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知的巨人の百歳学(151)ー 東西思想の「架け橋」となった鈴木大拙(95歳)―『禅は「不立文字」(文字では伝えることができない)心的現象』★『「切腹、自刃、自殺、特攻精神は、単なる感傷性の行動に過ぎない。もつと合理的に物事を考へなければならぬ」』

      2019/04/12

東西思想の「架け橋」となった鈴木大拙(95歳)

前坂 俊之(ジャーナリスト)

JR横須賀線北鎌倉駅から降りて、鎌倉側に向かって歩くと、左手に円覚寺の山門がみえ、さらに50mほど歩むと、右手にる縁切寺として知られる東慶寺がある。山門を上り進むと、鈴木大拙のついの棲み家、松ケ岡文庫がある。

その入口前に「自安」という頌徳碑がある。「自安」とは安宅産業の創業者・安宅弥吉の号で、彼への感謝を記した鈴木大拙の碑文である。「財団法人松ケ岡文庫設立の基礎は、まったく君の援助による。自分が研究生活に専念し得たのも君の行為によるところ大であった。欧米国民が禅思想および東洋的物の見方を理解するために、自分の英文の著作が、いくらなりとも役立つものがあったとすれば、それはひとえに、君の精神的物質的支援のたまものである」と。

この碑の横の奥山にはさらに数十段の石段があり、そこに松ケ岡文庫がある。同文庫は昭和20年に設立され、翌21年2月財団法人として認可を受けて発足した。

大正・昭和の思想家のなかで、もっとも長い国際体験を有し、東西の宗教を、禅を媒介に融合しようとしたのは〝Daisetz Suzuki″(鈴木大拙)であり、世界の宗教界に重きをなした。文明の衝突と混乱が続くいまこそ、鈴木大拙の存在がクローズアップされるときであろう。

鈴木大拙(本名貞太郎) は、一八七〇年(明治三年)十月、加賀国(石川県金沢市本多町) の医者の末子に生まれた。父は幼いころに亡くなり、母が苦労しながらが育てたが、その母も二十歳のときに亡くなる。宗教心の強い土地柄とそうした家庭環境があいまって鈴木の信仰心を培養していった。

のちに哲学者となる西田幾多郎とは中学の同級生だった。二十歳で上京し早稲田大を経て、東大哲学科に進み、鎌倉円覚寺の今北洪川、釈宗演のもとで参禅した。二十五歳のとき、釈宗演から「大拙」の居士名を受ける。1893年(明治二十六)、釈宗演が米国シカゴの万国宗教会議に出席する際、釈宗演の演説原稿を大拙が英訳し英語に堪能な野村洋三が通訳として同行した。これが禅が初めて米国で知られるきっかけとなった。

この会議が縁で知り合ったポール・ケーラスの著書『仏陀の福音』を大拙が和訳し、彼に招かれて明治三十年に、米イリノイ州の彼の東洋思想の出版社編集部員となる。ここでケーラスと『老子道徳経』などを英訳し、みずからも『禅と日本文化』などの英文著書を出版して欧米の人々に禅と東洋思想をはじめて紹介した。

米国には通算十三年間滞在し、ヨーロッパでの世界宗教会議にも出席して仏教、禅について講演するなど東洋の宗教を世界に紹介して明治四十二年に帰国した。

〔禅の本質の究明〕

1911年(明治四十四)、東洋思想を西欧世界に翻訳することを志していた米国女性のビアトリス・レーンと結婚し、その十年後の大正十年(一九二一)、五十一歳で大谷大学教授に就任した。

ここで英文季刊誌『イースタン.ブディスト』を創刊し、以後二十年間、夫人とともに研究、出版を続けてきた。昭和十一年(一九三六)には文部省から派遣されて英国オックスフォード大学、ケンブリッジ大学などで禅の講義を行い、国際的に活躍を続けた。大拙は英語の達人で、原稿を見ることなく江戸っ子的な巻き舌の英語で講演を行ったという。
大拙は日本語よりも英語の著作が多い。大器晩成の人である。ビアトリス夫人の協力で英文雑誌「イースタン・ブディスト」を創刊、二十年継続して、五十七歳のときに英語論文集『禅論文集第一』を­刊行、1939年(昭和14)、六十九歳でビアトリス夫人が亡くなると、同年に、『無心ということ』を出版。1943年、七十三歳で名著『禅の思想』を、1944年、74歳で『日本的霊性』を次々に刊行した。75歳の老齢期に入り、普通なら活動を停止する晩年から、世界を飛び回わり講演活動、研究執筆にエネルギーを注いだその活躍ぶりはまさに超人的である。

西田幾多郎の哲学のエッセンスは「絶対矛盾的自己同一」とだが、大拙は伝統的仏教の教義や戒律を否定し、なにものにも囚われない精神的な自由、その概念を「即非の論理」となずけて、それこそが「禅」の本質であると定義した。「私は私である」という意識の同一律を否定し「私は私でない。故に私なのだ」「私が私であるのは、私が否定されて初めてわかる」と主張して、「即非の論理」と名づけた。

また、その宗教的意識を「霊性的自覚」とよび『日本的霊性』と定義した。「霊性とは感性、意欲、情性、知性の心的作用だけでは説明できぬはらき」「水の冷たさや花の紅さやを、その真実性において感受させるはたらきである」とも定義して,その霊性的世界は体験したものでなくてはわからない、と。

禅は「不立文字」(文字では伝えることができない)心的現象なのである。

大拙は滞米13年間を通じて神秘主義思想家・スウエーデンボルグや「超絶主義哲学者」のエマーソン、「森の生活」のソローらが東洋思想、仏教思想から影響を受けて書いた著作を愛読していた。その著作が禅の思想、体験との強い親和性をがあると感じた大拙はその表現法をかりて、西欧人にわかりやすく比喩的に「不立文字」(禪の本質)説明したのである。たとえば、、

「(悟りを開いたあとの生活)は、かつて経験した何物にもまして、より満足な、より平和な、より喜びに充ちたものであろう。春の花はより可憐に、渓流はより冷くより清冽になる」(坂本弘訳『禅学への道』)と表現する。「無心の境地」を彼は空から振る夕立のように考える、海原にうねる波のように考える。夜ぞらに輝く星のように考える。)といった具合だ。

(山田奨治著『東京ブギウギと鈴木大拙』人文書院、2015年、157P)

1944年(昭和19)年のこと。憲兵隊の下士官が松ケ岡文庫を訪れて「この建物は山の中にあり空襲の危険は少ないし、非常に広い。憲兵隊将校の宿舎にするから明け渡してもらいたい」と命令した。

大拙が拒絶すると「日本国民でありながら、軍人に協力せんというのか」と怒鳴った。「わしは、日本はこの戦には勝てないと思う。この松ケ岡文庫は、日本が負けた後で.日本人が立ち直るためのよりどころとなるところです。断じて、明け渡すわけにはいかん」大拙の気迫に押されて引き上げた。次にやってきた憲兵隊上官も同じく圧倒されてすごすごと、引き揚げたという。(志村武『鈴木大拙随聞記』昭和42年 NHK出版)

 

『日本的霊性』の中で太平洋戦争中に「国家のための死」がいたずらに神聖視される風潮を批判

当時は軍国主義が吹き荒れて国民全員に死が強要された。『武士道を間違えて匹夫の勇としてしまった軍人たちの蛮勇と無知を著作を指摘、『日本的霊性』の中で「国家のための死」がいたずらに神聖視される風潮を批判した。

「近頃よく『死ぬる』ということをきく。『死にさへすればいいんだ』と、死ぬことの競争をする傾向もある。純真な心の子供までが、やはりただ死ぬるということに捨て鉢な考えるは間違っている。

当面の仕事に対して全幅の精神を投込む。その仕事に成りきる三昧の境地に入る。無念・無心になる。それに成りきってその外のことを考えない。結果は死ぬかも知れず、生きるかも知れず、そうでないかも知れない。そういうことはどうでもよいので、すべき仕事をする。

 禅者の言葉に『平常心是道』、『無事於心、無心於事』(心に無事で、事に無心なり)という言葉もある。ここには生死ということはない。そのことに成りきれば、無心である。無心であれば無事である、それが平常心である。そこに道がある。非常時もなく平時もなく何時も坦々として、淡淡として行くところ適わざるはなしということでなくてはならん。それで始めてほんとうの安心が出るわけだ。これが『「莫妄想まくもうぞう)、妄想などせずに今やるべきことを成しなさい、という意味の禅語です」

日本は有史以来、未曽有の惨禍となった。国民は茫然自失し、なすすべもなかった。

大拙はこう書いた。「大東亜戦争はほとんど四年に近いほど続いて、最後に無條件降服となった。日本の歴史は今度で大決算せられた、さうして吾等はこれから全く白紙になって新たな道を踏み出さなくてはならぬ。出来るだけ冷静な頭で、虚心坦懐に、科学的に、合理的に、世界性を持った立場から、自らを解剖して見よ。今までの日本人としてではなく、全く客観的な立場からこれからの日本人の行く道をたどらねならぬ」。

日本人の戦争観、ものの考え方についても批判した。

「無条件降参(無条件降伏)、敗戦を終戦と言い換え、文字を弄んで、事実、本質、戦争責任をも忘れてしまう」「戦陣訓』で国民に死を強制しながら八月一五日以降に切腹したものは何人あったか。

軍人を本職とするもののうちではわずかである」。「降参(敗戦)は恥かしいことか、死んでしまはなければならぬことか。死でしまえばすべての事の解決法なのか」。

「切腹、自刃、自殺、特攻精神は、単なる感傷性の行動に過ぎない。もつと合理的に物事を考へなければならぬ」。

「日本では人を戦争の主体としているが、欧米では戦争は力の抗争であり、戦争観は違う」。

「欧米人は降参(敗北)は恥辱ではない、力のないのに抗争を続けるのは非合理である。日本人は人を相手とするが、不思議に人格を無視する」。(鈴木大拙著『東洋と西洋』(桃季書院刊、1948年)の中で「物の見方」)

〔知の世界を飛び回る〕

1945年(昭和二十)八月、日本は敗戦し、GHQ(連合軍総司令部)に占領された。

日本全国に進駐してきた連合軍兵力は最大で43万人に上った。歴史上始まって以来の欧米人の大量入国数で、日本を見るのが初めての兵士たちと外国人と初めて接した日本人の間で空前の異文化衝突が起きた。いわば敗戦日本は「東西文明の衝突」「カルチャーショック」の大規模な実験場となった。占領中に米兵と結婚した日本人花嫁も4万5千人にのぼった。異文化衝突による対立、混乱も多くあったものの、日米間のコミュニケーションは一挙に深まり、相互の思想、文化への認識も深まっていったのも事実だった。

終戦時、大拙はすでに七十四歳に達していたが、東西思想に通じていた唯一の日本の宗教家として晩年になって出番が回ってきた。「ダイセツ・スズキ」が一躍、世界的な注目を浴びるようになる。 1949(昭和24年)からロックフェラー財団の支援で、コロンビア大学や全米各地の大学で講義を始めた。1958年末までの8年間のほとんどをニューヨークで過ごした。正式にコロンビア大教員になったのは52年で客員講師に、研究員を経て57年5月には宗教学の特任教授として「華厳哲学」を講義している。

禅への注目度は大拙中心に進み「ロサンゼルスタイムズ」「ニューヨークタイムズ」「ワシントンポスト」「ロサンゼルスタイムズ」などの新聞各紙や女性誌「ボォーグ」女性ファッション誌「マドモアゼル」」週刊誌「タイム」「ニューヨーカー」(同年8月31日号)に大拙の記事が掲載され、禅ブームが巻き起こった。

「タイム」【1957年2月4日号】は「コロンビア大学の八七歳の鈴木博士による毎週の講義は、詰めかけたまじめな学生と仏教研究者を魅了する。鈴木博士はアメリカでもっとも尊敬されている宗教指導者のひとりである。彼のクラスは、コロンビア大の授業のなかでも、幅広い大勢の学生を集めている」「タイム」【1957年2月4日号】

『記事は仏教と禅の歴史とその教え、禅が中国人と日本人の生活と芸術に影響を与えたこと、大拙の半生を紹介し、その講義風景も禅とはゼロは無限と等しく無限はゼロと等しい。その結果が空である」こういっておわり、、彼の秘書でいつも行動を共にしている、とても若い岡村美穂子という名の日系人女性の腕にそっと寄り掛かかって教室を後にする。」(「ニューヨーカー」(同年8月31日号)。

大拙はこの記事が気に入り「禅は最近、米欧に静かに広がっていて、とくに芸術家や哲学者、心理学者の注意を引き、知的流行くといえるような状況になっている」との手紙を添えて日本の友人に送っている。(以上は山田奨治著前掲書)。

大拙による〝zen″ブームは米国の宗教、思想、ポップカルチャーにまでおよび、ビートルズからスティーブ・ジョブスまで幅広い人びとに影響を与えた。

「ニューヨーカー」に登場する岡村美穂子は日系二世の子であり、美穂子が高校生であった頃、コロンビア大学で八十を過ぎている大潮が講演した。美穂子は五日間通って大拙の話を聞き、さらに大拙の部屋まで行って質問した。大拙は真剣に答えた。その畷かさに惹かれて、美穂子は次第に大拙の仕事を手伝うようになり、やがて美穂子の家で大拙の世話をするようになった。大拙が帰国するにあたって美穂子は、大拙の独り身の不自由さを助けようと、大学を中退し、帰国する大拙についてアメリカから日本にやってきた。

それから美穂子は、秘書から看護婦、あるいは家政も見るといった、大拙の分身的役割を果たすようになる。大拙の晩年は美穂子とともにあった」(『鈴木大拙の金沢』、松田章一著、北國新聞社、2017年刊)
大拙の仏教著書百冊のうち、英文著作は二十三冊にものぼり、欧米への最大の仏教普及者として、大拙禅について世界中から講演依頼が殺到した。

九十歳のとき、インド政府の招きを受けインドにわたり。さらに九十四歳で再び渡印、渡米するなど、最後まで西洋と東洋の思想の架け橋を果たしてきた。まさに知の世界を自由に飛び回る仙人のような禅の悟りを実践、布教する超人的な活躍ぶりである。

「先生は九十になって前向きですからね。つねに新しいものの創造に心をそそがれていた。問題が起きても決してそれを恐れられない。真正­面から解決しようとする。決心が実に早い。ちっとも年寄りぶられない。いつも新しいことに興味を示す。新聞や雑誌でいつも最近のことに関心を持つ。いまの若い人や外人の心理 -どういうことを考えるか、どういうことを知りたがるか。そこからどう説明し、どう理解させようかと、それでつねに頭がいっぱいなのです」

と岡村は語る

仏教の世界的な流れをたどると、インドで生まれた仏教を中国へもたらしたのは唐の時代の三蔵法師(六〇二-六六三) である。これが日本に伝えられて、日本仏教、禅が発展したが、鈴木大拙はこれを一三〇〇年後に西欧世界に伝えたと.いう意味で「現代の三蔵法師」とたとえられた。

大拙が最晩年の日々を過ごした松ケ岡文庫は、北鎌倉の丘の上にあり、百五十段以上の石段を登らねばならない。その石段を日に何度となく昇降し、その飄然とした姿は、まるで雲の上を歩く仙人のようだったという。

この岡村美穂子が語る90歳過ぎでの生活ぶりによると、毎朝六時半頃に起きて、夜は十二時か十二時半頃に就寝。その間、ほとんど執筆活動に専念。健康法は毎朝の冷水摩擦。それ以外­は決まった日課はなかったが、家の中で二階に上がったり降りたり、庭を歩きまわり、それがよい運動になっていた。

食事は、朝はパンとオートミールに紅茶。昼はおかゆと軽いおかず。夜食はなんでも食べ、肉料理や、中華料理も。量は腹八分目が基本。

鈴木の人生観は常に前向きで「生きがいに没頭し続ければ死など考えているヒマがない。死が追ってくるより先へ先へと仕事を続ければよい……」

大拙の長寿と大器晩成の秘訣は、まさに、これであった。

1966年(昭和四十一)七月、大拙は九十五歳の生涯を閉じた。最期の言葉は「ウッドユー・ライク・サムシング?」に対して、「ノー・ナッシング・サンキュー」。「生死一如」(しょうじ いちにょ) 生死を越えた老師の姿がそこに見えた。

 - 人物研究, 健康長寿, 現代史研究

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