前坂俊之オフィシャルウェブサイト

地球の中の日本、世界史の中の日本人を考える

*

★『世界日本史/歴史メモ➀』-『西郷隆盛(南洲)のおもしろエピソード』★『お妾さんを囲うのではなく、猟犬2頭を飼っていた西郷どん』★『元勲となっても長屋に住む』

   

 

藤田東湖と橋本左内を高くい評価した西郷隆盛

 

西郷隆盛が江戸の鹿児島藩の屋敷に住んでいた頃のある日、旧友や力士を集めて、庭で相撲をとっていると、取次の者が来て、「福井藩士で橋本左内という人が見えて、ぜひお目にかかりたいと申されています」と伝えた。

一室に案内させ、西郷が着物をきかえて会うと、左内は20歳あまりの、色の白い、女のようなやさしい若者だった。隆盛は内心、これはさほどの人物ではあるまいと見くびって、丁重に扱わなかった。

左内は軽蔑されていると思ったが、気にせず、「あなたがこれまで国家の事にいろいろお骨折りになっていると聞いて、おいたわしく思っておりました。私もあなたの教を受けて、及ばずながら、国家の為に尽したいと思います」と訴えた。

隆盛はそしらね顔で、「いや、それは大へんなお間違です。私のような馬鹿者が国家のためをはかるなどとは、思いもよらぬこと。ただ相撲が好きで、ごらんの通り、若者どもと一緒に、毎日相撲をとっているばかりです」と答えた。

左内は動ぜず「あなたの御精神はよく承知しています。そんなにお隠しなさらず、どうぞ打ち明けていただきたい」と真心こめて、話した。

隆盛は黙って聞いていたが、その見解にすっかり感心した。隆盛は左内が帰ってから、友人に向い、「橋本はまだ年は若いが、意見は実にりっはなものだ。外見があまりやさしいので、はじめ取りあわなかったのは、自分の大きな過ちであった」と述べた。

隆盛は翌朝すぐに左内をたずねて行って、「昨日はまことに失礼を致しました。どうかおとがめなく、これからはお心安く願いたい」と詫びたという。

それから二人は親しく交り、心をあわせ国家のために尽した。左内が死んだ後まで、隆盛は「学問も人物も自分がとても及ばないと思った者が二人ある。一人は先輩の藤田東湖で、一人は友人の橋本左内だ」と語っていた。(『尋常小学修身書巻五児童用』一1930年年10月刊、文部省発行)

婦人の来訪者も引き受けん

西郷隆盛が京都にいたころ。食客数人を養い、家にいるときは極めて謹厳、外出する時は必らず上下を着用する。食客が謹厳に過ぎるのを怪しみ、あるに日、尾行した。

南洲それとは知らず悠然と闊歩して、四条橋を渡り遂に祇園の青楼に上った。食客は始めて理由がわかり家に帰って,南洲の帰宅を待った。深夜になって南洲は帰ってきたが、例によって謹厳そのもの。

食客は笑をこらえながらその行先を尋ねた、南洲は「本日重大の用件あり、大久保の寓を叩いたのだ」と答える。

食客すかさず、いつ、大久保さんは祇園新地へ御移転になりましたかと皮肉くると、さすがの西郷も頭をかき「お前はそれを知っちょるかい」と大笑したという。

やはり、京都にいた頃、大久保の寓居に、毎日のように幾人もの浪士がきて大激論の末、激怒して刀を抜いて詰め寄る者もあり、利通は弱り果て西郷に相談した。

南洲いわく。「暴論家を御することは、今後、おいどんが代って応接する。しかしながら、婦人の来訪者もまた我れが引き受けん」と答えて大久保を閉口させたという。

 

江戸へ来て南洲が酒井侯の邸内に寓居していた頃、書生が毎日玄関先きで西郷に「先生、今日はいずれへお越ですか」と聞くと南洲は微笑しながら「そう毎日追及されても困る、おいどんだって男だもの、時には遊びもするさ」と答えた。

元勲となっても長屋に住む

西郷は朝廷に居た頃でも、弁当は握飯の上へ味噌を塗って竹の皮に包んで来たが、野に下って帰宅の後は昼食は毎日、薩摩芋(サツマイモ)1個までであった。住宅などもは一切かまわず、日本橋の蛎殻町(かきがらちょう)に三千坪(5400平方m)の地所を買ったのはよいが、長屋を十数軒も建てて、その一部に住んで平気であった。

岩倉具視公がある日きて、元勲にふさわしい邸宅に建て直すように勧めたところ、南洲は笑って田舎の家は「なお、キタナイ」と、澄ましたものだったという。

  • お妾さんを囲うのではなく、猟犬2頭を飼っていた

    また、その時分の頃、家内に女がいなくては不便だから郷里の妻を迎えるか、そうでなければお妾(めかけ)でも匿ったらと、大久保利通と岩倉公も勧めた。すると南洲は「モーとっくに、お鶴、お松と言う二人を持っておる」と笑った。不思議に思いつつ、その女をみて驚いたのは、美人ではなくて大きな猟犬だったそうだ。

  • (寺師宗徳「嗚呼老西郷」『日本及日本人』南洲号、1910年9月刊)

 - 人物研究, 健康長寿, 戦争報道, 現代史研究

Message

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

  関連記事

『オンライン講座/ 初の現代訳『落花流水』一挙掲載 ―ヨーロッパを股にかけた大謀略 「明石工作」の全容を記した極秘文書 小説より面白いスパイ報告書。

『日露インテリジェンス戦争を制した天才参謀・明石元二郎大佐』(前坂俊之著、新人物 …

no image
速報(111)『日本のメルトダウン』<小出裕章情報2本>『原発は巨大な「海温め装置」-エネルギーの3分の2は海に棄てられる

速報(111)『日本のメルトダウン』 <小出裕章情報2本>『10シーベルトの被曝 …

no image
『リーダーシップの日本近現代史』(334)-『新型コロナウイルス/パンデミックの研究①-日本でのインフルエンザの流行の最初はいつか』★『鎖国日本に異国船が近づいてきた18世紀後半から19世紀前半(天明から天保)の江戸時代後期に持ち込まれた(立川昭二「病と人間の文化史」(新潮選書)』

  2020年4月22日                     前坂 …

no image
「エンゼルス・大谷選手の100年ぶりの快挙」★『「才能だけでは十分ではない。挑戦する勇気が人々の心を変える」』★『ニューヨークタイムズ特集「日本ハムで入団交渉を担当したスカウトが、ミケランジェロやアインシュタインのように何でもできる天才と評価していた』★『連載「エンゼルス・大谷選手の大活躍ー<巨人の星>から<メジャーの星>になれるか」①『A・ロドリゲス氏は「これは世界的な物語だ」と絶賛』』

「エンゼルス・大谷選手の100年ぶりの快挙」   新型コロナ禍で世界中 …

『リーダーシップの日本近現代史』(65)記事再録/ 日本国難史にみる『戦略思考の欠落』(55)『三国干渉』後に川上操六はスパイ大作戦をどう組み立てたか『日英同盟締結に向けての情報収集にエース福島安正大佐 をアジア、中近東、アフリカに1年半に及ぶ秘密偵察旅行に派遣した』

    2016/02/25 &nbsp …

no image
速報(209)●『漂流する先進民主国家―なぜ日米欧は対応できないか』●『ソロス氏「EUの分裂は国際金融システムにとって破壊的」

速報(209)『日本のメルトダウン』 ●『漂流する先進民主国家―なぜ日米欧は危機 …

no image
<まとめ>『坂の上の雲』の主人公―名将・児玉源太郎を研究せずして『日露戦争勝利』を知ることはできない。

<まとめ>児玉源太郎について   ―『坂の上の雲』の主人公― 明治陸軍 …

日本リーダーパワー史(541)サッカーアジア杯のUAE戦での敗北に『死に至る日本病』を考える①

  日本リーダーパワー史(541) ①サッカーアジアカップの準々決勝U …

no image
最高に面白い人物史⑩人気記事再録★『全米の少女からラブレターが殺到したイケメン・ファースト・サムライ』-『大切なのは英語力よりも、ネアカ、快活さ、社交的、フレンドリー、オープンマインドだよ』

2004、11,1 前坂俊之(ジャーナリスト) 1860年(万延元年)6月16日 …

no image
百歳学入門(171)-『生死一如ー 鈴木大拙師(96歳)を偲んで』★『敢えて、今日から明日へ、来年また来年と、将来に希望をかけることが私の九十三歳の健康法だ』●『特別に健康のことを考えて暮らすわけではないが、わしは過去のことは考えんな。いつも未来のことを考えておる。あれをしなくてはならぬ、これをしなくてはならぬとな』

 百歳学入門(171)-生死一如   鈴木大拙師(96歳)を偲んでー敢えて、 今 …