現代史の復習問題/記事再録★『山本五十六海軍次官のリーダーシップー日独伊三国同盟とどう戦ったか』★『ヒトラーはバカにした日本人をうまく利用するためだけの三国同盟だったが、陸軍は見事にだまされ、国内は軍国主義を背景にしたナチドイツブーム、ヒトラー賛美の空気が満ち溢れていた。』
2012/07/29 記事再録・日本リーダーパワー史(288)
<山本五十六海軍次官のリーダーシップー日独伊三国同盟とどう戦ったか? >
『日本の破滅の原因は太平洋戦争への直接の引き金となった昭和15年(1940)9月27日に成立した日独伊三国同盟である。約1年後に太平洋戦争に突入した。松岡洋右外相は、米内、山本、井上らのらの海軍、外務省の良識派を一掃して「虎穴に入らずんば、虎児を得ず」と強引に三国同盟は締結した』
敗戦後、『朝日』は「大戦直接の原因の一をなす三国同盟の成立に際してすら一言の批判、反撃も試み得なかった事実は、痛恨正に骨に徹する」と社説「新聞の戦争責任清算」(1945年10月24日)で書いている。
三国同盟の前身が三国防共協定である。第一次世界大戦では敵対した日独両国は1930年代になると米英仏の「持てる国」に対し「持てない国」として現状打破を主張し,ヒトラーが政権を掌握した昭8年(1933年)以降,外交、軍備で急接近して昭和11年11月に「日独伊防共協定」を結んだ。
前年コミンテルンが反ファシズム統一戦線を結成し、日独を仮想敵にしたことへの反発だが,その付属秘密条項ではソ連を仮想敵国としており実質上は軍事同盟に近いものだった。駐独大使館付陸軍武官・大島浩少将が独走して、ナチス外交部長(のち外相)リッベントロップと締結した。大島はヒトラーやリッベントロップの意のままに操られて「駐独ドイツ武官」とまでいわれていた親独派だった。
この2国防共協定は1年後の12年11月には「日独伊防共協定」に拡大したが,ソ連の欧米接近と米英の結束強化を引き起こした。ヒトラー政権はワシントン体制と、第一次大戦後の世界秩序を構成するベルサイユ体制を打破する強硬路線を突っ走った。昭和13年(1938)年3月には、オーストリアを併合、同9月には、ミュンヘン会議での英仏の宥和政策に乗じて、チェコスロバキアの1部を割譲させた。
ヨーロッパにおけるナチドイツの日の出の勢いに、陸軍は意気上がり連携強化に動いた。同年11月、5相会議(近衛文麿首相と、陸・海・外・蔵の5相)でこの強化問題が議論されたが、米内光政海相、有田八郎外相・池田成彬蔵相はそろって反対し、板垣征四郎陸相と激しく対立した。
近衛首相は2年目に入りドロ沼化した日中戦争の処理と同盟問題のとり扱いに悩んだ末に嫌気がさして政権を投げ出し、後任には右翼の総本山の枢密院議長・平沼 騏一郎に決まった。「近衛路線」を引き継ぐという条件で、外・陸・海相をふくめ6閣僚が留任し、昭和14年1月6日、平沼騏一郎内閣が成立した。
三国同盟がヒトラーから正式に持ちかけられたこの翌日である。ヒトラーは対英戦争、ヨーロッパ制覇の野望を秘めており、英国を背後から衝くため日本と軍事同盟を結ぶよう指示、外相になったリツペントロップに大島と秘密協議を進めさせたのである。
その当初のドイツ案では敵国は英仏とソ連を共に対象としていた。陸軍は日中戦争の長期化の背後には英国とソ連による対中支援があるとみていたので、これに全面的に賛成した。一方、海軍、外務省、宮中グループは、独案では英仏米を敵にまわすと、反対した。
すでに陸軍は日独伊の防共強化の世論指導をやっており「日独伊三国親善の夕」を東京の日比谷公会堂で開いたり、ヒトラーユーゲントを大歓迎し、新聞も情報操作してナチス歓迎のキャンペーンをはらせていた。
以上が防共協定から三国同盟への経過だが、これに真っ向から反対した海軍のその中心人物が山本五十六である。山本が海軍次官になったのは昭和11年12月で「日独防共協定締結」からわずか1週間後である。
それ以来、山本は連合館隊司令長官に転身する14年8月31日まで実に2年9ヵ月もの長期にわたって海軍次官を続けた。この間が防共協定から3国同盟への過程と全くダブっている。山本次官は、米内光政海軍大臣、井上成美軍務局長のトリオでスクラムを組み三国同盟に死を賭して反対した。
海軍が三国同盟に反対する理由はこうである。
① 同盟の結果は必然的に対米戦争をまねく。
② 英・仏プラス米国を相手とする危険性は、独伊との握手する利益と比較できない。独は2等国、伊は3等国で、両国とも外交的には全く信頼できない。
③ 海軍はこの同盟は「米国を対象としない」と条約に明記することを要求した。ドイツも陸軍もこれには猛反対した。
④ さらに問題なのは「自動参戦」にあった。相手国が戦争を始めた場合には自動的に参戦する条項に海軍は絶対反対した。
⑤ 井上軍務局長「国軍は他国のために戦わず」と反対し「井上の眼の黒い間は絶対に賛成しない」と答えた。
決められない政治の典型―70回も開かれた五相会議
五相会議は70回も開かれたが、何回くりかえしても、海軍3人トリオは一歩も引かなかった。
反対の急先鋒は井上だが、その背後にドンと座ったアメリカを最もよく知る山本も「これじゃあ、アメリカと戦争になる」と絶対阻止した。
米内海軍大臣も「同盟の如きは絶対に不可。日本は中国に権益のない独伊と結び、最大の権益を有する英国を対決するのは愚の骨頂。米国は黙視せず、米英と結ぶ公算が大きい。自分は職を賭しても阻止する」と一歩も引かなかった。
昭和14年8月の会議では「同盟締結で、英仏米ソ間で戦争となった場合を聞かれると」、言下に「勝てる見込みはありません。日本の海軍は米英を相手に戦争ができるように建造されておりません」と「グズ政」「金魚大臣」だの世間の間違った人物評価とは裏腹に、その真骨頂を発揮した。
この海軍良識派の最強トリオ「米内、山本、井上」が同盟問題で相談し合ったのは、ほんの一度か二度しかなかった。井上は「3人の間では、結論はいつも一致していたし、議論などする必要がなかった」というほどで、互いにツーカーで、国際情勢の変化と予測を正確に判断する軍事的戦略眼を持っていた。
目のまわるような忙しさの中で山本次官の執務は正確、スピーディだった。大抵立ったままで、書類にポン、ポンとハンコをついて決済し、机に未決の書類を残すことはなかった。眼光紙背に徹する井上軍務局長からの書類は見ずにハンコをついた。米内海相も実に適役の大物大臣で、この2人のかん馬を見事に使いこなした。
海軍記者クラブ「黒潮会」を重視、歯に衣着せぬ発言
山本次官は就任と同時に海軍報道の刷新をはかるため、海軍記者クラブ「黒潮会」を重視した。
週に何回かの次官会見もいい加減にお茶をにごさなかった。微妙な質問にも直裁簡明に答えて、機密事項もあけすけに話した。三国同盟に関しても、歯に衣着せぬ反対論を展開した」と当時の黒潮会記者・萩原伯水(元日経記者)は語る(『山本五十六と米内光政―海軍裏面史』(『政治記者OB会報』平成6年8月23日)
また同盟通信・小山武夫記者も次のように回想する。
『山本五十六に私たちが次官官舎で直接接触した印象は、豪放、磊落、頭脳緻密、鋭利な判断力の持ち主であり、眼光が澄んでいて鋭く、そして率直で如何にも頼もしく感じた。ザックバランにものを言い、何物をも恐れない人柄、そういう性格のすべてがストレートに映るので、この会見はいつも楽しみにしていた。
14年7月ごろ、三国軍事同盟の締結問題が海軍の反対でこじれ、米内海相をねらった右翼分子による暗殺計画が発覚した直後のこと、山本次官は「陸軍のバカどもにも困ったものだ。南も討て、北も討つべしなんて騒ぎ立てるが、いったいだれが戦うのか。
海軍は広い太平洋で戦わねばならん。が、五・五・三の比率でやって来た海軍力でアメリカを向こうに回して戦う場合、三で五をどうして破るか。しかも対米戦となれば英の五が当然アメリカ側に加わる。つまり10対3の戦いだ。戦いの帰趨は明白ではないか。こんな簡単な算術の問題が奴らには分からんのだから困りものよ……」(「山本五十六の思い出」(政治OB会報、平成6年1月号)
昭和14年、中野正剛がドイツ、イタリアに日本精神を説きに行くので山本次官をあいさつに訪れた。山本は「この時期に両国に教導に行かれる必要はない。それより日本に敵意を持つ国に行って、ルーズベルトやチャーチルにお逢いくだされて、日本精神を説いてください」と所信を述べた。
海軍内でも下剋上があり、軍務局内の若手が同盟賛成論をぶつと、井上は注意してガリ版で刷らせた、自ら翻訳したヒトラーの『我が闘争』(マイン・カンプ)の問題個所を海軍省内に張り出させた。
当時、『我が闘争』(マイン・カンプ)は国内でもすばらしい勢いで売れており、軍人の間でもバイブル的な存在となっていた。
しかし、井上は原文でよんでおり、日本版では重要な個所が削除されていることを知っていた。
『「日本人は、想像力のない劣った民族だが、小器用でドイツ人が手足として使うには便利だ」という箇所で、いかにもドイツ民族絶対至論者であるヒトラーらしい解釈であった。ヒトラーの日本民族の蔑視が、完全に削除されていた。井上はここを赤鉛筆でアンダーラインを引いていた。日本は世界征覇の夢を追うヒトラーのお使いさんにしか過ぎない役割である』(宮野澄『最後の海軍大将井上成美』文春文庫)
ヒトラーはバカにした日本人をうまく利用するためだけの三国同盟だったのだが、陸軍は見事にだまされたのである。井上はヒトラーの真意を見抜き警告したが届かなかった。国内は軍国主義を背景にナチドイツブーム、ヒトラー賛美の空気が満ち溢れていた。
その熱狂的な日独同盟推進に反対することは、まさに命がけである。海軍省に連日、右翼が押しかけ、建物を取り囲み3人を「国賊!」「腰抜け!」「英米のイヌ!」と悪しざまに罵った。山本次官のところには数十通の脅迫状が舞い込んだ。三人の暗殺計画や怪文書が乱れとんだ。
東京芝浦で、ダイナマイトを所持していた労働者が逮捕され、米内大臣や平沼首相らの暗殺計画を自供、近衛師団が習志野で演習を狙って、皇居防衛訓練部隊が一気に海軍省を襲撃するという情報が流れて緊張した。
このため、海軍では不測の事態に備えて横須賀鎮守府から一個小隊などの兵力を派遣して、海軍省表玄関脇の宿直士官室や構内の東京通信隊で、拳銃武装させえ常時警戒にあたったほどである。
山本を国賊扱いにした雑誌が出された。陸軍,3国同盟論者、右翼は結託しては、山本次官を攻撃する不穏文書、宣伝文書をバラまいて攻撃した。テロが横行していた時代で「山本の暗殺計画」との情報や流された。
山本は万一を考えて遺書を残していた。次のような遺書だが、山本の戦死後、海軍次官室の金庫の中から発見された。
山本の遺書―『述志』
一死君国に報ずるは素より武人の本懐のみ、あに戦場と銃後とを問はんや。
勇戦奮闘戦場の華と散らんは易し、誰か至誠一貫、俗論を排し斃れて巳むの
難きを知らむ。
高遠なる哉君恩、悠久なるかな皇国。思はざる可からず君国青年の計。
一身の栄辱生死、あに論ずる閑あらんや
此身減す可し、此志奪ふ可からず
昭和十四年五月三十一日
於海軍次官々舎
山本五十六 花押
「欧州は複雑怪奇なる新情勢」と辞職した平沼首相
結局、同盟問題の審議に費やされた5相会議数は、平沼内閣が成立の昭和14年1月から8月の緒辞職までの8ヵ月間に70回にものぼった。
この間、日本側は関東軍が5月にノモンハン事件も起こして、ソ連軍に大敗北する。6月下旬には中国天津で英国租界封鎖事件を起こし日英交渉がもめにもめた。
ドイツ側は一向に決まらない日本側に業を煮やして昭和14年5月、独伊2国で軍事同盟を結んだ。8月にはドイツはポーランド問題の悪化を理由にして、突然、ソ連と不可侵条約を結んだ。あきらかに防共協定無視の背信行為で、同盟論議にあけくれていた平沼内閣には寝耳に水、驚天動地の衝撃だった。
8月28日、「欧州の天地は複雑怪奇なる新情勢を生じた」と平沼首相は声明を発して総辞職した。
後継内閣は「陸軍の粛正をせよ」との天皇の意を体し、阿部信行陸軍大将に決まり8月30日、陸相に畑俊六、吉田善吾海軍大将を選び、阿部内閣が成立した。
この結果、林洗十郎内閣以来、2年7ヵ月にわたって日独伊三国同盟阻止に徹した米内、山本、井上のトリオは解消し、山本は連合艦隊司令長官に転じた。
「このまま山本を次官に留めておくと殺されてしまう」という米内海相の配慮からであった。
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