前坂俊之オフィシャルウェブサイト

地球の中の日本、世界史の中の日本人を考える

*

百歳学入門(190)『日本画家・小倉遊亀(105歳)-『「老いて輝く。60代までは修行、70代でデビュー、百歳』★『人間というのは、ほめられるとそれにしがみついて、それより上には出られないものですね』★『まだダメ、まだダメ。こう思い続けているので年をとらないんですよ』★『いいなと思ったときは物みな仏』

   

百歳学入門(190)

 

105歳 日本画家・小倉遊亀 (1895年3月~2000年7月)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%80%89%E9%81%8A%E4%BA%80

日本美術院の画家安田靫彦の門を叩き、岡倉天心、横山大観らの名だたる先輩後輩と深い絆を結んだ。女性画家として最長寿である。

70歳代で「径」「舞妓」「姉妹」などの代表作を発表、80代で「天武天皇」などの歴史肖像画の代表作を制作した。85歳のとき、上村松園に次いで女性画家としては二人目となる文化勲章を受章した。

小倉は滋賀県出身、1917(大正6)年に奈良女子高等師範(奈良女子大)を卒業、横浜の捜真女学校に奉職し、1920年に画家安田靫彦の門を叩き、そこで岡倉天心、横山大観らの名だたる先輩後輩と深い絆を結んだ。

若い頃の遊亀は絵画制作、母親の看病、教師と多忙な日々を送りながら、日本画に打ち込んだが、神経質で内面的な悩みが尽きなかった。

安田先生からのアドバイスはほとんどなかった。画を見てもらっても、何も言わず黙って返すだけ。思い余って「私には絵の才能がないのでしょうか」と恐る恐る尋ねると、途端に「そんなことは、あなたが死んでからあとの人の言うことです、生きている間に人の言うことはあてになりません」と叱られた。

才能があると言って欲しいための甘えからの問いかけを小倉は後年、恥ずかしかったと回顧する、27歳の時のことである。

ある時、もの言わぬ安田師から

名言「一枚の葉っぱが手に入ったら、

宇宙全体が手に入ります」

と哲学めいた、禅問答風な教えを受けた。遊亀がこの言葉の真の意味を体得できたのは数十年後の老境になってからだった。

33歳で院展に初入選し、1932(昭和2)年に37歳で女性初の日本美術院同人となる。

1938年、43歳の遊亀は禅の大家・山岡鉄舟の晩年の高弟・小倉鉄樹と結婚し、たが、以後鎌倉に住んだが、鉄樹は3年後に亡くなり、短い結婚生活となった。禅道場の小林作雲のもとを訪れるようになってから、煩悩から次第に開放され、自由な境地で絵画制作にも専念できるようになる。

名言「人間というのは、ほめられるとそれにしがみついて、それより上には出られないものですね。若い頃の私もそんなふうで、描けども、描けどもこんなはずではないと思いながら、同じことの明け暮れの時がありました。」

と回想する。

それからの40代、50代はまさに画家としての基礎体力作り、精進に費やした日々であり、やがて冒頭の言葉へと結実していく。

彼女自身、人生で最も充実したのは70歳代であると回想、76年に81歳で日本芸術院会員にえらばれた。

80年に85歳で文化勲章受章。人物、花鳥画にあって古典を基礎に近代感覚あふれたすがすがしい作風を展開し画壇の頂点に上りつめた。その原動力はなによりも長寿力であり。80代になってもなおその描く情熱は衰えることを知らなかった。

名言「まだダメ、まだダメ。こう思い続けているので年をとらないんですよ」

 

90歳半ばで遊亀は体調を崩し、それから絵筆を握ることはなかった。居間に座ってぼんやり庭を眺める日々。ある日、遊亀はハッと気づいた。「梅は何ひとつ怠けないで、一生懸命生きている。私も怠けていてはいけない」と、再び101歳で絵筆を握った。

名言「いいなと思ったときは物みな仏」

それからは身近にある花木や果物を好んで描くようになる。「いいなと思ったときは物みな仏」であり、自分は生かされているという謙虚な気持ちを片時も忘れなかった。

普通に生きることの難しさを知ってから、普通に生きる美しさや素晴らしさがしみじみと描けるようになったのである。

名言「何も持たぬと嘆く人でも、天地の恵みは頂戴しているではないか」。

そしてこんな句も残している。

名言「のどかなり 願いなき身の 初詣」

 - 人物研究, 健康長寿, 現代史研究

Message

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

  関連記事

no image
名リーダーの名言・金言・格言・苦言集(18)『“長”の字に惑わされるな』(松永安左衛門)『雑音を聞き分けよ』(松下幸之助)

<名リーダーの名言・金言・格言・苦言 ・千言集(18)            前 …

no image
日本リーダーパワー史(222)<明治の新聞報道から見た大久保利通 ② >『明治政府の基礎を作った男』

 日本リーダーパワー史(222)   <明治の新聞報道から見 …

no image
片野勧の衝撃レポートー太平洋戦争<戦災>と<3・11>震災『なぜ、日本人は同じ過ちを繰り返すか』㉖

 片野勧の衝撃レポート 太平洋戦争<戦災>と<3・11>震災㉖ &nb …

no image
日本リーダーパワー史(143)国難リテラシー・66年前の大日本帝国最期の日―昭和天皇・政治家・軍人はどう行動したか①

 日本リーダーパワー史(143)   国難リテラシー・66年前の大日本 …

no image
『中国紙『申報』からみた『日中韓150年戦争史』⑳朝鮮のなぞ-ロシアの進出で、日中と紛争の可能性」

    『中国紙『申報』からみた『日中韓150年戦争史』 日 …

no image
日本リーダーパワー史(454)「明治の国父・伊藤博文の国難突破のグローバル リーダーシップに安倍首相は学べ②」⑥

     日本リーダーパワー史(454) …

no image
73回目の終戦/敗戦の日に「新聞の戦争責任を考える④」ー『反骨のジャーナリスト』桐生悠々の遺言「言いたいことではなく、言わなければならぬことをいう」

  桐生悠々の遺言 「言わなければならぬことをいう」   「 …

no image
速報(253)★『原発民間事故調報告書まとまる。これを見て<原子村>ではなく<ガラパゴス原子国家日本の悲劇>を考える

速報(253)『日本のメルトダウン』   ★『原発民間事故調報告書まと …

『F国際ビジネスマンのワールド・カメラ・ウオッチ(151)』★『わがメモアールーイスラエルとの出会い、Wailing Wall , Western Wall 』(嘆きの壁)レポート(1)

なぎさ橋通信(24年8月10日am700)   2016/02/15 …

『オンライン現代史講座/日本最大のク―デター2・26事件はなぜ起こったのか』★『2・26事件(1936年/昭和11年)は東北大凶作(昭和6ー9年と連続、100万人が飢餓に苦しむ)が引き金となった』(谷川健一(民俗学者)』

『2・26事件(1936年/昭和11年)は東北大凶作(昭和6ー9年と連続、100 …