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大阪地検特捜部の証拠改ざん事件を読み解くために②死刑冤罪事件の共通手口ー検察の証拠隠めつと証拠不開示

   

大阪地検特捜部の証拠改ざん事件を読み解くために
再録『死刑冤罪事件の共通手口―検察の証拠隠めつと証拠不開示』
(月刊『サーチ』1983年9月号掲載
前坂俊之(毎日新聞記者)
 
「死刑から無罪へ」―驚くほど似ている死刑誤判事件の手口
 
免田事件にやっと春が訪れた。三十四年間にわたって死刑確定囚として絞首台につながれてきた免田栄にこの七月十五日、熊本地裁八代支部は無罪判決を言い渡した。
 死刑確定囚から無罪へ。わが国の刑事裁判史上はもちろん初めてのケースだし、世界的にみても極めて数少ない例であろう。
 無実の人間に誤って死刑が下り、三十四年間も死の恐怖に脅え続けてきたのである。正義と真実を具現すべき法律の下で、このような途方もない誤りがまかり通っていたことに戦懐しない人はいないだろう。
 
 しかも、これ一件だけではない。免由事件とまったく同じケースの死刑確定囚の財田川、松山、島田事件の三件がこのあとに続いているのだ。
 誤った死刑が計四件もあり、これから続々〝死刑から無罪へ〟となっていくのは間違いない。 わが国の刑事裁判に対して一大警鐘を鳴らしているといえる。誤った人間を捕え、罰し、なぜ裁判でもそれがただせなかったのか -。警察、検察、裁判の責任は限りなく重い。
 問題点はどこにあり、どうすればこのような恐るべき悲劇をなくすことができるのか。
 
 この明治・大正・昭和の死刑誤判事件のシリーズでは明治以来のわが国の死刑誤判事件を仝調査して、その系層と問題点を一つ一つ浮彫りにしようと努力してきた。これまで明治、大正の死刑誤判事件のほとんど知られなかった事件を発掘し紹介した。とくに、大
正ではまだまだ取り上げなければならない事件は数多いが、今回は免田事件の無罪判決という画期的な出来事のため、連載の順序を変更し、戦後の死刑誤判事件に共通した問題、構造を摘出して、死刑誤判をどうすれば防ぐことができるかを考えてみたい。
 
三審制度の中でからくも無罪になった六件
 
戦後の刑事裁判をふり返ると、l度死刑判決が下り、その後一転して無罪になって確定した事件は六件しかない。次のような事件である。概略だけ記すと -。
幸浦事件
 
 昭和二十三年十一月二十九日、静岡県磐田郡幸浦村でアメ製造業、Hさん一家四人が行方不明になった。現金、衣類などがなくなっているため、強盗殺人、死体遺棄事件として捜査、七十九日目に近くの海岸の砂丘から四人の殺された死体を発見。犯人として、同村、農業Kら四人が逮捕された。
 静岡地裁浜松支部は二十五年四月に近藤ら三人に死刑判決、東京高裁も二十六年五月に控訴棄却したが、三十二年六月、最高裁は事実誤認の疑いがあるとして同高裁に差し戻した。三十四年二月、東京高裁はKら三人に無罪を言い渡し、三十八年七月に最高裁で確定した。
 
松川事件
 
 昭和二十四年八月十七日、福島県信夫郡金谷川村の東北本線金谷川-松川駅間のカーブで列車が脱線転覆し、機関士一人、助手二人が死亡した。現場はレ-ルの犬クギや継目板もはずされており、悪質な列車妨害事件として、国鉄、東芝松川工場の労組員ら計二十人が起訴された。
一審では佐藤一さんら五人に死刑、仙台高裁は二十八年十二月に四人に死刑を含む有罪判決を下した。最高裁は三十四年八月に同高裁に差し戻し、三十六年八月八日、同高裁は全員に無罪判決を言い渡し三十八年九月に確定した。
 
二俣事件
 
 二十五年一月六日、静岡県磐田郡二俣町で無職、0さんら家族四人が刃物で刺され殺害された。二月二十四日に同町のSが逮捕され、二十五年十二月に静岡地裁浜松支部は死刑判決を下した。二十六年九月に東京高裁は控訴棄却したが、最高裁は、二十八年十一月に事実誤認として差し戻した。
 静岡地裁は三十一年九月にSに無罪判決、三十二年十二月に東京高裁は検察側の控訴をしりぞけて確定した。
 
木間ケ瀬事件
 
 二十五年五月七日、千葉県東葛飾郡木間ケ瀬村でブローカー、H方で家族四人が鈍器ようのものでメッタ打ちにされ、ヒモで絞殺されていた。半年後に五百九十九人目の容疑者として、当時十九歳だったAが逮捕された。千葉地裁松戸支部は三十三年九月に死刑判決を下した。
 東京高裁は三十六年五月三十日、Aに無罪を言い渡し、確定した。
 
八海事件
 
 二十六年一月二十四日、山口県熊毛郡麻郷村八海で農業、H夫妻が自宅で殺され、一万数千円が奪われた。近所のY(当時二十二歳)が二日後に逮捕された。「仲間五人でやった」との自供から、Aら四人が逮捕されたが、Aらは犯行を否認、Yの主張する多数犯とAらの主張するY単独犯かー裁判では厳しく対立。
 一、二審では多数犯をとり、Aに死刑、Yは無期(二審で確定)などになった。三十二年十月、最高裁は差し戻し、広島高裁は三十四年九月にAら四人全員に無罪を言い渡した。ところが検察側の上告に対して第二次最高裁は再び同高裁に事件を差し戻し、広島高裁は四十年八月、二転してAに死刑を含む有罪判決を下した。四十三年十月、3度目の最高裁はAら四人全員に無罪判決を出して自判した。
 
仁保事件
 二十九年十月二十六日、山口県吉敷郡仁保村の農業、Yの自宅で家族六人がクワでメッタ打ちにされ、包丁で刺し殺された。約二年後に大阪市内で浮浪生活をしていた仁保出身の元巡査、O(当時四十九歳)が窃盗で逮捕され、約五カ月後に強盗殺人で起訴された。
 公判になってOは犯行を否認したが、山口地裁は三十七年六月に死刑判決、広島高裁も控訴を棄却したが、最高裁は事実誤認の疑いがあるとして、四十五年七月に同高裁に差し戻した。広島高裁は四十七年十二月十四日、Oに無罪を言い渡した。
 
 以上の六件は三審制度の中でからくも死刑判決の誤りがただされ、無罪になったものである。松川事件の最高裁判決では七対六の忘ポ差で仙台高裁への差し戻しが決まった。
 
 わずか一票の良識が死刑から無罪へ道を開いた。しかし、こうした好運な事件とは別に無実を訴えながら、事件の手口、構造、問題点はうり二つの事件が最高裁で有罪が確定したケースも少なくない。今回の免田事件や財田川、松山、島田事件などの再審開始龍なった死刑誤判事件のはかに、福岡事件(二人死刑確定、一人死刑執行、一人は無期減刑)、帝銀事件(一人死刑確定)、三鷹事件(一人に死刑確定、獄中で病死)、藤本事件(一人に死刑確定、執行)、梅田事件(一人に死刑執行、共犯一人は無期判決服役後に再審開始)など数多く報告されている。
 
 ここでは全部のケースにふれるわけにはいかないので、免田事件など六件にしぼってみてみよう。
 これらの事件を一つ一つ比較、検討していくと、驚くほど類似している。事件の名前は違っていかものの、事件の構造、問題点、手口はそっくり同じである。見込み捜査、別件逮捕、長期勾留、自白強要、弁護人選任権・接見交通権の妨害、拷問、証拠不開示、証拠隠めつ、偽証逮捕とデッチ上げの手口はまったく変らない。その単純なパターンにはただあきれるばかりだがもっと深刻なのは、強く批判されながらも、警察も検察もこれらの手口を一向に反省しょうとせず、裁判官の一部もこれを黙認して、相変らず冤罪や誤判が再生産されていることだ。
 
 過去の死刑誤判事件の教訓が十分生かされていない。刑事裁判の深部まで巣くうこうした病根である冤罪の下部構造こそ、もう一虔徹底して洗い出して、自日下にさらさなければならない。
 
冤罪の原因①見込み捜査
 
免田事件では免田がニセ刑事を名乗って、特飲店の女を身請けしたいと話したことが、警察に目をつけられた。正月休みも返上して、免田事件の捜査に血まなこになっていた捜査当局はこの情報に飛びついた。
 免田事件の初動捜査はどのようなものだったか。当時の捜査体制について、捜査に当たった恒松誠元刑事はこう語った。
 「今は証拠から行きますが、当時は犯人が挙がってから証拠とかの捜査じゃなかったですか。犯人を挙げてしまえばホイホイということじゃなかったですか」
 「犯人が挙がるまではどんな聞き込みをしたんですか」との問に対しては、「付近に変な奴が来なかったかというような聞き込みだったようですね」 (昭和五十年十月十六日、弁護側意見書)と答えている。
 免田事件の発生、検挙は刑事訴訟法が昭和24年に改正になる前後である。刑事たちがそれまで身につけていた捜査方法が一朝一夕で近代化するわけがなかった。
 
各刑事は独自の〝ネタ″に固執し、他へは秘密にし、実行する習慣があった。今のような捜査会議もなかった。
二人一組で「怪しいものをみなかったか」という聞込み捜査が中心だった。その網に免田が引っかかった。恒松刑事は免田が捕まった時も何も知らなかった。バラバラに捜査が進行していた。レベルの低い見込み捜査の典型であった。普通、事件が起きると、その地区の前科者、不良グループ、挙動不審者らをことごとくリストアップし、一人一人アリバイをチェックして、つぶしていく。
 殺人事件の被害者、現場鑑識によって出たブツ(証拠)、関係者の直接的な捜査と並行して、大きく網をかぶせて、あぶり出していくこの捜査法は、すべての事件でも行なわれる。
 
 ところが、このやり方にはつねに危険が伴う。物証を一つ一つ確実に積み上げて真犯人にたどりつく科学捜査、-〝真犯人捜査〃とはいえないいからだ。予断と偏見に満ちた捜査員のカンで割り出された怪しい要、容疑者の中から一人一人つぶして、最後に残った者や犯人に一番近い嫌疑者が真犯人に仕立て上げられる危険性が高いのである。いくら犯人に近くても、真犯人ではあり得ない。両者の問に決定的に横たわる物証の欠如というミゾを、ひどい場合には証拠をねつ造までして埋めて犯人に仕立て上げる。こうしたケースも戦前は多かったし、戦後でも少なからずある。それもこれも「見込み捜査」そのものが誤りのスタートになっている。
 
 その端的な例が木間ケ瀬事件であり、仁保事件である。木間ケ瀬事件では、村の疑わしい人物五百九十八人がリストアップされ、シラミつぶしに調ベられた。村の若い者はみんな犯人扱いされた格好だが、犯人らしい者は浮かばなかった。
 
 迷宮入りの可能性が濃厚になり、五百九十九人目の犯人として最後に残された容疑者が、十九歳のHであった。本田は別件のささいな窃盗容疑で逮捕されたが、もっぱら強盗殺人容疑で調べられた。百七日間にのぼる長期間の取調べの結果、ついに自供に追い込まれた。
 仁保事件はさらにひどいケースである。この事件では警察は約二百人の容疑者を調べ、内数人を逮捕した。Oもこの中の一人として、事件後すぐ調べられ「犯行当時、仁保に帰郷した事実はない」として一応シロとされていた。
 
 ところが、その後捜査が難航し、迷宮入りがささやかれた。容疑者の捜査では、O以外はすべて所在が確認された。最後に残った容疑者のOは行方がわからず、決め手の証拠がなかったため、「強盗殺人事件有力参考人」として別件の窃盗未遂容疑で全国に指名手配されね。
 この窃盗未遂容疑は食料雑貨店にドロボウしようとして入ったが、家人に発見されて何も取らずに逃げたというまったく軽微な事件である。
 こうんて、南部は約一年後に、大阪でバタ屋をしているところを仁保事件の容疑者として逮捕された。
 ここでも〃最後の容疑者〃が犯人にされた。容疑者がいなくなると、事件は迷宮入りになる。警察はあせり、何が何でも犯人に仕立て上げていかなければ、というパターンである。誤れる嫌疑者主義の見本であろう。
 
一方、幸浦、二俣、八海事件では地区の不良、前科者にまず見込みがつけられ、強引に犯人に仕立て上げられた。幸浦事件のKは東大教授の鑑定では、知能程度は十歳三カ月ほどの「痴愚」であった。八海事件で多数犯の自供を維持したYも「軽愚」の知能程度で〝調子者〃であった。冤罪や誤判事件の捜査ではいつもこうした諷者のウイークポイントを徹底してせめ上げて、自分たちの筋書き通りの調書をつくり上げていく。
 八海事件の見込み捜査はこればかりではない。被害現場が偽装されたのを多数犯行と見誤ったのである。Yは酒に酔って犯行を行ない、殺害の後、火ばちの灰をぶちまけ、一人を鴨居のロープにぶら下げて自殺に偽装した。
 このせい惨な現場の模様から警察は一人では鴨居にぶら下げる工作はできないと誤断して、「多数犯行」と断定した。Yが単独犯行を主張しても、耳を貸さなかった。
 
 松川事件が起きたのは、戦後の混乱期が続いていた二十四年のこと。事件発生の約一カ月前の七月四日に国鉄は三万七千人の第一次首切りを発表、その翌日に下山事件が起きた。続いて七月十三日に第二次首切り六万人の発表があり、二日後に三鷹事件が発生した。
 こうした大合理化と事件がすぐに結びつけられ、予断に基づく方向性が与えられた。松川事件の発生の翌日には当時の富田内閣の官房長官、増田甲子七の談話で、共産党、国鉄労働者による犯行と断定された。
 
 「今回の事件は今までにない凶悪犯罪である。三鷹事件をはじめ、その他各種事件と思想的底流において同じものである」
 こうして共産党員、国鉄、東芝労組員をねらい打ちにした見込み捜査が大々的に行なわれたのである。
 
冤罪の原因②別件逮捕
 
 見込み捜査が発展すると別件逮捕へと当然行きつく。確実な証拠があり、犯人と結びつけば強盗殺人なり、殺人の本件容疑で逮捕することができる。ところが、犯人と見込みをつけたものの、確実な物証は浮かばない。
 犯人と見込む予断と偏見は逆にますます強くなってくる。誰れでも飲み屋への借金やツケ、ささいなケンカはほじくれば出てくる。それを突破口にして、借金やツケ、物品の貸借が窃盗や詐欺という罪名にスリ替えられ逮捕状が発行される。
 
 別件逮捕はあくまで本件を追及するための身柄拘束の〝トリック〃なのである。身柄を確保して自白を引き出して解決をいそごうとするやり方は証拠の裏付けのない虚偽の自白を生みやすい。証拠→身柄確保(逮捕)→自供というオーソドックスな捜査のまったく逆である。
 
 怪しい(見込み捜査)1逮捕1自供とまでは進んでも、肝心の証拠が出てこない。数多くの冤罪事件では凶器が川ざらいを何日続けて、も発見されなかったり、血痕は逃げる途中に川でせんたくしたため、付着しなかったなどと自白させ、発見されなかった物証のとりつくろいに懸命になる。
 死刑誤判事件をふり返ると、見込み捜査、別件逮捕という誤ったボタンの掛け違いから、一歩一歩抜き差しならぬ状態に陥っていく様子がよくわかる。免田事件では、怪しいとにらんだ免田さんを玄米一俵を盗んだという窃盗容疑の別件で緊急逮捕した。
 これは被害届けだけで、免田さんと結びつく容疑のまったくない別件であった。免田さんは窃盗容疑については知らさ〔れず、もつばら本件の強盗殺人で追及された。
 
 しかも、別件逮捕の身柄拘束時間が切れた後も二十四時間も不法に拘禁されて心た。その後免田は一旦、釈放されたが、今度は強盗殺人容疑で緊急逮捕された。 この逮捕時には証拠資料偲まったくなく、後で資料をつけてつじっまを合わせるという違法捜査が行なわれた。逮捕状を作成した刑事は公判で弁護側の質問に対して「その当時はこれでよかったのですが、今はこういう逮捕手続ではいけないと思います」と非を自らはっきり認めた。
 
 免田事件の初期捜査、逮捕がどんなものだったか、よくわかるであろう。 ところで、他の死刑誤判事件では八海事件を除いて、いずれも窃盗、窃盗未遂、暴行などで別件逮捕されている。その内容をみると、普段なら見過ごされそうなささいな事件ばかりである。
 幸浦事件では、Kが時計を盗んだ容疑、他の2人はガラスの窃盗容疑で逮捕され、習日には強盗殺人を自供した。
 
 二俣事件ではSは①アリバイが不明②Sの窃盗はいずれも宵の口③現場を偽装する手口が似ている④バクチで金に困っていたなどが容疑とされ、窃盗で別件逮捕され、本件で追及されたのである。
 松川事件では共産党、国鉄労組員の逮捕の前に地域の不良グループの一斉検挙が行なわれた。その十一人目として暴行容疑で逮捕されたのが十九歳の元国鉄線路工夫、Aであった。
 
 Aの直接の容疑は松川事件発生前に福島市内の盆踊りで見物人とけんかして、傷害を与えたというもの。この別件逮捕で身柄を拘束され警察の言うなりになった赤間は「A自白なくしては松川裁判なし」といわれるほど詳細な自白を行なった。
 その裏には警察からあの手この手の自白強要があった。「お前は女を強姦しているから、強姦罪などの重い罪にしてやる。みんなの前で強姦の実演をやらせる」とさんざん脅かされた。否認すると「私はAから強姦されました」という被害者のニセの調書を見せられ、「零下三〇度の網走刑務所に送って一生出られなくしてやる」と責められ、ウソの自白調書が出来上がっていったのである。
 
 八海事件ではYが事件発生二日後に逮捕され、Yははじめは単独犯行を自供した。しかし、多数犯行とみていた警察は取り上げず、Yは続いて六人共犯、五人共犯を自供、それに基づいて本件の強盗殺人で阿藤ら四人が次々に逮捕された。
 八海事件の場合は別件逮捕を用いるまでもなく、多数犯行の自供を得たのである。
 
冤罪の原因③自白強要・拷問
 
 見込み捜査、別件逮捕の底には犯人に間違いないという偏見や思い込みが強く流れている。証拠があるから犯人だという客観的・科学的な論法ではなくて、「犯人に間違いないのだが、証拠がない。逮捕して自白させれば証拠がでる。どうせ犯人に違いないのだから…‥」という逆さまの論理である。
このような論法から、自白を引き出すための別件逮捕、さらにには拷問、長期勾留とどんどんエスカレートしていくのは目に見えている。別件逮捕、拷問、長期勾留、弁護人選任権や接見交通権の妨害もすべてが自白を得るための手段なのである。悪しき冤罪のサイクルがここに生まれる。
 どのような取調べが行なわれたのか。
 
免田事件では殴る、けるの暴行も加えられたが、免田に一番応えたのは、夜も寝かせず不眠不休の取調べが、自白調書ができ上がるまでの三日三晩続けられたことであった。他の事件では……。
 
 「正座させ、そのヒザに上がって髪の毛をつかみ蹴ったり、しめつけたりする。往復びんた。殴打、足げり、髪の毛を引っぼる。鉛筆を指の間に入れしめつける。シャツを頭の上にまくり上げて裸の首筋から冷水をたらしてうちわであおぐ。頭をヒモでしばり、そのヒモを腰のズボンにくらがつけ、頭をそらせて座らせておく」 (仁保事件)
 
 「皮のスリッパで頭や顔をメチャクチャに殴り、足でける。夕食も食べさせず取調べ、柔道で半殺しにするまで投げつける。焼火ばしを手や耳におしつけて、ヤケドができた。医師の鑑定では右手掌や左耳翼は太さ約五㍉の棒状の加熱体によるヤケドだと認めた。
 食事は多い時で二回、少ない日は二回、取調べは午前六時半ごろから、夜中の十二時ごろまで休むことなく続けられた。調書への拇印を揖むと刑事が二人無理やり手を押えつけて拇印させた」 (幸浦事件)
 
 「正月の三日間を休んだだけで、冨日間以上も毎朝七時ごろから、夜中の二時、三時まで調べられた。耳を引っばったり、怒鳴ったり、食事の時間も便所に行くヒマも満足に与えられなかった。捜査員のいう通り、そうだといわないと、留置場へ帰して寝かしてくれなかった」 (木間ケ瀬事件)
 
 幸浦事件では焼火ばLによるアザが残って問題になった。 しかし、死刑を維持した二審判決では「その傷が生じた日時、その自他傷の区別は確認し得ず」と拷問には目をつぶって認めなかった。
 幸浦事件でも拷問を指示もたと弁護団からきびしく追及された静岡県警本部の紅林麻雄強行犯主任(警部補)は二俣事件でも主役として登場した。
 この事件では拷問が発覚するのを恐れ、物音が外にもれないように二俣署の土蔵で取調べが行われた。しかし、捜査メンバーの一人、山崎兵八巡査が拷問を内部告発し、法廷で証言した。それによると、紅林は「Sは犯人に間違いないから、相当なやきを入れなければならない」と言明し、Sは体がタコのようにダニャダニャになるまで殴る、ける、くすぐるなどの拷問を受け、二度気絶した。この一身をかけた山崎証言も取り上げられず、山崎巡査は偽証罪で逮捕された。
 
 八海事件のAは次のように自白までのいきさつを告白した。
 「熊毛署へ連行されると、刑事室で五、六人の刑事『白状せい』 『白状しないのなら体に聞いてやる』と数回、こぶしで殴られた。私が白状しないと、警棒で顔、首筋、膝を殴ったので鼻血が出た……。私を裏の道場へ連れていき、板の間に手錠のまま土下座させ警棒で殴り、革靴でヒザを蹴り、線香の火で鼻、耳、首筋をあぶったりした。又、別の刑事は血のついたロープを私の首筋に巻きつけ、首吊りのように持ち上げた。私はこのような拷問と寒さのために、翌日、真実と反する自白をした」
 
 松川事件ではA自白が大量逮捕の導火線になったと書いたが、Aを脅した手口はウソの強姦事件のほかに、Aが〃おばあちゃん子″でおばあちゃんを一番信頼していた点を利用されたり、早朝から深夜までの取調べによる睡眠不足で自白まで追い込まれた。
 
 Aが警察の言う通り虚偽の自白を続けていると、待遇は一挙によくなった。弁当は二人分食べさせられ、ピンポン、将棋のほか、酒まで飲ませてくれた。監房を出て、署内を自由に歩き回るてともでき、驚くべきことに署長が風呂に一緒に入って、背中まで流して、Aのご機嫌をとり、自白を撤回しないように工作したのである。それまでと打ってかわって「警察がこれほど楽しいところとは思わなかった」とAは周囲の警察官に話していたという。
 
 さて、ここに例にあげた七件の事件はいずれも昭和二十年代の古い事件だが、この五月十九日に東京地裁で無罪判決のあった土田・日石・ピース缶事件をみると、拷問、自白強要の構造はさしてかわっていないことがわかる。
確かに、殴る、ける、火はしで焼くといった直接的な肉体的暴力は陰をひそめたが、それに倍する精神的な拷問、脅迫、圧力、偽計ほか、睡眠不足、疲労をテコにしての自白強要のすさまじさは変わってはいない。
 
 自白に頼る弊害を何度も批判されながら、警察の自白偏重の体質は改善されていないのである。
 
 弁護人選任権の妨害で一番ひどいケースは仁保事件でOが別件起訴後に裁判所から弁護人選任の照会が本人に届いたが、警察で一週間もにぎりつぶされていた。その後、Oが国選弁護人の選任を依頼したが、公判が延期になったため、弁護人はつけられない状態が続いた。
結局、Oは逮捕されて、強盗殺人で起訴後に国選弁護人がつくまで約六カ月間は弁護人のない状態が続いたのである。捜査当局はこの間「金もないのに弁護人を雇う資格があるか」と再三の申し出もはねつけて妨害したという。
 
 このほかにも見過ごせない問題点をあげよう。幸浦、二俣、財田川事件などでは真犯人しか知り得ない事実かどうかとして次のような点が争点になった。幸浦事件では警察側は死体を埋めた場所は被告の自供でわかったといい、二俣事件では被害者宅の柱時計のガラスが割れていたのは真犯人しか知り得ない事実なので犯人に間違いない、と主張した。
 
財田川事件では、被害者のキズの二度突きは真犯人しか知り得ない、とがんばった。
しかし、いずれも、警察が知り得る立場にあり、真犯人しか知り得ない事実ではないとして裁判ではしりぞけられた。素人目にも疑問に思うこうした点をみると、警察のお粗末きわまる捜査の実態が端々にあらわれているであろう。
 
冤罪の原因④検察の証拠不開示・証拠隠めつ
 
 ところで、冤罪事件や誤判がたんなる偶然やミスではないことは、証拠の不開示、さらに進んでの証拠の紛失、隠めつなどに一番よくあらわれている。
 冤罪や死刑誤判事件には、決まって最も重要な証拠を検察側が出さなかったり、紛失するケースが続出しているのである。これは冤罪の恐るべき定理になっている。これこそ、検察側の陰謀であり、権力犯罪の恐るべき証拠である。
 
 免田事件では最も重要な証拠物である凶器の鉈(ナタ)やマフラーが廃棄されていて大問題になった。財田川事件では公判不提出のほう大な記録遇山事件では唯一決定的な証拠であるフトンのえり当ての血痕を撮影したネガを警察が紛失した。
 死刑誤判事件ではいつも決まったように事件のカギを握る証拠がなくなったり、消えてしまう。じつに奇々怪々なことだが、ごく常識的に考えてみればこの謎はすぐ解ける。
 
 決定的な証拠がなぜ消えたか、と問うのが誤りで、決定的だからこそ消えると考えればこの単純なミステリーはすぐ解ける。被告の無実を証明する決定的な証拠が出れば、冤罪であり、誤判であることはすぐバレてしまう。
 
 警察側、検察側は何が何でもこの証拠を出さなかったり、紛失したと弁解しなければ、自らのデッチ上げの責任を追及されることになる。こうして決定的な証拠の故になくなるという定理 ができ上るわけだ。
 
 その点で、松川事件での〝取訪メモ″の応酬には証拠不開示、証拠隠めつの内幕が誰れの目にも一番わかりやすい形で暴露された。松川事件の主犯とされた佐藤一は団体交渉に出席していて、アリバイがあった。これを証明する諏訪メモを検察側は押収していながら、
法廷には一切出さなかった。国会などで何度も追及され、しぶしぶ出した。
 なぜ隠して出さなかったのか。 最高検検事は「わいわい騒がれるので、検察の威信が失墜することを恐れて提出した」と述べ 「騒がなければ出さない」とはっきり言明した。
 証拠不開示、それから一l歩進んだ証拠紛失、隠めつに対する検察側の姿勢はこれに尽きるが、他の事件での実態を書いてみよう。
                                、
 幸浦事件では埋められた死体の場所が近藤らの自供から判明したというのだが、結局、警察が前もって死体を埋めた場所を探し当て、後で被告らを誘導した疑いが懐くなり、無罪の引き金になった。
 ところでKらが埋めた場所を自供した日付の調書には.番大切な埋めた場所を記した図面が添付されていなかった。紅林は「図面は書かせたが、紛失してなくなった」と証言した。
 八海事件ではYが捕達され、最初に自分一人で殺したという単独犯行を自供、続いて三回目に六人共犯の調書、四回目が五人共犯の調書と変遷し、結局、五人共犯に落ち着いた。ところで、弁護側はYの単独犯行とみて、二回目の単独犯行をより詳細に自供していると思われる調書の提出を何度も検察側に迫った。
 しかし、検察側は「二回目の自白調書はない。誤って二回目を三回目と書き間違えて、存在しない」と言い続けて結局法廷には出さなかった。
 
捜査段階での弁護権の拡充を
 
 以上、まだまだ多くの問題点があるが紙数がないのですべてにはふれられない。これだけをみても刑事裁判の全過程を貫くこうした数多くの病根が再審法改正といった細部の手直しによって改革できるだろうか。再審の門を無実や冤罪を訴える被告に開放すると同時に、捜査のあり方を抜本的に見直さなければ冤罪の根絶は不可能だろう。
 
 別件逮捕、長期勾留、拷問、自白強要、弁護人選任権や接見交通権の妨害も元をただせば代用監獄にいつまでも被告を収容し、警察の意のままに操ることが可能なことに帰因する。
 
 死刑誤判を生む代用監獄を基底に据えた自白強要の総合的なシステムこそ一刻も早く改革しなければならない。法務省や警察庁が国会に提案している拘禁二法案は時代に逆行するものであり、免罪や誤判を永続化し、今以上に多発させようとするものだ。
 
 冤罪や誤判が現在のように多発したことは戦後の歴史でもない。ということは、現行の刑訴法が三十四年たった現在、現状にあわなくなってきたと同時に、それを運用する側の人権意識に問題があることが一層、鮮明になったといえる。
 古本屋で偶然見つけた司法研修所発行の研修叢書第五十号『日米比較刑事訴訟手続トーバールバット教授セミナー記録』(昭36年刊)をパラパラとめくっていると、次の言葉があった。
 
 バールバット教授はわが国の国選弁護人についてこう述べている。
 
 「日本の刑事訴訟手続の構成は検察側の捜査、取調が完成するまでは被退歩者の勾留を継続して取調を可能にし、その間捜査に対する妨害を弁護士を含めてできるだけ少なくするようにできていると思われる。弁護人が効果的に活動するためには依頼人との自由な交通というものが欠くべからざるものであります。しかるに、日本の訴訟法は検察官がその弁護人の効果的な活動を妨害することを許しているように思うのであります。私はなぜこのようなやり方が好まれるのか、なぜ逮捕後勾留期間中に弁護人が効果的に活動するのを困難にするというやり方が好ましいのか、理解できない」
 
 バールバット教授は、もし米国でこのようなことをやれば証拠は排除されるだろうと述べている。つまり、わが国の捜査や裁判は西欧と比べるといかにおくれて非常識なものかを示しているのである。
 
 結論をいそごう。冤罪や誤判をなくすためには、指摘した問題点をすべて解決しなければならない。そのためには被疑者の取調べに弁護士を同席させるか捜査段階での弁護権の拡充以外にない。それに密室の中の自白の問題をビデオカメラをセットし、被告側の要
請があれば、ビデオテープを法廷に提出して、自白の任意性、真実性をチェックするぐらいの捜査、裁判の公正さを科学的に保証していく制度を検討すべきであろう。
 
 それと最後になって、詳しくふれられないが、国民の常識を裁判に注入するためのの陪審制皮の復活を提唱したい。
 

 - 現代史研究

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