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知的巨人の百歳学(155)記事再録/ 百歳学入門⑱ <日本超高齢社会>百歳元気健康長寿者200人リスト一挙大公開① 2010/01/31 時点での調べですのでお間違いなく。

   

 

  百歳学入門⑱

 <日本超高齢社会>百歳元気長寿者リスト①

 
 前坂 俊之
                (静岡県立大学名誉教授)
 
[100歳以上]
 
泉 重千代120歳(1865年8月20日―1986年2月21日) 元世界最長寿者。フランス人女性ジャンヌ・カルマン(故人)の122歳に抜かれるまで世界最長寿だったが、男性としての記録はいまだ泉が保持で120歳。100歳に達しても心身ともに健康、食欲も旺盛で好きな飲み物は黒砂糖から作られた焼酎。「神様と仏様とお天道様のおかげで長生きできる」が口癖。
 
蟹江ぎん 108歳(1892年8月1日~2001年2月28日) 長寿の双子姉妹「きんさんぎんさん」の妹。100歳になっても毎朝15分ほどの散歩を励行、自宅二階にある仏壇まで階段を昇り降りした。カレイ、ヒラメなどの白身魚が大好物。何にでも興味と関心を示した。「人間、大事なのは気力ですよ。自分から何かをする意欲を持つこと」が長寿の秘訣。
 
成田きん 107歳(1892年8月1日~2000年1月23日) 「きんさんぎんさん」の姉。90歳代で軽い認知症を患っていたが、元気な妹に叱咤激励されて認知症と運動不足を克服、全国的な人気者に。まぐろの刺身と鰻の蒲焼が大好物でほぼ毎日食した。妹に先立たれてから元気を無くす。「悲しいことは考えんほうがええよ。楽しいことを夢見ることだよ」。
 
大宮良平 107歳(1901年10月21日~) 高齢者ランナー。102歳のとき北海道マスターズ競技大会に出場し200、400メートルで100歳クラスとしては日本新記録、北海道新記録を樹立。健康を支えているのは毎朝のジョギングとラジオ体操、そして風呂上りのダンベル体操。入浴後のビール1本が楽しみでこれが食欲を増進させ快眠をもたらすという。
 
大西良慶 107歳(1875年12月21日~1983年2月15日) 京都清水寺の元貫主。15歳で仏門に入り奈良の興福寺、法隆寺で学ぶ。日露戦争で従軍僧として出征した後、日中仏教交流の道を開き平和運動に尽力したほか仏教界の要職を歴任。規則正しい生活を心がけて粗食に徹し、よく眠り、よく働く(人さまのために尽くす)ことが長寿の秘訣。
 
平櫛田中 107歳(1872年2月23日~1979年12月30日) 木彫り一筋を貫いた彫刻家。高村光雲門下。代表作は「鏡獅子」「岡倉天心胸像」「横山大観像」など。91歳で文化勲章を受章。酒も煙草もやらず規則正しい生活に徹する。98歳でアトリエを新築、30年以上も製作ができる彫刻用木材を調達、創作意欲は死の直前まで枯れることがなかった。
 
今岡信一良 106歳(1881年9月16日~1988年4月11日) 大正・昭和期の教育家、宗教家、翻訳家。中学時代にクリスチャンとなり、ハーバード大学で神学を学ぶ。帰国後、日大講師を経て正則学。宗教の根本は同じであると論じ、一宗一派に属さずに日本自由宗教連盟と東京帰一教会を設立する。ジョセフ・メーソン(9-1-20-14)の翻訳を多く手がけた。
 
犬塚稔 106歳(1901年2月15日~2007年9月17日) 映画監督・脚本家。長谷川一夫のデビュー作「稚児の剣法」を監督。カメラマンには後に特撮の父と呼ばれる円谷英二を起用。数多くの映画を監督・脚本し、戦後はテレビの脚本も手がけた。代表作としては勝新太郎の「座頭市」(脚本)など。著作に「映画は陽炎の如く」(草思社)などがある。
 
物集高量 106歳(1879年4月3日~1985年10月25日) 国文学者、作家。父は国文学者の物集高見、祖父も国文学者。東大を卒業後は教師、新聞記者、編集者などを転々とする。父の「広文庫」「群書索引」の編集事業を手伝い、それが復刊されて注目が集まる。「絶望」という言葉が嫌いで、死ぬまで名誉、肩書き、金銭に執着することはなかった。
 
 
近藤康男 106歳(1899年1月1日~2005年11月12日) 農業経済学者。東京帝国大学農学部を卒業後、同大助教授、東京高等農林学校教授を兼任。昭和18年、思想弾圧により大学を追放される。戦後、東大に復職。退職後は武蔵大学学長、農文協名誉理事などを歴任。著書に「農業改革の諸問題」など多数。長寿の秘訣は就寝前の全身10分間指圧。
 
島津久子 106歳(1898年08月08日~2005年5月15日) 昭和天皇の五女貴子さんの義母。山階鳥類研究所理事長島津久永〈ひさなが〉さんの母。保護司として長く活動し、日本更生保護女性連盟名誉会長。エッセイストとしても知られ、著書に「梅のしるしと」「星に花に愛」「深山に白く」などがある。
 
宮崎奕保 106歳(19011125日~20081月5日) 大本山永平寺副貫首・監院、札幌中央寺住職等を歴任。平成16年1月22日曹洞宗管長に就任。著書に「続編 若き仏たちへ」「また逢いましょう」など。「人間はわがままが自由やと思っておる ちゃんと型にはまったものが日常でなければならない」など、宮崎説法、講演会はいつも満員。
 
小倉遊亀 105歳(1895年3月1日~2000年7月23日) 女流日本画家。日本美術院の画家安田靱彦の門を叩き、岡倉天心、横山大観らの先輩後輩と深い絆を結ぶ。70歳代で「径」「舞妓」「姉妹」などの代表作を発表、80代では「天武天皇」などの歴史肖像画の代表作が制作された。上村松園に次いで女性画家としては二人目となる文化勲章を受章。
 
 
小林ハル 105歳(1900年1月24日~2005年4月25日) 最後の長岡瞽女。生後三ヶ月で白内障を患い失明。5歳に瞽女として入門。筆舌に尽くしがたい過酷な荒修行と旅放浪が、強靭な肉体と精神力を培うことになる。晩年は養護老人ホームで瞽女唄全曲録音の作業に携わる。無形文化財、黄綬褒章、第36回吉川英治文化賞を受賞。
 
塩谷信男 105歳(1902年3月24日~2008年3月14日) 医師。昭和6年、東京渋谷に内科医院を開設し、昭和61年84才で閉院するまで、50年以上を医療の第一線に携わってきた。この間、生命線療法と名付けた独自の治療法(真手)により、多くの患者を治療。自ら発表した「正心調息法」の普及にまい進し、執筆、講演にと全国を飛び回っている。        

源豊宗 105歳(1896年10月7日~) 美術史家 。元・関西学院大学教授。美術雑誌「仏教美術」の主幹として活躍。毎号論文を発表する一方、地方美術作品の紹介などに努めた。9~18年京大文学部講師、27~41年関西学院大文学部教授、帝塚山学院大教授などを歴任。編著書に「日本美術史年表」「大和絵の研究」「日本美術の流れ」「日本美術史論究」(全8巻)など        

中川牧三 104歳(1903年12月7日~2008年3月2日) 声楽家。日本におけるイタリア・オペラの草分け。今も現役でオペラを指導している。若い頃からヨーロッパへ留学し、戦前は世界を舞台にテナー歌手として活躍。文化庁長官表彰授受。2005年イタリア政府より日本人として初めて『連帯の星』最高位の勲章「グランデ・ウフィチャーレ勲章」授受。
 
加藤シズエ 104歳(1897年3月2日~2001年12月22日) 日本の女性解放運動家。日本初の女性代議士。日本産児調節婦人連盟、日本家族計画連盟、家族計画国際協力財団の会長などを歴任。戦後初の衆議院総選挙で婦人として初の当選を果たす。「一日に十回感動」し「昼寝は厳禁」。うがいと一日に三合の牛乳を飲むことが長寿の秘訣たった。
 
曻地三郎 103歳(1906816日~) 教育家。しいのみ学園園長。長男、次男の脳性小児まひをきっかけに「しいのみ学園」を設立。重複障害児との生活の中から新しい教育、ユニークな治療教育を確立。福岡教育大学名誉教授など。「曻地式棒体操」と「一日30回噛む」ことで体力増強。毎朝ラジオでハングル講座と中国語講座を聞くのが日課。
 
 飯田深雪 103歳(1903年10月9日~2007年7月4日) 料理研究家・アートフラワー創始者。終戦後間もなく自宅で知人の子女等を対象に料理の講習を開始。同時に造花の講習も始め、自らの造花をアートフラワーと命名する。勲五等宝冠章受章。シラク・パリ市長から「パリ栄誉章」を贈られる。著書として129冊、随筆として6冊を著す。
 
大野一雄 103歳(1906年10月27日~) 舞踏家。現日本体育大学在学中にラ・アルヘンチーナの踊りに深い感銘を受ける。卒業後、体育教師をしながらモダンダンスを学び、やがて内面的な問題を扱う身体表現「舞踏」を確立、75歳にして世界デビューを果たす。「ミケランジェロ・アントニオーニ賞」など受章。車椅子で今なお踊り続ける百歳。
 
片岡球子 103歳(1905年1月5日~2008年1月16日) 日本画家。現女子美術大学日本画科卒。当初より型破りな構成と大胆な色使いに評価は二分したが、従来の日本画風に拘泥されない独自の表現を貫き高い評価を得る。日本芸術院会員。女子美術大学教授などを歴任。代表作に「面構え」「富士山」など。勲三等瑞宝章、文化勲章を受章。文化功労者に選出される
 
北村西望 102歳(1884年12月16日~1987年3月4日) 彫刻家。代表作に長崎の「平和記念像」などがある。京都市立美術工芸学校を経て東京美術学校(現東京芸術大学)在学中に文展入選。東京美術学校塑像部教授、日展会長などを歴任。文化勲章、文化功労者、紺綬褒章受賞。60歳で剣道を学びそれが健康、仕事の面でも計り知れない効果を生んだ。
 
東久邇稔彦 102歳(1887年12月3日~1990年1月20日) 皇族・軍人・第43代内閣総理大臣。久邇宮家(朝彦親王)の第九子。明治天皇の第九皇女の聡子と結婚。フランスに渡り陸大、政治法律学校に通う。帰国後陸軍軍人として大将に。終戦の二日後総理大臣として終戦処理にあたり、晩年は皇族を離れて自由奔放に暮らして百寿を全うする。
 
高木東六 102歳(1904年7月7日~2006年8月25日) 作曲家・ピアニスト。代表作に「空の神兵」「水色のワルツ」など。東京音楽学校ピアノ科に入学後渡仏、山田耕筰の勧めで作曲に転向。シャンソン、ポピュ作曲を数多く手がける。大の演歌・民謡嫌い。一日に40本の煙草を吸い、晩酌も欠かさず。鰻と肉が大好物だったが長寿を全うする。
 
 岩谷直治 102歳(1903年3月7日~2005年7月19日) 岩谷産業創業者。「プロパンガスの父」と呼ばれた。国内で初めて家庭用プロパンガスを市販。またガスホースを使わないカセットボンベ式卓上型ガスコンロも開発。岩谷直治記念財団を設立して文化事業にも積極的に取り組む。著書に「負けず嫌いの人生-私の履歴書」。勲二等瑞宝章受章。
 
阿波根昌鴻 101歳(1901年3月3日~2002年3月21日) 平和運動家。終戦後、故郷である沖縄・伊江島の土地の約六割が米軍に強制接収された際、反対運動の先頭に立つ。「伊江島土地を守る会」の会長。沖縄本島で非暴力による「乞食行進」を行い、米軍による土地強奪の不当性を訴えた。著書に「命こそ宝―沖縄反戦の心」などがある。        

奥むめお 101歳(1895年10月24日~1997年7月7日) 婦人運動家。政治家。大正8年、日本初の婦人団体である新婦人協会に参加。平塚らいてう、市川房江らと共に理事に就任。働く婦人の地位向上を目指して職業婦人社設立。戦後、参院議員に当選し3期務める。主婦連合会を結成して会長に。勲二等宝冠章を受賞し、没後に正四位を追賜。
 
三浦敬三 101歳(1904年2月15日~2006年1月5日) プロスキーヤー。古希のエベレストを始め、喜寿、傘寿、白寿の節目で世界の名峰、高峰をスキーで滑る。百歳のときには息子雄一郎ら親子四代でロッキー山脈を滑る。朝夕は玄米食と具沢山の味噌汁、納豆、漬物が定番。朝の簡単体操と40分ほどのウォーキング、口開け運動で健康を維持した。
 
岡本文弥 101歳(1895年~1996年10月6日) 新内演奏家。俳人、エッセイスト。大正12年に江戸浄瑠璃の一派であった新内節岡本派を再興、文弥を名乗る。「西部戦線異常なし」「太陽のない町」「ぶんやアリラン」などの新作を多数発表。「味噌・人・文学」「長生きも芸のうち-岡本文弥百歳」など著書多数。勲四等旭日小綬章など。
 
 加瀬俊一 101歳(1903112日~2004521日) 元外交官。外交評論家。外務省に入省後アメリカに国費留学、帰国後要職を歴任。国際連盟脱退時には松岡洋右外相に随行。日米開戦時には東郷重徳外務大臣の秘書官。戦後は国連加盟に尽力。吉田茂、佐藤栄作、中曽根康弘の各内閣で首相顧問。戦前戦後の日本外交史の生き字引的存在だった。
 
直原玉青 101歳(190481日~2005930日) 画家。禅僧。南画の第一人者。南禅寺管長柴山全慶老師に師事。大阪美術学校卒業。帝国美術展に初入選後、日展に16回入選する。(社)日本南画院会長・理事長。守口市美術協会会長。黄檗宗国清禅寺住職。財団法人青少年文化研修道場理事など。勲四等旭日章、勲三瑞等宝章を受章。
 
 清元志寿太夫 101歳(1898年4月25日~1999年1月2日) 大正から平成にかけて活躍した清元節太夫。天性の美声と声量の豊かさで邦楽界を代表する太夫・演奏家として知られた。得意演目は「累」「三千歳」「隅田川」など。豪放磊落な性格で酒豪。麻雀、競馬などの賭け事が趣味。大根おろしのシラスあえが毎朝の定番でこれが長寿の秘訣。
 
奥村土牛 101歳(1889年2月18日~1990年9月25日) 日本画家。梶田半古門下の小林古径に師事。日々の写実に徹し、代表作「鳴門」で東洋と西洋の芸術の融合を試みた。
日本美術院理事・理事長。文化勲章受章。実直な人柄で知られ、名誉欲などとは無縁の生活を送る。大の愛煙家。「好きな絵を描いていられれば幸せ」であり、これが長寿の秘訣。
 
有馬秀子 101歳(1902年5月15日~2003年9月25日) バー経営者兼ママ。銀座でバー「ギルビーA」を50年近く経営し、100歳になっても自らママとして接客にあたった。遠藤周作などを始めとする作家、政治家、大企業の経営者などが贔屓にした。毎朝牛乳を2本飲むのが健康法。毎週一度は美容院に通うなどお洒落にも気配りを欠かさなかった。
 
櫛田ふき 101歳(1899年2月17日~2001年2月5日) 女性解放運動家。平和運動家。戦後、婦人民主クラブの結成に参加し初代書記長、委員長。婦団連会長。新日本婦人の会代表委員。原水爆禁止世界大会議長団。著書に自伝「二〇世紀をまるごと生きて」をはじめ「たくさんの足音―その一つが歩んだ道」「素敵に長生き」「八度めの年おんな」など。
 
石井桃子 101歳(1907年3月10日~2008年4月2日) 児童文学作家・翻訳家。作家では「ノンちゃん雲に乗る」「幻の朱い実」。翻訳家では「クマのプーさん」「ヒーターラビット」などが代表的作品。戦前・戦後を通じて子供たちに夢を与え続けた。自宅の一角に「かつら文庫」を開設。第1回芸術選奨文部大臣賞、読売文学賞。日本芸術院賞を受賞。
 
森田茂 101歳(1907年3月30日~2009年3月2日) 洋画家。現茨城大学を卒業後、教員を経て画家を志し上京。「白衣」が東光展で入選。原色を多用した、力強い筆致の重厚な画風が特徴。代表作に「神楽獅子の親子」「阿波人形」「黒川能」など。文化勲章受章、日本芸術院会員、日展顧問、東光会会長。黒川能を描き続けることをライフワークとしている。
 
松原泰道 101歳(1907年11月23日~2009年7月29日) 僧侶。早稲田大学文学部卒業。臨済宗妙心寺教学部長、同派東京龍源寺住職。「南無の会」会長、全国青少年教科協議会理事、仏教伝道協会理事などを歴任。仏教伝道文化賞、禅文化賞を受賞。30年間に130冊を超える著書を著す。代表作に「百歳で説く般若心経」「九十九歳、今日をもっと工夫して生きる」。

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