日本リーダーパワー史(127)空前絶後の名将・ 川上操六⑱ 国難・日露戦争の勝利の方程式を解いた男
日本リーダーパワー史(127)
川上操六⑱国難・日露戦争の勝利の方程式を解いた男
<日本最高のリーダーシップの秘訣を明らかにする>
前坂 俊之(ジャーナリスト)
今、日本が直面している難問・国難は何ですか
①1000兆円にのぼる財政赤字をどう克服していくか、迫りくる国家破産の危機
にどう対応して行くか
②超高齢化・少子化による人口減少・労働力不足で、2030年には高齢者が
人口の三分の一、労働者人口は3千万人減少し、老衰国家になる。
③このために、平成開国による移民の受け入れ、他民族多文化国家へ脱皮できるか、どうか
④抜本的な行財政改革で、中央集権封建的官僚支配国家から脱皮できるか
⑤国を考える政治家、真のリーダーがいないこと、国家戦略の不在
⑥超大国に驀進中の中国とどうつきあっていくのか、インドをはじめ発展しているアジア、新興国とどう付き合っていくか分からない
⑦グローバルな時代で、次々に起こってくる新しい国際的な難問をどう解決したらよいのかも全くわらない。
以上、分からない、わからない、どう対応してよいのか、右往左往し「僕たちの失敗」をし続けてきたのが、自民党長期政権であり、その後の民主党政権も政治家も官僚もリーダーも知識人もマスコミも全くお手上げの状態なのである。
ここで私が明治の陸軍参謀総長・川上操六を取り上げて、その『国家プロジェクトとしての日清・日露戦争』の勝利の方程式を見ているのは、その方法論に参考になる点が多いからである。
明治のリーダーが直面した国難とは『西欧の列強に植民地にされる寸前のアジアの小国日本』の恐怖であり、亡国への恐怖である。西欧の圧迫から世界にデビューしたばかりの貧乏小国日本をどう守るのか、ロシアの侵略からどう国を守るのかーという日本の歴史上でみても元寇の役に次ぐ最大・最恐怖の難問・国難であった。
現在の国難と比べて、どちらがより深刻な問題であったのかは、言うまでもないであろう。
大航海時代以来500年、アジアばかりでなく、アフリカ、中南米、ロシアの周辺の小国など植民地に蹂躙された国が100%の中で、有色人種の日本が世界史上で初めて西欧の軍事膨張国家ロシアを破ったのである。まさしく奇跡の戦争であり、世界は驚愕した。それまで全く知られなかった日本が一躍、有名になった。
その問題解決のためで明治のトップリーダーの立てた国家戦略プロジェクトが『富国強兵』である。
当時のグローバルスタンダードは経済力ではなく、今のソフトパワーなどではもちろんなく、軍事力で経済をかちとっていく
領土拡張主義のゴリゴリの帝国主義時代なのである。
まず、戦略として
① ヨーロッパに視察団を派遣して、特にドイツの軍政に学び軍事戦略、最新軍事技術を導入し、教官を招いて陸軍大学で士官となり教育してもらった。
② 軍事面だけではなく、明治政府はお雇い外国人を3千人以上も高給で招へいしあらゆる分野でトップにして学び、教育してもらい、思想、技術を取り入れた。今の移民受け入れ拒否の姿勢ではなく、外国人頭脳の受け入れを積極、的にやったことが、成功につながったのである。
③ 日本の政治、行政、官庁の仕組みも西欧のシステムを導入して、自己流に改革していったものであり、リーダー、トップは現実に合わせと組織を次々に変えた。
④ 問題解決能力のもつ組織づくりをトップダウンでおこなったのである。
今の省庁の既得権維持に政治力が全くメスを入れられないというような無力なリーダーではなく、突飛ダウンで組織改変、合併を次々におこない、問題解決型の組織づくりをおこなっている。
以下で、日本最大の行政組織であった陸軍で、いかに戦いに勝利する組織づくりを行ったのか、川上、桂、児玉の「陸軍三天皇のリーダーシップとチームプレー」を見て行くことにする。経済覇権をかけて競争する例えば韓国サムスンなど世界的巨大企業の勝つための戦略とまったく同じものである。
今の民主党の鵜合集団(決して政治家、リーダーの集団ではない)や鳩山由紀夫、小沢一郎、菅直人らのトップリーダーの国益・国民益をそっちのけの派閥・党派抗争、多動性症候群の行動とはまるで違う見事な統率ぶりである。
徳富蘇峰『川上操六』(1943年版)よると、
川上操六が参謀本部次長となったのは、前後二回ある。明治十八(一八八五)年五月から十九年三月が第一回目だが、この時はその経綸を実行することはできなかった。次は明治二十二年三月から三十一年月までの十年間にわたっており、この間は日清戦争を勝利して、次なる日露戦争に備えて川上の才能はフル回転して、勝利の方程式を解いた。
明治十八年六月、ドイツより帰朝すると陸軍少将に進み、すぐ参謀本部次長になった。
わが国で参謀局の設置されたのは明治四年である。その時はわずかに兵部省の一分課に過ぎなかった。六年、参謀局を改めて第六局となったが、翌七年、第六局を廃止して再び参謀局に戻した。しかし、陸軍省の一局に止まり、国防用兵の機能は、軍政長官の担当であった。
明治十(一八七七)年、西南戦争が起こると、軍務はバラバラでうまく機能しなかった。戦乱が平定された後、陸軍当局者はこの反省に基づいて、ヨーロッパ各国での軍令機関の組織に準じて、これを軍事行政より独立させる必要性をみとめた。
このため、陸軍卿山県有朋の発議で、参謀局を廃止して、はじめて参謀本部の組織をつくった。陸軍史上、画期的な参謀機関の独立であった。
当時、参議で陸軍卿の山県有朋はその職を解いて参謀本部長となり、参議で文部卿の西郷従道がかわって陸軍卿となり、陸軍中将大山巌は参謀本部次長となった。明治十一年十二月のことである。
最初の参謀本部の組織は、管東・管西の二局制であった。管東局には陸軍大佐・掘江芳介が局長で、管西局には陸軍中佐・桂太郎がその局長についた。当時、川上は桂と同じく陸軍中佐で、歩兵第十三連隊長であった。
この軍令機関の完整と同時に、この年、監軍本部を置き、陸軍の検閲、軍令を司った。ここで、陸軍省は軍事行政を担当、参謀本部は作戦計画をつかさどり、監軍本部は検閲、教育を掌り、各々その区域を分担し、相互に鼎立して、陸軍制度はここに面目を一新したのである。
しかし、明治維新以来、徳川幕府から踏襲して来たフランス式の兵制を一新して、欧州兵制が模範としたドイツ式の兵制を折衷し、日本の特殊な兵制を作ったのは、明冶十七年、大山陸軍卿一行のヨーロッパ視察、兵制視察の結果をまたざるを得なかった。
大山一行の帰朝後、ドイツより招へいしたメッケル少佐に諮問して、新兵制の調査に着手した。川上が当時、先輩であり、同僚である薩長の諸将を超越して参謀次長の要職についたのは、異例の昇任であった。
当時、参謀本部長は山県であったが、十八年末、官制改革の日、山県は内務大臣となり、大山は陸軍大臣となり、有栖川宮熾仁親王が代りて参謀本部長となった。
しかし、当時の陸軍を押さえていたのは、山県と大山の2人で、山県は内務大臣監軍本部長をも兼任していた。この2人もとで、抜群の才能と、新進気鋭の軍事知識をもってリーダーとして成長したのが桂太郎と川上操六の2人であった。
この2人の間でその足らざるところを補い、軍制改革に貢献したのが当時の参謀本部第一局長・児玉源太郎大佐である。
明治19年3月、児玉大佐が臨時陸軍制度委員長のなると、桂、川上とも審査委員となり、問題は3人でともに協議した。これより、川上、児玉は参謀本部にあり、桂は陸軍次官として陸軍省を牛耳り、3人コンビで兵制と軍政の一体改革が急ピッチにおこなわれた。
その改革の主なものは
① 陸軍省の官制を改革し行政機関の統一と事務の整理
② フランス式からドイツ式へ兵制の基礎を改革した
③ 監軍部を復活して、教育軍政の統一と改善を図った
④ 鎮台を廃止して、師団をもうけて、国軍の編制を変えた。
⑤ 参謀本部条例を改正して陸海軍両部の併置の制度を排してし、軍令機関の統一を計った。
⑥ 陸軍の経費機関を改正し、徴兵令、給与令、その他の諸条例を改正して経費を削減したこと。
⑦ ドイツの兵站制度に倣って兵站条例を創設して兵站機関の運用を図った。
川上の第2次参謀次長時代
明治二二年三月、陸軍参謀本部条例が改正されると、川上は近衛歩兵第二旅団長から、再び次長になり、二十三年六月、陸軍中将に昇進した。
時に川上は四三歳。川上は次長として満を持して、全知全能を傾けて、インテリジェンス戦略を練りに練って帝国陸軍の大発展の原動力となった。
日本の10倍以上の陸軍最強国・超大国ロシアの侵攻を打ち破るため、まさしく『日本のモルトケ、諸葛孔明』となって獅子奮迅の活躍を、
一切秘匿して静かに潜行して、その参謀力を果たしたのである。そのため、政治家のように国民に広く認知されることはなかった。
川上はヨーロッパ視察、ドイツ陸軍参謀総長・モルトケに弟子入りしてその戦略を学んで自家薬籠中のものにした。
明治二七年になって日清戦争が勃発すると、川上の采配よろしく日本軍は連戦連勝で清国を打ち破り、アジアにおける日本の躍進を世界に示した。
それは偶然のたまものではなく、川上の用意周到な準備と、桂、川上、児玉の三本の矢、文殊の智恵、日本のトップリーダーたちの
インテリジェンスの賜物であった。
川上が桂・児玉と共におこなった新兵制改革は、明治一九年以来、山県、大山元帥の一致したバックアップにより、着実に実行された。
参謀本部の改革は、二一年五月、参謀本部條例を廃止し、参軍の下に陸軍参謀本部と海軍参謀本部とを並置することになったが、二二年三月、この両軍制を廃止して新たに参謀本部条例、海軍参謀本部条例を発布し、統一して帝国陸軍の参謀本部とした。
日清戦争では川上が実質的な参謀総長として、陸海両軍を指揮したのである。太平洋戦争での陸海軍の対立、抗争と参謀本部、軍令部の2本だて、バラバラとは大違いの見事な統率力である。
監軍部の改革は二〇年五月、監軍部條例を制定して監軍部をおき、陸軍教育を改革する士官学校校・幼年学校・戸山学校・砲兵射撃学校などを作った。
師団編制の改革は明治二一年五月、鎮台、旅団条例を廃止し、新に師団司令部條例・大隊司令部条例を制定して、同時に騎兵を各師団に配属、工兵中隊を大隊編制に改めた。
これ以外にもたくさんの軍政改革を実施したが、川上、桂、児玉がとともに提携・協力して、帝国陸軍のために努力したものであった。
このように、陸軍部内の新勢力を代表して旧体制を打破し、諸般を改革に当たったのはこの3人だが、山県、大山の二大勢力が彼等と共鳴してその主張を支持したことはいうまでもない。
川上とともに改革の急先鋒の桂太郎(日露戦争当時の総理大臣)は後年、その自叙伝にこう書いている。
『陸軍内部の改良、経費の整理、各種の方面に向って改革できたのは第一に私が登用された後、大山陸軍大臣の信任を受け、また外では、山県伯(有朋)の信用を得た事にある。
あわせて川上、児玉両少佐官と心と一にし、私をすてて公に奉じる決心により、この結果をおさめることができた。
しかし、もし当初、陸軍出身の時、山県伯と主義を同くしていなければ、もとより一層困難だ。また大山伯にしてもし人を見る炯眼がなく、我を抜擢してそのことを企画し得べき地位を与えてくれなければ、これまた困難だったとおもわれる。
また明治十七年に川上少将と同室中でほとんど1年間の光陰を消費し(ヨーロッパ視察で1年間、寝起きを共にしたこと)、この結果、相互の間に、強力、結託する所がなければ、これまた困難であった。
また児玉少将の鋭敏にして、我が主張に賛成し、中において自ら難局に当たりて事の整理をできる基礎を作ってくれなければ、また1の困難を感じたであろう。
これらの数種類の原因が融合して、この事を成し遂げることができたのは第一にはわが帝国陸軍の幸福の本となり、第二にはわが当初からの目的が、達成できたのである。将来のためにここにに記述し置くことは、最も必要ことなりと信ず。」
この日本興隆の基礎を打った明治のトップリーダーのおかげで、今日があることを忘れてはならない。