の『生粋のロシア」政府は、外債なしでは立ち行かないし、外債はこれまで主としてベルリンで起債されたことを知っていた。
ペテルスプルグがブルガリア事件について、まだ穀物関税についてぶつぶつ言ひ始めた時に、ビスマークのとった処置は、ドイツの銀行は最早ロシャの債券を引受けるべからずというものであった。
しかし、ここで彼は誤を犯した。当時平和時代が続いていたのでヨーロッパでは、資金は低利であった。ベルリンの取引所から閉出されたアレクサンドル三世の大臣ヴイシェネグラードスキィはパリに赴き、そこで大いに歓迎された。かくて一八八〇年代の終りに、ロシアのすべての借款は、パリに於て非常に有利な条件で借り換えることが出来た。
フランス資本、もっと正確に言へば、イギリスの資本を除いて十九世紀の末にパリ取引所に集中していた全ヨーロッパの資本は、8,90年代においてロシアの国債となってはじめて遠く東方に行くようになった。
ロシアの利子はヨーロッパで最も高いものであったが、アジアおいてはもっとたくさん得られはしないだらうか? ちょうど、一八八七(明治20)年に建設することに決定されたシベリア鉄道が、非常に大きな政治的意義をもつことになったのは決して偶然なことではない。
一八九一(明治24)年にはその東端の終点に礎石を置くために、当時皇太子であったニコライ自身が派遣された。ここで彼ははじめて日本の刀に遭遇したのである(大津事件)。 一八九五年に日本は、ヨーロッパのブルジョアジーの全く予期しなかったほどの迅速さをもって支那の軍隊と支那艦隊とを撃破し、これによってヨーロッパの請負師の援助によって支那(中国)が『復興』するという伝説をぶちこはしてしまったが、日本がアジヤ大陸の東岸に出現した時、遼東半島の割譲をロシアはフランス及びドイツと提携して干渉した。(三国干渉)
突然ノド首を抑へつけられた日本は大陸に一寸の土地も得ることが出来ず、台湾と償金で満足しなければならなかった。しかし、支那(中国)をして容易にこの償金を支払をさせるため、また支那の財政全般を立直すため に一八九五(明治28)年にロシアの大蔵大臣ウィッテ https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%83%AB%E3%82%B2%E3%82%A4%E3%83%BB%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%83%E3%83%86
はパリの大銀行家の一人と共同して露支銀行を設立したのである。
これが決して偶然の出来事ではなく、全計画の一部であったということは、これより三年前、即ち一八九二年に書かれたウィッテの言葉が、これを示している。当時その職についたばかりの新大蔵大臣はこう書いている。
シベリア鉄道はまた世界貿易にとっても新しい道と新しい地平線とを開く、そしてこの重要性によってこの鉄道の建設は、諸国民の歴史に新しき時代を画期し、また諸国間にある現在の経済関係に根本的変革をひき起すやうな種類の世界的事件となる」と。
何によってフランスの銀行家はこの世界的事件においてウィッテの相棒となったのか一 それは知るに難しくはない。ロシアはかつて資本の過剰に悩んだことはなかった、そこでシベリア鉄道に投ぜられたのは、フランスの資金であった。また何がドイツをその仲間に加へる様に動かしたかもすぐわかる。
-極東に輸出すべき商品もロシアには資金と同じく豊富ではなかった。シベリア鉄道がロシアの製品よりもドイツの製品がはるかに多く輸送されるであらうことは明白であった。
ロシア人が旅順口を占領した時、ドイツ会社の代理人は、どのロシアの製造業者の代表者よりもずっと先にそこに現れた。 ′シベリア鉄道は初めは、ロシャの領土内をアムール河に沿ふてウラヂオストックに向けて敷設することに決定されていた。
しかし、その後この方向は不便かつ、不利益であることが分ったので、その鉄道を直線にして短縮することに決した。 即ちアムール河に沿う弓形の代りに、この弓の絃として、支那領であった北満洲を通過して敷設することに決定した。
しかし、北満洲は人口稀薄な、半荒野であり、ロシア人の考ではそこには安寧秩序が保たれていなかったから、鉄道会社は完全な自治権と、鉄道と停車場の保護のために-支那の領土に-軍隊を駐屯させる権利を獲得した。
換言すれば、北満洲はロシアによってあらゆる形式において軍事的に占領されたのである。
何故なら鉄道会社の軍隊はもちろんロシアの士官の指揮する兵士であったからで、これは一八九六(明治29)年のことである。 鉄道の終点はまだウラジオストックとされていた。ところが二年後には、鉄道の方向のみでなくその終点も変更された。
ウラヂオストックは極東のすべての商業路から遠く離れすぎている。 この地方の気候は極寒で、港は一年の内数ヶ月間、氷に閉される。これに反して南清洲の諸港はほとんど凍結せず、しかも支那帝国の心臓である北京に通ずる活発なる商業路上に位置している。
そこで鉄道を南方に向けることに決定した。 このため、一八九八(同31)年に支那から満州の最南端の港、旅順口と大連湾(ロシャ語でダルニーと改称された)とを租借した。この租借はここでも軍事的占領をともなった。旅順口は要塞となった。ロシャの守備隊が置かれ、ロシャの技師によって、コツソリと建設されてしまった。
ここにその勢力を増加することになっていた全ロシア太平洋艦隊の碇泊港が出来た。
特に大連は商業港と考へられ、そこに船渠、倉庫、発電所等が建造された。これ等すべての計画に一千六百万金ルーブルの支出された。 こうしてウィッテ(彼は極東政策の魂であった)は先見の明を以ってロシアの金属工業のために市場を拡大しようと試みた。ウィッテの政策はニコライ一世の近東政策に非常に似かよっていたが、ただ当時は紡蹟業がその中心であったのに、今は金属工業が中心にする点だけ異っていた。
ウイッテの政策は、ニコライの政策ほど露骨に銃剣による直接の征服に基礎を置いていなかった。ウィッテはブルジョア世界の代表者で、封建世界の代表者ではなかった。
しかし遅かれ早かれそれは軍事衝突を惹起せざるを得なかった。ロシアは密かに戦争の準備をしていた。一八九二(明治25)年から一九〇二(35)年までに軍事費は四八%の増加を見、その中海軍費一〇〇%以上、即ち四千八百万金ルーブルから九八百万金ルーブルに増加した。
しかし、ウィッテのこの正常な資本主義的・帝国主義を妨げたものは、ロマノフ家の野蛮な、未開の、封建的な商人帝国主義であった。 ロマノフ家にも一種の内部闘争があった。二十世紀の初めに帝室は恐ろしく膨脹した。
『ロマノフ家』は傍系の親戚を加へると五十家を越していた。
かくて世界第一の億万長者はその億万の富を更に増加することを考へる必要に迫られた。 『ロマノフ』家全体を扶養する義務を持っていた宮廷省はあらゆる企業に手をだしぶどう園でワインを作ってを売りさばいた。この葡萄酒はロシア製の葡萄酒としてよく売れた。 しかしこれが売れても収入の増加は極くわずかのものであった。ロマノフ家の資本は種々の外国の企業に投資された。
とくに、ロマノフ家が軍艦、大砲、武器等を製造するイギリスのヴイツカース会社の最大の株主になっているという噂があって仲々消えなかった。 これが事実とすれば、この会社は日本の軍艦を作っていたのだから、ロマノフ家の大砲で、ロシアの巡洋艦を撃っことになる。
[中略] 退職大佐ウォンリヤルリヤルスキーという男が、[中略]ロシア皇帝に一書を奉呈した、
それには朝鮮について次のことが記されていた。
① 朝鮮の現行法によれば、国内の土地は私有でなく、ことごとく朝鮮の皇帝の所有である。
② まだ外国人に占有されていないこの国の各種の資源開発に関する利権を得て、朝鮮を掌握することが可能である。
③ プリンネルの森林利権の重要性が指摘した。
④ これは森林の視察を口実として朝鮮に探検隊を派遣することを可能にするためであった。
ロシア外務大臣は後にある秘密文書の中でこう告白している。
『その地理的並びに政治的条件によって、朝鮮の運命は後にロシア帝国の一部となるように吾々によって予め定められたのである。』 更にこの秘密文書が語っているこの根拠から、ロシャの外交官は一八九六(明治29)年に日本の提議する朝鮮分割を拒絶した。なぜなら、『これはロシアの将来における行動の自由を自ら進んで束縛するようなものであったからだ』
ところが、ここに朝鮮の「商業経済企業」が現れて来た。
これは一九〇五-一九〇六年にロシアの新聞紙があれほど騒いだ鴨緑江岸のつまらない森林利権の様なものではなかった。 この利権は朝鮮侵略の口実にしか過ぎなかった-森林利権のような、つまらないものにはロマノフ家は手を汚すやうなことはしなかったであらう。
イタリアよりやや小さく、二〇万平方露里の面積と、一千万以上の人口を有する全土の略取が問題だったのである。しかし『ロマノフ家が必要としたものは土地でもなく人間でもない』-そのいづれもロシアには充分あったのである。
しかるに、朝鮮に於ける鉱物の富について、特に金鉱や、鉄鉱や、石炭等について驚くべき物語が行はれていた。
探検隊-これ等はことごとく、ロマノフ家の事業として行はれていたのである-の頭に立っていた宮廷省の一高官が朝鮮皇帝からこれ等の資源一切の開発をする利権を得ることに成功した。
ロシア外交官の告白によれば、ここに前記官吏の真の目的、ロシア宮廷が朝鮮の豊富なる鉱山を開発する目的のために、ロシア並びに外国資本を朝鮮に持込んで、これにより富が日本の手に落ることを妨害すること』が真の狙いだったのである。
(以上は『ロシア史』ポクローフスキイ著、岡田宗司訳、学芸社、1937年)
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