『リーダーシップの日本近現代史』(1)記事再録/日本国難史にみる『戦略思考の欠落』(元寇の役、ペリー黒船来航で徳川幕府崩壊へ)ー日清、日露戦争勝利の方程式を解いた空前絶後の名将「川上操六」の誕生へ①
2019/08/25
2015/11/23 日本リーダーパワー史(605)
日本国難史にみる『戦略思考の欠落』(元寇の役、ペリー黒船来航、徳川幕府崩壊へ
日清、日露戦争勝利の方程式を解いた空前絶後の名将「川上操六」の誕生へ①
前坂 俊之(静岡県立大学名誉教授)
月刊「公評』2015年12月号掲載
日本の戦略思想の不在の歴史。
戦後70年の首相談話なるものをめぐって1年間大騒ぎした。安保法制の国会審議も大揺れだった。久しぶりに国会を大勢の反対デモ隊が取り囲んだ。「戦争法だ」「やれ憲法違反だ」「国民への説明が不十分だ」と与野党のいつもの茶番劇が繰り返された。
今回の安保法制のターゲットは①中国の国際ルール無視の膨張、軍事大国化、軍事衝突のリスク②北朝鮮の暴発、崩壊への対応であることはいうまでもない。世界の衆人環視の中で「その手の内を十分に国民に知らせよ」とマスコミ、野党は執拗に追及した。
世界の国で本来機密性の高い安保戦略を全面公開しなさいと国会の場で延々論議している国がいくらあるか。戦後70年、『集団自衛権』をめぐるかくも長き不毛なイデオロギー的神学論争にふけっている場合でないほど日本をとりまく国際環境は緊張・激変し、日本は衰退中なのは皆さんご存知の通り。その危機意識がないのには驚くというよりも、いつもこの調子で日本は転んでいったのである。そして大騒ぎ、から騒ぎのあとはいつものごとく、大山鳴動ネズミ1匹で、宴は終わった。
日本の「ジャーナリズム」は子犬同様に、絶えず動くもの目をうばわれて、おっ駆け回しほえ続ける「ペットジャーナリズム」である。国民の多くが大昔の徳川綱吉時代の「生類憐みの令」https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%9F%E9%A1%9E%E6%86%90%E3%82%8C%E3%81%BF%E3%81%AE%E4%BB%A4
「お犬様」よろしくペットを人間以上にかわいがり、美食を与えて「ペット病院は増えても子供は増えず、産婦人科は減少」<日本老人・子供残酷物語>「生活保護世帯の激増」の倒錯時代が狂い返えされている。この時代病理は新聞・テレビの「ペットジャーナリズム」通底しており、一見虚を吠えれば万犬これに従う。「歴史認知症」1過性、付和雷同性の多動性症候群であり、ジャーナリズムはその国の民族性の同調しステムとすれば、熱しやすく冷めやすい国民性とも連動している。
日本人には哲学がないともいわれる。哲学とはなにか。戦略思考である。戦略思考とは何か、自己客観視、長期的な判断力、他者からの複眼・多視点からの思考力である。マッカーサーは第2次世界大戦の敵国となった「ドイツ人は大人だが、日本人は12歳の子供」といった。大人と子供を分けるものは戦略思考の有無である。大人ドイツと子供日本の落差はメルケル外交とアベ外交(その前の自民、民主の迷走,迷妄外交)の違いである。
今回の安保論議、戦争と平和論争を聞いていて、どうしようもない日本人の戦略思考の欠落、コミュニケーションの上欲の欠如、他者への視線、外国への情報音痴、複眼思考の欠如、そこからくる外交力、国際交渉力の不足以上の欠落を痛感した。
そこで、あらためて日本の過去2000年の歴史の中での国難の対外戦争である元寇の役、日清戦争、日露戦争、日中戦争、太平洋戦争と『戦略思想』の関係について調べてみた。
『戦略思想』と「戦争」は切っても切れない因果関係がある。
戦略思想がなければ戦争には勝てないし、戦略の不在、出たとこ勝負は敗北につながる。
また戦争と外交とは対立概念ではない。表裏一体である。戦略思想の具体化が、外交であり対外交渉である。この国際交渉に失敗すると、対外戦争へと発展する、戦争は外交の1手段でもある。戦略思想の軍事的実現が戦争であり、外交なくしていきなり戦争が始まるのではない。日本の対外戦争はほとんどがこの『戦略思考の欠落』(外交失敗)からおきている。
日本の最初の対外戦争の「元寇の役」からみてみよう。
「元寇の役」はユーラシア大陸を席巻しモンゴル帝国の圧倒的な戦力、軍勢により日本側は敗北寸前だったのが、2回とも台風が吹いてモンゴル軍の艦船はことごとく沈没、破壊され、日本は侵略からかくも守られた戦争と伝えられている。
このため台風を『神風』と呼びあがめて、日本を神国化し、北条時宗を護国の英雄として賛美した。以後、国難、対外戦争にはいつも『神国』を守り『神風』を期待する風潮が起きてくる。
元寇の役から約700年後に起きた太平洋戦争開戦(1941年12月8日)をみても、この「神国病」『神風病』が再現されている。開戦日をスクープした東京日日新聞(毎日新聞)は12月8日朝刊の紙面で、「北条時宗にならえ」との記事を大々的にとりに掲げている。
第一面では横見出しに「東亜撹乱、英米の敵性極まる」と大きく謳い、縦には「断乎駆逐の一途のみ」「隠忍度あり一億憤激将に頂点」。社会面では「断じて起つ・一億の時宗」「銃後は火の玉、見よこの備へ」「元寇かくや荒ぶ神風」で国民の決意を呼びかけ「今こそ一億国民の起つべき秋は来た。 我に〝時宗″の決意あり、我に〝正宗″の銘刀がある。(中略)弘安年間、元冠を退けた〝時宗″に国民一人々々がなって銃後も前線もガッチリ肚を極める時期は正に来たのだ」
といった調子である。「北条時宗の精神を見習え」と国民の戦意を最高度に高揚している。
ただし、この「元寇の役」は太平洋戦争のように、いきなり日本海軍が真珠湾攻撃して開戦した戦争ではない。モンゴル軍はいきなり攻めてきたのではないく、計6回も日本使者を送り、外交、貿易を迫ってきた。
「モンゴル(蒙古、後に元と改称)帝国」の国王フビライは、従属国、高麗(朝鮮)の高官を、蒙古帝国の使者として、フビライの親書を持たせて日本に計6回も派遣してきた。
最初は 1267年9月(文永4年、南宋 咸淳3年、モンゴル帝国至元4年)のことである。以後、続けざまに
第2回は1268年1月
第3回は1269年3月(文永6年、至元6年)
第4回は1269年9月、
第5回は1271年9月、
第六回は1273年3月(文永10年至元10年)
と1,2年ごとに1度の使者を送りこんできた。
第一回目の1267年(文永4年)というと鎌倉時代は執権・北條政村の時代であり、その一年後に、政村が引退したため、26歳の若さで時宗が執権となった。この時のフビライからの親書は次のような内容である。
「朕がつらつら考えてみるに、古より小国が大国と国境を接している場合には、大国に対して親交を求めてくるものである。まして、わが祖先は天命をうけて天下を支配しており、いかなる遠方の国々でも、わが蒙古の威光を畏れ、徳をしたって来朝するものが非常に多い。
高麗(朝鮮)は朕の東方の属国である。日本は高麗に接近しており、また、日本は開国以来 時折、中国と通じてきたにもかかわらず、朕の時代になって、いまだ一度もわが国に使節を派遣してこない。朕は日本が蒙古帝国の勢力を十分に知らぬためであろうと考え、特に今回使者をつかわして、朕の考えを貴国に知らせ、そしてわが国と誼(よし)みを結びたいと考えている。このような事柄で、兵をおこすようなことになるのは、誰も好まないところである」【小澤四郎『日本人の失敗』(リヨン社 1990年刊)
これを見ると、文面は丁重そのものだが、最後に「あいさつに来なければ兵を起こすことはだれものぞまない」ーと逆説的に、もしよこさなけれは攻めるぞと威嚇している。
蒙古帝国が「元」と国名を改称した後も、このパターンで中国の近隣弱小国に対して「あいさつにこい」と脅し、数多くの国々を朝貢させて属国としてきた。
これに従わなかったのは中国大陸内部の宋と、東の小島国日本だけだった。1267年当時、元は宋を攻めて南方に追いつめていた時期で、残る唯一の日本に朝貢を促してきたのだ。
フビライは執拗に文永の役(1274年(文永11年、至元11年)10月までに計六回にわたり使者を送り親書で朝貢を促したが、幕府の執権・北條時宗はこれを完全無視、フビライ親書(元の国書)を役人に受け取らせるだけで、返書を認めず、一度も元使に会見せず、毎回追い返していた。
時宗は第5回目の使者が来た1271年(文永8年、至元8年)になってやっと、鎮西(九州)に所領をもつ東国御家人に鎮西に行かせて、蒙古襲来に備えるための防衛体制をとったが、幕閣に諮問して対策を立てるわけでもなく、幕閣の要人たちもこれを分析、対策を立てた形跡は見当たらない。
遣隋使(17年回に5回派遣)、遣唐使(12回から20回の諸説がある)の多数の訪中(朝貢)から180度変わった日本側の態度に激怒したフビライは高麗に軍船を作らせ、日本を攻めるべくスパイを送りこみ日本を偵察したと高麗史などに記述がみえる。
ところが、若くしてトップにたち政治的な経綸、戦(いくさ)の経験に乏しかった時宗は世界一の大帝国のモンゴルへの認識に欠き、情報分析もせず、話し合いにも応じなかった無為無策が戦争に発展する。
ついに1274年10月、元兵2万・高麗兵5000による日本攻撃が開始された。文永の役である。元軍は壱岐、対馬を瞬く間に制圧し、九州博多に上陸した。かねと太鼓を合図に火器による元軍の集団戦闘に対して、日本武士の名乗りをあげて一騎ずつ進んでいく戦法はまるで歯がたたず、民衆への虐殺、放火、強姦が相次ぎ日本側は大宰府まで敗退する。ところが、この時、台風によって モンゴルの軍船はことごとく沈んでしまった。「ムゴイ」という言葉は、この時の蒙古の攻撃、残虐性からできた表現といわれる。
結局、文永の役は時宗の無為無策と油断、交渉の拒否が招いたのでる。この猛攻撃の結果に愕然とした時宗は大慌てで、博多に異国警固番役(今でいう軍司令部)を置き、沿岸に土塁を築き、東国から武士を移動して、防衛に当たらせた。
その半年後に、第七回目の元使・杜 世忠(と せいちゅうが降伏せよとの国書を持ってふたたび朝貢を促しに来日した。時宗はこの杜世忠を鎌倉竜ノロ(現在の龍口寺)で処刑した。文永の役の復讐である。時宗はさらにその四年後に来日した第八回の元使・周福も博多で斬殺してしまう。戦争での敵側の軍使、交渉人は、殺さないというのが世界の戦争史上の常識だが、これを問答無用と斬り殺したのである。
この結果、1281年、弘安の役で東路軍(元・高麗軍)5万と江南軍(旧南宋軍)10万が合流して博多湾に来襲。これまた敗戦の中で再び大暴風雨によって偶然、ピンチを救われた。
いずれにしても
- 何度も話し合い、交渉に来ているのに、使者にも合わず、話もせず、交渉,交際も拒否する『コミュ二ケーション不全症
- もちろん敵国情報の収集もぜす、分析、対策も立てない戦略戦術なし。陸続きの大陸国のような国境紛争、戦争の緊張感のない島国根性、そこからくる閉鎖性,交際、交渉拒否、外国人拒絶の裏返しである
- 交渉の使者は身の安全を確保するという戦争ルールの第一条の無知―など異文化コミュニケーション失敗、外交力、国際交渉力の欠如によって、戦争を招いたオウンゴール(失点)であり、敗戦寸前にたまたま2度の台風のせいで、かろうじて侵略を免れたのである。これを勝利にすり替えて、無策の時宗を護国の神に神格化し、台風を神風の称し。『神国日本」を神話を作りあげ、このガラパゴス日本病が約800年続き、現在もこのDNAを克服できていない。
つづく
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