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日本リーダーパワー史(128) 空前絶後の名将・川上操六⑲ 日清戦争前哨戦のインテリジェンスとは・・

      2015/12/26

日本リーダーパワー史(128)
空前絶後の名将・川上操六⑲日清戦争前哨戦のインテリジェンス・・
      <川上の対中国インテリジェンス網>
前坂 俊之(ジャーナリスト)
 
 
1885年(明治18)5月、川上が参謀次長となって、近衛旅団長にかわり、ドイツに留学すること2年。そして帰朝して再び参謀総長となったのは明治22年3月であった。
川上が支那(中国)問題に関心を示したのは明治9年、陸軍省第二局出仕時代のことで、それ以来、心血を注いで大陸作戦を計画し研究を積み、偵察に偵察を重ね、用意周到、その遺憾なきをきしたのは22年より27年初めであった。
川上は対中国・朝鮮問題には抱負を持っており、明治八年の江華島事件、同十五年、十七年のソウル事件によって朝鮮問題を解決するには最終的には属国扱いしている清国との戦いはさけられないことを十分に認識してした。
 
このため、東アジアの現状の調査に、陸軍当局者とはかって有能な人材を抜擢して、ひそかに中国の要地、奥地に派遣した。
 明治維新以来、アジア政策の先覚者として研究し、身を挺し責任をもって、自ら全権大使として中国・朝鮮問題の解決を主張したのは西郷隆盛である。
明治六年の朝鮮派遣全権大使問題、征韓論を主張したばかりか、大陸作戦の準備として、時の外務卿副島種臣や、参議板垣退助らと謀り、明治五年八月、実地視察のため、北村重頼(陸軍中佐)別府晋介(同少佐)を朝鮮に派遣し、池上四郎(同少佐)、武市熊吉(陸軍大尉)を満州に派遣した。
また明治六年初には樺山資紀(当事陸軍少佐)児玉利国(海軍少佐)福島九成(同)を南清地方に送り込んだ。明治九年頃には、鳥弘毅(陸軍大尉)長瀬兼正(陸軍中尉)向郁(陸軍中尉)らが清国留学生として北京に派遣されて、情報収集の任務に当たった。
 明治17年、安清(清国とベトナムの衝突)問題を中心として清仏戦争の起ると、参謀本部より幾多の将校を派遣された。これより先、福島安正(陸軍大尉)は北京公使館付武官として北京におり、小島正保(陸軍大尉)小沢徳平(中尉)ら3人は南北支那の各地方にあり、青木宜純(少尉)は広東地方に派遣されて、廣瀬次郎と変名して潜伏すること三年、北京で柴五郎(中尉)と共に北支那一帯の地理を踏査し、諜報任務にあたった。
 当時、小沢豁郎(陸軍中尉)は、福州にあって、哥老会という地下組織と結びついて清仏戦争を機に革命運動を企んでいた。
これが陸軍部内に洩れ伝わり、陸軍でも問題視して、柴五郎を派遣して中止させようとした。小沢を待命処分として、とくに軍艦を派遣して本国に護送すべしとの強硬意見もあった。しかし、川上は小沢の心境に同情し、「小沢の計画は実行に着手したものではない。国家のために計画したものに過ぎず待命処分の必要はない」と、小沢をかばったので、小沢は香港に転勤することで1件落着した。小沢とその同志は、川上を大いに徳としたことはいうまでもない。
 
 明治二十年七月、陸軍中佐・山本清堅、陸軍大尉・藤井茂太、同柴山尚則は、参謀本部の命によって北支地方に派遣された。その任務は戦争になった場合の支那沿岸上陸地点の決定、軍隊の輸送方法、上陸後における戦略目標に対する作戦、地形の戦術、戦略上に及ぼす影響の調査であった。
一行は朝鮮仁川にわたり、チーフを経て天津に着いたが、天津には陸軍大尉・渡辺錠太郎が滞在していた。
当事、北京には柴五郎(砲兵大尉)青木宣純(工兵大尉)石川潔太(同)らが日本公使館に滞在してみた。山本、藤井らは北京に留まること十日、北京より永平府街道をへて山海関、その北方を視察した。
藤井らはこの秘密行について、次のように証言している。
 「この長さ二百数十里にわたる旅行が安全であったのは、煙草・仁丹・精銘水・絆創膏のような日本の薬品類を携帯し、村落に休憩し、または夜間に入る毎にこれを中国人に売ったのである。これは現地人の歓心を買うのに大きな効果があった。万一の検査を受けても、手帳、筆記、その他の疑惑をまねくよう物品は一切持参しなかった。必要なるものは、一切、頭に記憶させねばならぬから、その苦心は尋常一様ではなかった」
川上操六と荒尾精
 
川上は中国問題を研究のため、参譲本部を中心として有能な将校を次々に支那各地に送り込み情報収集に努めたが、そのナンバーワンが頭山満に「五百年に一人しか出ない男」といわれた荒尾精(1858~1896)である。(写真は荒尾精)

荒尾は尾張藩士の家に生まれ、廃藩置県によって東京に出て私立学校に入学し、中国語や英語を学び、外国語学校に進み、フランス語を専攻した。陸軍教導団砲兵科に入学。更に陸軍士官学校に入り、明治15年、陸軍少尉となり、16年、熊本第13聯隊付き、18年、転じて参謀本部支那部付となり、ここで川上の知るところとなり、19年春、参謀本部付のまま支那に派遣された。
当時著名な「楽尊堂」本店の店主・岸田吟香の全面的な協力を得ることができたので、大陸奥地の中枢の地・漢口で「楽尊堂支店」を開き、諜報任務にあたった。
荒尾の表の顔は「漢口楽尊堂店長」だが、実際は、参謀本部の海外駐在諜報武官。この漢口は、交通、運輸が揚子江やその大小数十のその支流を通じて中国本土の半分以上の省に広がる物産の集散地であり、大陸の重要な情報基地であった。ここを情報収集の基地とし、宗方小太郎、井手三郎らと共に商業の傍ら、支部を支那の各地に置き、北は北京を中心として、蒙古・イーリーに、満洲に、西南は雲貴などに派遣して風土、気候、人情風俗、農工商、金融、運輸、交通などを調査研究した。
明治22年4月、荒尾は漢口での三年間の諜報活動を終えて帰国し、参謀本部に2万6千字にものぼる復命書を提出した。この復命書には「貿易富国」(支那改造、東亜建設の基礎を樹立せんと欲せば、日支提携の策をこうじ、両国の貿易を振興するにしくはない)の構想が記されており、貿易振興は日中間の急務であり、中国に日清貿易商会を設立して、日清貿易研究所を付属機関として設立し、貿易業務人材の育成を行なうことを提案していた。

ちょうどこの時、川上が参謀次長の職に就いた時であった。
貿易商会設立案は却下されたが、川上参謀本部次長が研究所設立を支持し、4万円の援助金を松方蔵相とかけあって獲得。明治23(1890)年9月、荒尾は日本全国から集った150人の学生と研究所員数十人と共に横浜から横浜丸に乗り込み、長崎を経由し、9月9日、上海に再び降り立った。
この日清貿易研究所の創立では、首相山原有朋、蔵相松方正義、農相岩村通俊、農商務次官前田正名、陸軍次官桂太郎ら政府当局者の援助も少なくなかったが、荒尾の最大の協力者が川上であった。
 上海での日清貿易研究所の創立に際しては、参謀総長有栖川宮とともに川上も列席し荒尾を始め、学生、研究所職員一同を激励したのでる。
二十六年、上海において貿易研究所学生の卒業式があったが、当時、支那旅行中の川上は随員とともに参列しその前途と祝福した。
日清貿易研究所について
日清戦争約1年前の26年6月には日清貿易研究所は八九名の卒業生を送り出したが、以後閉校されてしまった。
馮正宝著「評伝宗方小太郎」(熊本出版文化会館、1997年)によると、「明治二七年七月、かつて日清貿易研究所の所長を務めたことがある根津一陸軍大尉が、参謀本部から中国に派遣されてきた。参謀本部からの密令を受けて上海に到着した根津は、日清貿易研究所の「卒業生」を「特別任務班」として編成して、華北、東北各地に派遣した。これらの 「卒業生」は、戦争中において非常に精力的な活動を行なった。中国官憲に捕えられて極刑に処せられたことが記録にはっきりと残されている者の数だけでも六人に上ったとい本庄繁陸軍大将も『日清貿易研は専ら日清戦争のため設立する感あり』と語っている」
 荒尾は一八八九年(明治22年)四月、日清貿易商会、日清貿易研究所設立の提案をもって帰国し、参謀本部に復命したが、この時提出した「復命書」(明治二二年五月一〇日) 中で日清貿易研究所設立のネライを次のように書いている。(現代文に直す)
① 巧に其計画を施行するため、清国人、外国人の疑いをさける方法は、貿易商業を盛にし、身を商人に扮して常にその仕事をしながら、
人から怪しまれぬず、国内を運動する便宜を図る
② 支部を置いて探偵をおこない、役立つ人物(情報提供)を求めるには、充分なる資金なる資金が必要である。その資金の幾分かを商売の利益によって補ふべきこと。
③ わが国の清国に対する貿易を伸張して、もって我商権を回復すること。
④ 日清貿易商会を設立するのは実に清国に対する第一手段にして、今日の緊急事である。
⑤ ヨーロッパ列強が清国に対して手を下す方法を見ると、大抵このような手段である。
⑥ わが国は近来、商店を清国各地に開き、士官が商売人に扮して探偵に従事させており、その最大のものは、福州、九江、漢口の3ヵ所において茶製造所を設け、その生産高は多く、これをもって探偵の便に供し、北清地方の商権を獲得することを図っている。
⑦ 今日、上海に日清貿易商会を興す事ができれば、漸次これを拡張し、鎮江、広東、天津に幹部を設けて同じく商業に従事させ、その力に応じて
その管轄内の要地に支部を設け、有為にして才幹あるもの1,2人を、支那人の資格に装ふて分派し、土地の便宜により、茶館、宿屋、工業、牧畜
耕作などを開設し、これによって巡回探偵に従事させる。
⑧ 幹部においては各支部を等通じ、上海幹部においては各幹部の連絡を保ち、諸報告類を上海でとりまとめ、本部に送れば、連絡がより緊密になる。
⑨ これで着々歩を進めて事を計れば、七八年ないし一〇年の後、実力、地理の探偵は用意周到に準備できて、有能な人材も集めることもできる。
⑩ ことわざにいわく、『中原正に鹿を逐ふ、惟に高材疾足の者之を獲る』と。今やヨーロッパ諸強国が清国を手に入れて、その事業も日々進んでいる。我れこれをもって先んじてヨーロッパ列強を制せんと欲す。しかし、またこれは容易の業にあらず・・・・・
つまり日清貿易商会と日清貿易研究所設立の動機は「中原正に鹿を逐ふ、惟に高材疾足の者之を獲る」ことにあった。中国分割をめぐる欧州諸国との争いにおいて「高材疾足」の養成することである。一八八八年(明治21年)、漢口楽尊堂において定められた活動方針と一致している。(以上は馮正宝著「評伝宗方小太郎」(熊本出版文化会館、1997年より)

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