知的巨人の百歳学(119)-『元祖スローライフの達人・超俗の画家/熊谷守一(97歳)』★『文化勲章もきらいだが、ハカマも大きらい。正月もきらいだという。かしこまること、あらたまること、晴れがましいことは一切きらい』
知的巨人の百歳学(119)-
『元祖スローライフの達人・超俗の画家/熊谷守一(97歳)
私は新聞記者時代に春秋の叙勲の取材を何度かした。主に政治家、経済人、公務員、各種団体の長など,功なりとげた人物が年功序列的に、国から褒章が出るわけだが、もらった人は『ありがたがる人半分』、あとは「さしてありがたくもなく、ただし断るわけにもいかず」といった感じであった。
自由を信条としている知識人、学者、芸術家の中にも『学士院会員』「芸術院会員」になるために、運動し、裏から手を回すひ人もあるらしいが、まして文化勲章ともなると、熱心に運動してでも欲しがる人が多いといわれる。
学生時代、福沢諭吉の「独立自尊」を座右銘とし、『天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず』を胸に刻み、このあとに「天は人の上に人をのせて、人を造る」などと酔って高吟したものだ。その後の長い道のりも何とか「強く、正しく、美しく」生きたいと歩んできた。しかし、還暦を過ぎてますます老いさらばえてトボトボ、フラフラ、ずっこけながら古希の峠をやっと超えたが、今や日暮れて道遠しで、タイムアウトに寸前である。
そんなわけで、マイペースで「強く、正しく、美しくを貫き通した元祖ス-ローライフの達人・熊谷翁の生き方にますます共感する。
『(文化)勲章もきらいだが、ハカマも大きらいだ。ハカマがきらいだから、正月もきらいだという。かしこまること、あらたまること、晴れがましいこと、そんなことは一切きらい』
この国の文化風土の中で、全く稀有な超俗な人物、純粋無垢な芸術家なのである。
熊谷は一八八〇年(明治十三)四月二日、岐阜県恵那郡付知村(現付知町)に生まれた。父熊谷孫六は岐阜市長をつとめたのち、衆議院議員になった。中学のとき画家になりたいというと、「芸者と坊主と絵かきはみんなこ乞食だ」と猛反対された。懇願して何とか一八九七(明治三十)年に上京、共立美術学館で日本画を学んだ。
一九〇〇(明治三十三)年東京美術学校西洋画科に入学、青木繁、和田三造、山下新太郎、児島虎次郎(倉敷美術館をつくった大原孫三郎からたのまれて、ヨーロッパにわたり、印象派の作品や多数の絵画、美術品を収集し、その収集品が同美術館の建設の基礎になった)のらが同級生でいた。
熊谷は小さい時から、先生が『えらくなれ、えらくなるんだ』と生徒に訓示するのに異和感を覚えた。何にでも好奇心を持って観察するクセは子供の頃から人一倍強く、小学校時代、先生が一生懸命しゃべっていても、私は窓の外ばかりながめて、雲が流れて微妙に変化する様子だとか、木の葉がヒラヒラ落ちるのだとかを、あきもせずにじっとながめていた。。
先生のいつもの「偉くなれ、偉くなれ」という発言に対して「みんなが、偉くなったら、偉い人ばかりで困るのではないか」と内心、疑問を持った。「そのころから人を押しのけて前に出るのが大きらい」と自伝的エッセー『へたも絵のうち』で回想する。
美校時代に東京・日暮里の踏切で、人が電車にはねられて死んだところに通りかかり、交番に届けもせず一心不乱に写生した。駈けつけた巡査のカンテラまで描いてその絵の写実精神が賞賛された。
美校卒業後、農商務省の樺太調査隊に参加し、約二年間地形および海産物のスケッチに従事した。一九〇八年(明治41)、第二回文展に初入選。翌42年の第三回文展で「蝋燭」が入賞したが、母の死を契機に郷里に帰り、岐阜の木曽山中で木樵(きこり)同然の生活をしながら六年間を過ごした。
モンペ姿は木曽山中に閉じこもり、きこりになっていた頃からの普段着スタイルで、トウモロコシの長いパイプをくわえた姿もこのころから変わらなかった。
6年後、再度上京したが、昼間は雨戸を閉めて寝てばかりで〝閉古ノ画伯″とアダ名され、気が向けば、友人を訪ねて時計の修繕をしたり、一向に絵を描く気持ちにならなかった。
寡作で貧乏しているのに、援助は一切受けず「着物は体を包む風呂敷、飯は尻へ抜ける肥料」と豪語したという。これはどうやら作り話らしいが、「深夜独り鏡に向って、自分の顔を写していると、キリストの顔にも匹敵する、その美しさに打たれる」と有島生馬(画家。有島武郎の弟、里見弴の兄)に話したというから、相当の自信家でもあることは間違いない。
1922年(大正11)、熊谷は42歳で秀子(24歳)と結婚した。秀子は相当、変わった人と聞かされていたので、貧乏覚悟の上での結婚だったが、一緒になるとそれは以上の生活ぶりだった。
明日食べる米がないという時でさえ、飼っている小鳥やネコとずっと遊んでいるかとと思えば、一晩中ローソクの明かりで時計やカメラをバラバラにして組み立てに熱中しており、生活のための絵は一切描かない。窮乏生活が続き、翌年、長男が生まれたが、子供に着せるものがないと訴えると、『風呂敷に穴をあけてかぶせとけ』といった具合で、絵筆は取らず、子供が病気になっても医者に見せる金もないどん底生活が続いた。
昭和三年、次男陽(三歳)を小児の伝染性下痢症の疫痢(エキリ)で、昭和七年、三女(一歳)も肺炎で、さらに1947年(昭和22)に長女(22歳)と愛児三人を連続して亡くした。
陽が亡くなった時、この世にこの子を残す何もないことにハット気づいて、棺の中で花に埋もれたわが子の死顔を夢中で描き続けた。描いているうちに自分が嫌になって三十分ぐらいで止めた。
のちに『陽の死んだ日』と題したこの絵は熊谷の代表作となった。
子供が病気になっても、生活に困った時でも、絵を描いて金にかえるということはなぜか出来なかった。秀子夫人や回りから「なぜ絵を描かないか」と責められたが、守一は「四十年も過ぎた今になっても、胸のしめつけられる思いですが、あのころはとても売る絵はかけなかったのです」と自伝で述懐している。
東京の熊谷の家は1932年(昭和7)に建てられた。老朽化し雨もりがひどいので、昭和49年夏は屋根瓦をふきかえた。それまでは家の中にバケツを置いて何とかしのいだ。
木門をはいると、すぐ庭があり真ん中が築山となっており、クリ、モモ、カキ、クルミ、ねむの木、などが生い茂っていた。ここが雑木林、今でいう小さな里山となっており、中央に小さな池がある。
その横の縁台には小鳥の鳥箱が置かれ、年中、庭に集まってくる鳥のサエズリが絶えない。春夏秋冬と四季折々で、樹木はその姿を180度変える。水飲み場があるので集まる鳥も昆虫も年中、バラエティに富む。生物多様性のある小自然であり、大自然でもある。
熊谷は暖かい時期には庭にゴザを敷き、木のまくらで昼寝をする。夏には木陰で休む、手製のパイプを吸いながら、ゴザの上で昼寝もしながら半日過ごす。何時間でも木々や葉々を眺め、鳥のさえずりに耳を傾け、地面に動き回る昆虫やアリの動きを画家の眼でしっかりと観察した見つめた。
ゴザで横になって水平にアリの動きを観察すると新発見があった。「蟻の歩き方を幾年も見てわかったんですが、蟻は、左の二番目の足から歩きだすんです」
雨の降りかた、軒からの雨垂れ、雨の一滴一滴。その雨を、何年も何年も見つめ続けてきた。単純化の極致の熊谷の絵の1つに「蟻」があるが、こうした何年ものあくなき観察から生れた。庭の植物や動物、風物への愛情のこもった作品となって結実した。
1967年(昭和四42)、熊谷は文化勲章受章者に内定したが、断わってしまった。宮内庁は再三にわたって説得したが、「めんどうで煩わしい」と聞き入れない。
「小さいときから勲章はきらいだったんですわ。よく軍人が勲章をぶらさげているのを見て、どうしてあんなものをべたべたさげているのかと思ったもんです。欲しがっておられる方に差し上げてくださればよい」と最後まで固辞した。
熊谷は勲章もきらいだが、ハカマもきらい。晴れがましいこと、かしこまることも一切きらい。だから正月もきらい。結婚式に招かれてもハカマは着ないで、モンペで通した。世間の損得計算など超越して、熊谷は静かな日々は失われることを一番恐れ、創作三昧の日々を選んだのである。
その翌年、ある新聞で、熊谷は淡々と次のように語っている。
「…犬が横になって寝るのも、猫が病気になると地べたに寝ころんで眠るのも天の理。私はゴザをしいて庭に寝ころんで眠り、アリが走ればそれが絵になる。私は生きていることが好きだから、他の生きものもみんな好きです」でも・・・。
「絵を上手に描こうとは思わない。上手になってどうするんだ。絵は描いているうちにどうなるかわからない。そこがおもしろい。腹が減ったら食う。食うときが旨いので腹がふくれればおわりだ。いまはなにも欲はない。しいて欲しいと思うのは、いのちだけだ」
木村定三氏は『熊谷守一作品撰集』に「熊谷さんの人間像」を次のように書いている。
『熊谷さんの物の考え方も、こと芸術に関しては、人間の上に権威者としての人間を認めないのである。神や仏から〝お前は偉いから褒美をやろう″といわれたならば、熊谷さんも有難くもらうであろうが、同じ人間から〝お前は偉いから褒美をやろう″といわれても少しも有難いという気になれないのである。』どこまでも精神の自由を貫こうとする熊谷さんの面目がここにある。
(以上は濱川博「現代のアウトサイダー」浩文社、昭和50年3月刊から引用させていただいた)
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