日本リーダーパワー史(152) 国難リテラシー⑨最後の首相・鈴木貫太郎、木戸幸一、宇垣一成は敗戦をどうしたか
日本リーダーパワー史(152)
国難リテラシー⑨最後の首相・鈴木貫太郎、木戸幸一・宇垣一成
は太平洋戦争敗戦にどう行動したか
は太平洋戦争敗戦にどう行動したか
前坂 俊之(ジャーナリスト)
鈴木貫太郎 慶応三年(一八六七)生、昭和二十三年二九四八)没。軍人・政治家。侍従長のとき、二・二六事件で襲撃をうけ
九死に一生を得た。太平洋戦争末期、首相として終戦工作を画策し、ポツダム宣言を受諾。
九死に一生を得た。太平洋戦争末期、首相として終戦工作を画策し、ポツダム宣言を受諾。
政治手腕なき終戦内閣
昭和十一年(一九三六) に起きた二・二六事件で鈴木貫太郎侍従長官邸は反乱軍兵士たちの襲撃を受けた。兵士たちは、「理由は何だ」と聞く鈴木の胸や心臓付近、頭などに四発の銃弾を浴びせた。
「とどめを……」と兵士の一人が叫び拳銃の銃口を頚部に押しあてたが、「それだけはやめて下さい」と側にいたたか夫人が必死で制止した。 指揮していた安藤輝二大尉は生き返るまいと思ったのか中止を指示し、血だらけで横たわる仮屍の鈴木に全員敬礼して引き上げていった。
かけつけた医師がすべって転ぶほど部屋は血の海になっており、鈴木の心臓、脈も一時的に止まっていたが、奇跡的に一命は取り留めた。夫人の一言で九死に一生を得たわけだが、もしこの時、鈴木が亡くなっておれば、昭和史は全く違ったものになっていたであろう。
それから九年後。この一度死んだ鈴木が大日本帝国の存亡をかけた土壇場に登場する。一億の日本民族の運命をかけた最後の瞬間をどう処理するか。「戦争継続の玉砕か、終戦か」。昭和二十年四月、戦時終戦内閣を組閣する大役が回ってきた。
天皇から「耳が聞こえなくてもよい。政治に経験がなくてもよいから」とさとされて鈴木は七十九歳の老齢でこの大任を背負うことになった。
天皇から「耳が聞こえなくてもよい。政治に経験がなくてもよいから」とさとされて鈴木は七十九歳の老齢でこの大任を背負うことになった。
この時期、和平や終戦は一切タブーであり、鈴木は和平を深く胸中に秘めて、態度には微塵も出さず「国民よ行け、わが屍を越えて」と訴え、軍を収めることに全精力を集中した。
終戦の聖断を天皇が下すのに鈴木の決断力が大きかった。御前会議で天皇の終戦の聖断を引き出したのは天皇と鈴木の信頼関係によるものであった。
ポツダム宣言受諾の通告は八月十四日午後十一時に連合国に発せられた。十五日正午に天皇の玉音放送による終戦の大詔が出され、内閣は総辞職した。
田園に閑居する
大役を終え鈴木が帰宅した十五日午前四時ごろ、小石川丸山の私邸は兵士ら約百人の暴徒に襲われた。機関銃が乱射され、私邸も焼き打ちされた。車で裏道を通って逃げたため、暴徒とかち合うことなく危機一髪で難を逃れた。
裸一貫、無一文となった鈴木は悪化する治安の中で、暴徒のさらなる襲撃を避けるため住居を三カ月の間に七度も転々と変えた。
二十年十一月、鈴木の故郷だった千葉県関宿で、同町民の強い誘いで帰郷し生活を始めていた。
そこに外務大臣となった吉田茂が訪ねてきた。平沼棋一郎枢密院議長が戦犯として逮捕されたため、その後任にとの要請があった。
枢密院は天皇の国務を審議するところであり、憲法改正を論議するのも同院の役目であった。
当時、GHQは天皇の戦争責任、天皇制の存廃を厳しく問う姿勢をみせており、皇室の危機に対して、鈴木は枢密院議長を引き受けた。
今後の政治姿勢について鈴木は「鯉はまな板にのせられてもびくともしない。負けっぶりをよくやってもらいたい」と吉田に注文をつけた。
鈴木は二十一年六月、天皇の身の上に異変がないことを確かめて枢密院議長を辞任した。以後、再び関宿で一切の公職を離れて、たか夫人とともに静かな生活に戻った。
天気のよい日にはモンペ姿に杖を持って、鈴木は田園をよく散歩していたが、日本で最高ポストについていた人とはとても思えぬ温厚な老人となっていた。深刻な食料不足を何とか解消しょうと付近の農民を集めて、知り合いの農業専門家を呼んで勉強会なども主催していた。
昭和二十三年になると、体力も落ちて散歩の回数もへり、気持ちのよい日は机に向かって「洗心」と揮毫して、訪ねて来る人にわけていた、という。同年三月に入ると先の短いことを悟ったのか、自分と夫人の戒名をいち早く作った。翌月、長くもなかった晩年も終わり、八十二歳で亡くなった。
②東條英機首相を内奏した木戸幸一
木戸幸一 明治二十二年二八八九)生、昭和五十二年(一九七七)没。政治家。昭和十五年以来内大臣として天皇の側近にあり東条内閣成立を推進。戦後、A級戦犯、終審禁固刑、二十八年仮釈放。日記は国民不在の昭和宮廷秘史を明るみにだした。
A級戦犯で服役
昭和五十二年(一九七七) 四月、最後の内大臣・木戸幸一が八十九歳で亡くなった。巣鴨拘置所に入所してから三十二年後のことである。
東京裁判のA級戦犯として昭和二十三年十一月に終身禁固刑の判決が下った木戸は巣鴨に約十年間服役し、仮出所したのは三十年十二月である。
それ以後、木戸は神奈川県大磯町・西小磯の自宅に引っ込んで公職にもつかず、生活のための仕事さえもしなかった。夫人と二人だけのひっそりした隠居生活で、庭いじりや、好きなゴルフ、読書三昧の生活をおくっていた。
昭和史や東京裁判のことについても固く沈黙を守っていた。昭和四十二年まではジャーナリストには全く会わなかった。ちょうど四十一年には木戸が東京裁判で提出した昭和政
治外交史の決定的な資料であるr木戸幸一日記」 (上下) r木戸幸一関係文書」が相次いで出版されたため、新聞、雑誌などのマスコミの取材が殺到したが、一切シャットアウトして語らなかった。
木戸は明治維新の三傑の一人・木戸孝允(桂小五郎) の孫で明治二十二年生まれ。農商務省に入り、昭和五年十月に牧野伸頗内大臣の秘書官長に四十二歳で任命された。
昭和十二年の近衛内閣の文相、厚相、平沼内閣の内相を歴任して、十五年六月に内大臣に就任。元老西園寺公望が米内内閣の後継奏請を辞したため重臣会議の議を経て、第二次
近衛内閣を成立させた。十六年十月には東条英機陸相を後継首班に推挙した。
これが太平洋戦争につながった。もともと日米戦争回避を念願していた木戸は軍部強硬論の筆頭であった東条陸相を「軍を抑えられるのは東条しかない」と毒を制するには毒を
と考え、東条の天皇への忠節心を信じて推薦したが、結果は全くの裏目に出た。
首相候補者を天皇に推薦する重大な任務は、西園寺公亡き後は元老から内大臣の木戸に移っていた。木戸が問われた戦争責任の第一は、この東条の首相への推薦にあった。
仮出獄後の隠遁生活
昭和二十年十二月十六日、木戸はA級戦犯として巣鴨プリズンに拘置された。木戸は天皇に累を及ぼさないため、一切の責任を負う覚悟であったが、内大臣が有罪になれば、天
皇も有罪であるとの米国側の裁判観を知って、一転して無罪を唱えるようになった。
キーナン検事の取り調べに対して、天皇の平和の意思について知るためには自らの日記が一番よいと判断して提出した。木戸は内大臣秘書官長となった昭和五年元旦から巣鴨に入る二十年十二月までの十六年間、毎日欠かさず綴った日記があり、これには政治の内幕、重要決定での天皇と政府、軍部のやりとりが克明に記されており、この「木戸日記」は昭
和の宮廷政治秘史として大きな反響を呼んだ。
木戸はA級戦犯で全訴因五十五のなかで最多の五十四で起訴された。昭和二十一年四月には、米側の政治的な判断で天皇の訴追、証人としての出廷はないことが決定、木戸が東京裁判では天皇の身代わりとして裁かれることになった。
木戸は死刑判決を覚悟していたが、判決では五対六のわずか1票差で無期・終身刑が下った。巣鴨に入った木戸は、それまでの息詰まる日々から解放されて何か重荷がとれた感じで「何もかも失って裸になり、自由に生活できるようになり大いに愉快なり」「退屈するど
ころか大いにエンジョイしている」と日記に書いている。
裁判の間、木戸は聖書を三回読み通したり、英語の小説ばかりを読んで暮らした。服役中に亀子夫人に約五百通もの手紙を出していた。A級戦犯で終身刑の者は十五年服役後に
仮釈放の恩典に浴することになった。対日講和条約が発効して日本が独立後の昭和二十七年八月、一時出所が認められた。木戸は逗子の自宅に自由に帰れるようになり、三、四日間泊まることも許された。
仮出所後の大磯での暮らしでは、近くに吉田茂も住んで居り、二人で食事をすることもあった。天皇が葉山御用邸に来たときは、密かにご機嫌伺いにいっていたという。
大好きだったゴルフは長年の獄中生活での空白で腕はすっかり落ちていたが、縁戚にあたる作家・獅子文六らと楽しんでいた。
③政界の惑星・宇垣一成(陸軍大軍縮を実現)
字垣一成 明治元年1886生、昭和三十一年(一九五六)没。軍人・政治家。田中義一の後継者として陸軍に派閥形成。加藤高明内閣以来、前後五年陸相を務め大正十四年軍縮断行。三月事件に関与。戦後参議院議員
大正末から昭和初めに五期にわたって陸軍大臣をつとめたのは、近代日本の政治史上、後にも先にも宇垣一成(かずしげ)一人である。
宇垣は三年余の陸相在任中に四個師団を廃止し、将校以下約三万四千人の軍人を整理するという陸軍史上、空前絶後の大軍縮を断行した。
その果敢な実行力、政治的手腕は高く評価され、「帝国陸軍の惑星」から「政界の惑星」として、その株はうなぎのぼりで、将来の総理候補として国民的な人気を博していた。
しかし、首を切られた軍人や反宇垣派、右翼の一面には、「陸軍の裏切り者」、世論や政党に媚びるものとして宇垣を深く憎悪し、呪岨した。これが後にハネ返ってくる。
昭和六年(1931年)に起きた軍事クーデター3三月事件では、永田鉄山軍事課長がクーデターの筋書を書いて、宇垣を首相に担ぎだそうとした計画で、宇垣本人も当初は決意をみせていたが、態度を変えて事件は未遂に終わった。これが後の皇道派、統制派の対立に一層油を注ぐことになる。
宇垣本人は大変な自信家で、この国難の日本を救い、陸軍を抑えられるのはわれ一人との強い自負心と決意をますます固めていた。
昭和十一年の二・二六事件の後、宇垣は五年間務めていた朝鮮総督を辞任して、さっさと静岡県・伊豆長岡温泉の別荘l「松頼荘」に引っ込んだ。ここで悠々自適の生活を送りながら、総理指名が転がり込んでくるのを虎視眈々と狙っていた。この時、宇垣は六十八歳である。
宇垣の見込み通り、約一年後の翌昭和十二年一月、組閣の大命が下った。宇垣は意気揚々と宮中へ参内したが、宇垣の組閣には足元の陸軍中堅幕僚が猛反対した。「三月事件の責任、軍線に対する不備、宇垣の政党化」が問題視され特に陸軍参謀本部の石原莞爾作戦課長らが強硬に反対して、陸軍大臣を出すことを拒んだ。
実行力があり、断固遂行する宇垣は陸軍の中堅幹部に嫌われ、操縦しやすい林銑十郎大将を支持したのである。宇垣は涙を飲んで、五日目に拝辞し、宇垣内閣は幻に終わってしまった。
全国区でトップ当選
宇垣のチャンスはあっけなく逃げてしまい、人生最大のドラマは終わった。
しかし、その後も宇垣の政治への情熱は冷めるどころか、燃え続ける。最後まで政治の世界に執着し、出番を待ち続けた。同十三年五月には近衛内乱の外務大臣に就任、その後拓相を兼務した。太平洋開戦には熱烈な支持を表明した。
宇垣が晩年閑居した「松篇荘」は、部屋数四間の質素な別荘で、かって名妓でならした四十歳以上も年の離れた佐野ふみとともに暮らしていた。
毎朝、近所の旅館業を営む熱烈な支持者と一緒に散歩していた。日記は一日も欠かさず、政治、国際情勢を勉強し続けていた。
その日課は早朝に起床、一時間ほど散歩後に入浴し、午前中は勉強する。午後は再び散歩して山を歩き、富士山を眺める。温泉に入って神経痛の持病を直す。来客があると誰とでも気楽に会う。悠々自適な生活をしながら、出番をうかがっていた。
敗戦。昭和二十一年三月の宇垣は満を辞して衆議院選挙に立候補したが、公職追放令に引っかかってしまい断念した。
同二十八年の参議院選挙では故郷の岡山ではなく、伊豆長岡から初の全国区で立候補して、五十一万三千票の最高点をマークして当選した。この時、宇垣はすでに八十六歳となっていた。
有権者から「まだ宇垣は生きていたのか」と驚きを持って迎えられたが、軍閥によって倒された宇垣の悲運に対する同情票が集まったのである。宇垣は参議院の緑風会に所属したが、老齢で議会活動はほとんどできず、三年後の昭和三十一年四月三十日に八十九歳で亡くなった。
「あれほど国民的な人気がありながら、ついに志を得ることなく不遇に終わったゆえんのものは、ひとえに毀誉褒貶が激しかったからである」とは美土路昌一「朝日新聞社長の宇垣評である。
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