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★<人気リクエスト記事再録 2009/02/10>昭和戦後最大の冤罪事件の真犯人が語る『全告白・八海事件-これが真相だ(中)』(サンデー毎日1977年9月11日掲載>

      2017/12/05

2009/02/10  
<サンデー毎日1977年9月11日掲載>
八海事件の真相(中)
前坂 俊之(毎日新聞記者)


(1)幼稚な偽装工作に迷った捜査陣


八海事件が起きたのは昭和二十六年一月二十四日夜、山口県熊毛群麻郷村(現田布施町)字八海で早川惣兵衛さん(当時六十四歳)と妻ヒサさん(同)が殺されたのである。敗戦の混乱が尾を引き、物騒な世相の当時としては、さして珍しくもない強盗殺人事件であった。


こんな単純な強盗殺人事件がなぜ十八年間ももつれ、七回も単独か五人共犯かをめぐって裁判をくり返したのか。裁判の経過や吉岡ノートを参考にしながら追ってみると〝冤罪の構図″がはっきりとしてくる。

真犯人の吉岡は、早川さん宅のごく近所に住んでいた。小さい時から片付けや掃除を手伝っており、早川さん宅の勝手をよく知っていた。借金の払いに困り、その早川さん宅に盗みに入り、顔を見られたため、一瞬の恐怖から殺してしまったのである。吉岡はそれまでに四回の窃盗歴があった。手口はいずれの場合も、洒を飲み度胸をつけてから勝手を知った家に入るのである。八海事件もこの延長線なのだが、突如、殺人に発展した。


当初の目的はあくまで窃盗であり、現場付近には数多く、その証拠が残された。途中で思わぬ殺人にあわてふためき、幼稚でデタラメな偽装工作をした。混乱した支離滅裂な現場は、冷静にみれば、酔りばらいのむちゃくちゃな犯行とわからぬはずはない。ところが、捜査陣は吉岡のこのデタラメなエ作にまんまとひっかかったのである。


(2)多数の計画的犯行(?)と断定される


当時の熊毛署・三好等捜査主任(後に山口県警刑事部長)の現場検証では-。
①犯人は内部から戸締まりをして脱出、夫婦げんかに偽装している。
②早川家に入る畑付近に素足、ぞうり、ゲタの三つの異なった足跡が残っていた。
③納屋の前に大量の脱糞とマッチの燃えがら五、六本が落ちていた。
④北裏口床下の羽目板が二枚はがれ、人間の掘ったこん跡が見受けられる。

⑤惣兵衛さんは頭と顔に四カ所(実際は八カ所)の傷を受け、片手を火鉢に突っ込み、室内には火鉢の灰が散乱、タビの足跡が一つ残っていた。
⑥玄関口の六畳間に百㍗の電灯がついたまま。四畳半との境のカモイにヒサさんが足をタタミにくの字に曲げてつけ、首をつっていた。
⑦ヒサさんの両手両足には血が塗り付けてあり、その下に血のついた包丁一本、寝室とカモイの境に血のついた長オノがあった。
⑧タタミは一度持ち上げられており、タンスの引出しやトビラも全部開けられたあとがあった。
以上の状況から「本件は夫婦げんかの末、ヒサさんがオノで惣兵衛さんを殺し、自ら首をつって死んだように偽装した残忍な犯罪で、一人の犯行とは認められず、数人が共同して犯したものと認められる」-と、一挙に多数犯の計画的な強盗殺人と断定した。


吉岡には誠に好都合な結論となったわけだ。こうして、警察の見込み捜査が八海事件を十八年間ももつれさせた発端になったのである。

 

(3)吉岡ノートより、顔をみられて逆上!


「私は一月二十四日タ、新庄鮮魚店で焼酎二合をかり、午後七時半ごろ出ました。地家正夫(一月十五日に酔って馬車に積んであった土の入った箱をひっくり返し、その謝りの酒代を借りた相手)に八百円ほどの借金があり、返済がのびのびになっており、私は近所で、金がたやすくとれる早川さん方を思い出した。
玄関のところから家の中を見ると、まだ早川さん夫婦は起きていた。ふろ場横の作業場にバールがあつたので、これはよいものがあったと手にした。早川さんの寝入るまで私は大便をしたり、タバコを吸いながら外で待っていた。
表も裏もどの戸も閉めてあった。内便所横の窓をバールでこじあけて入った。土間と炊事場の板戸はしめてあり、板戸に小刀でノゾキアナをつけ寝入ったかどうか見た。電気が消えたので、もういいだろうと早川さんの寝室に入ろうとすると『だれか』と惣兵衛さんの大声がして、豆電気がともされた。


私は顔を見られたと知ると、逆上してしまい、土間にあったオノで惣兵衛さんを二度、三度と殴りつけた。ヒサさんはフトンの中にもぐり込んでガタガタふるえていた。ヒサさんが『強盗じゃ』と声を出したので、口をふさぎ、首をしめた。

タンスの中から千円札を五枚、百円札二十枚、十円札五、六十枚を取った。酒の酔いもー度にさめ、明日になるとバレると不安になってきた。どうしたらよいか考えているうち、殺人を自殺したかのように見せかける芝居を、いつか見たのを思い出した。
台所の階段付近に黒いヒモがあったので、ヒサさんをカモイにつり下げようとしたが、死体が重すぎて切れた。


今度はロープでやったが、ヒサさんの体が重く何度かずり落ちて失敗。ロープを二重にして、死体をずり上げていくと何とか首つりの状態にできた。
ヒサさんが惣兵衛さんを殺したように見せかけるため、血をヒサさんの手や足に塗りつけ、オノや包丁を手でにぎらせ、指紋をつけた。火鉢の灰を部屋にまき散らし、惣兵衛さんがまいたと見せるため左手を火鉢の中に突っ込んだ。
中から戸締りをして、床下からはって表に出た」(吉岡ノート1冊目要約)

 

(4)焼酎を-升飲んでの犯行


吉岡は一升近く焼酎を飲んでの犯行だった。吉岡ノートでも、犯行については大筋だけの記述しかない。細部についてはよく覚えておらず、警察での第一回調書で記憶しているかぎり、ありのままを述べたという。
吉岡は事件後間もない一月二十六日朝、柳井市の遊郭で逮捕された。警察での
第一回調書(二十六日)単独犯行▽二回目(紛失)▽三回日(二十八日)六人共犯▽四回目(同)六人共犯▽五回目(二月一日)五人共犯- とめまぐるしく変転した。
その裏に何らかの強制か誘導が介在したのでは、と公判中に弁護側から何度も追及された。
「一人では不可能、多数による犯行」という警察の雰囲気の中で、ありのまま単独犯を述べたらどうなるか、吉岡ノートからおおよその察しはつく。
「『お前は警察をバカにしているのか』と私のほおべたを二、三回殴った。私が『本当です』というと『こちらにはお前が一人だといっても、ちゃんとわかっているのだ。いわなければお前の体にきいてやる』と裏の道場に連れていった。


刑事が私の手を前で両手錠にして、殴る、ける。そして、私を正座させ、足の下に警棒を四本くらい置き、その上に上がり、ドスンドスンと力を入れる」(吉岡ノート二冊目)二十八日には稲田、松崎、久永、二十九日には阿藤の各氏が逮補された。
「『阿藤たちは一緒にやったと言っているぞ』と言った。私は何のことかさっぱりわからなかった。どぅして阿藤たちがそんなバカなことを言うのだろうと思った。しかし、三好等(捜査主任)たちは『いわんか』と片方の手を肩の上から背中に回し、もう一方の手
を背中の下から回して〝鉄砲手錠″をかけ、背中をなぐりつけた。そのため、手首が切れ、血が出た。『お前が一人でやったといえば死刑になるぞ』とおどした」(同)
「刑事が聞くままに『ハイ、ハイそうです』と答えた。阿藤たちに罪をきせ、死刑から逃れようとはこの時は考えもしなかった。ただ拷問の苦しさから逃れたい一心で、刑事の言うままに調子を合わせた」(同)
「そのうち、ウソを言っておれば甘い汁が吸えるという悪いことを覚えはじめた。うまい
飯もたべられるし、タバコも吸わしてくれる。自分の無理も聞いてくれる。私の人間的な弱点をうまく利用された」(同)


(5)検事の調書にも
傑作なのは、このデッチ上げのカラクリが龍田修一検事(第一審)の吉岡第五回調書(二月十五日付)に見事に記載されているのである。


『六人共犯』の場合は、「上田節夫」という人物も加わっていたことになっているのだが、吉岡は、その内幕について、
「上田節夫という人はあまりよく知りません。警察で取調べを受ける際にも、私は上田とは早川方で悪い事をしたことはないと言いました。しかし、警察の方から上田も一緒に悪い事をしたのではないかと聞かれるので、そんなことはないと思うが、あるいは私の考え違いで、そんなことがあったかもしれんと申しました」


当時の裁判の量刑なら、二人の強盗殺人はほぼ死刑はまぬがれないだろう。ウソの供述で拷問はひとまず収まったが、今度は死刑の恐怖が吉岡の全身を貫いた。ウソの供述か死刑か。生か死かの絶対的な状況に追い込まれたことを吉岡はひしひしと感じた。生きのびる道はウソをつくしかないのだ。


「阿藤らがかわいそうだという考えはなくなった。私は本当に鬼になった。人間としての考えや人の子としての血も涙もなかった。ただ刑事の言うようになっていれば、死刑から逃れられるかもしれない。阿藤らがかわいそうだと思ったら自分は助からない。真実を守ったら死刑だ。ウソがばれてももともとだ。おれには警察がついている」 (吉岡ノート一三冊目)


以後、吉岡の警察と合作のウソはますますエスカレートする。侵人前に久永はロープを探す、松崎は口笛を吹く、阿藤からオノで順番に殴ることを決めたとか、身体に血がついたら石油かオキシフルでふけば、すぐ落ちると阿藤が話していたとか- 一見して架空とわかる児戯に等しい供述をせっせと述べた。
死刑を逃れたい一心だったのである。


被告人は弁護士を自由に選択できる。しかし、裁判官を選ぶわけにはいかないのだ。阿藤氏たちにとっては、このことが「不運」になった。


(6)クルクルと変わった吉岡の気持
第一審の山口地裁岩国支部は二十六年五月十四日から始まり、二十七年六月二日に阿藤氏に死刑、吉岡以下に無期を下した。
この裁判長が藤崎氏。後に「裁判官は弁明せず」の鉄則を破り、正木ひろし弁護士『裁判官』に対抗して『八海事件・裁判官の弁明』を出版した。向こう意気の強い人で、訴訟指揮もかなり強引だったという。
「公判では阿藤らの顔は一度も見られなかった。死刑になりたくない。今さら本当を言うと再び拷問をされるのではないか。私の言うことを信じてくれている被害者の親類の人たちを裏切れない。
一度ウソをつくと、ひっくり返すのに大変な勇気がいる。特に相手は、絶対的な権力を待った警察なので一層だ。エエイ、クソー。阿藤らはここにおらんのだと目をつぶってウソを言った。この場の一瞬さえ逃れればよいと思った。(吉岡ノート四冊目)


「あまり考えたくなかったが、自分が単独でやったということは裁判ではバレるという気もあった。阿藤らはやっていないから、裁判官は必ず見抜くだろう。そうなれば阿藤らも助かり、私の警察や検事への義理もたち、すべてがうまくいくという気持もあった」
(同)
死刑への恐怖と阿藤らへの罪の意識。この相克に吉岡は苦しんだ。一時間おきに気持はグルグル変わった。この気持は、何度もノートにくり返し書きつけている。


(7)阿藤氏らは裁判官を無条件に信じていた。


一方、阿藤氏たちはどうだったか。裁判官といえば、頭のよいりっぱな人だと無条件に信じ込んでいた。まさか、裁判官が自分たちを罪に落とすなど想像さえしなかったのである。

毎回、裁判所に行くのに吉岡も同じ車で行った。車の中でわれわれ四人は自由に話していたが、吉岡一人は黙って外ばかり眺め、こちらの方は見なかった。法廷でも蚊の鳴くような声で、途切れ途切れに陳述、その態度をみれば裁判官は偽証していることがすぐわかると思った」(阿藤氏の話)
「初公判がすんで、現場検証になった。吉岡は単独で行き、われわれは車で行った。吉岡は柳井署に一泊し、われわれは熊毛署の留置場に泊まった。この時も、吉岡には警察の差入れがだいぶあった。


あとで聞いたことだが、現場検証の時、藤崎判事は松崎をかげに呼んで、『君は直接、犯行に加わっていないので罪も軽い、早く白状して罪を清算したらどうか』と説諭したという。これを知って、もしかしたら不正な判決かなと思った」 (阿藤氏の話)
阿藤氏を担当した丸茂忍弁護士は、専門家だけに裁判の進み方に不安を抱いた。
「吉岡が弁護側に突っ込まれて答えに窮すると、藤崎裁判長は弁論必要なしとか、追及をかわさせる助け舟を出した。
検事以上に一方に偏した訴訟指揮なので、これをセーブするために当時としては例のない速記を入れて、公正な記録を残そうとした」と話す。

 

十二回の公判の末、藤崎裁判長は予想通り、阿藤死刑、吉岡以下無期の判決を下した。判決では吉岡についてこう述べている。
「吉岡は他の被告と違って、検挙された後、しだいに落着きを取り戻し、反省を重ねた結果、深く自分の非を認めて、日夜被害者の冥福を祈るなど悔悟の情がいちじるしいものがある」
一方『八海事件・裁判官の弁明』で同裁判長は、阿藤氏は対して「死刑の判決は当然すぎるほど当然と考えていたから、割合冷静に言い渡すことができた」と書いている。


また判決の瞬間の表情は「阿藤は2人の老人を殺してなんら悔ゆることがなく、死刑の判決を受けたときも、嘲笑的な苦笑をしていた」としている。


(8)オドオドで第一関門通過


罪を二重に犯した吉岡がひどく悔悟するのは当たり前でも、無関係の阿藤氏らが胸を張って、悔いる表情がないのに何の不思議もない。
一九五二年(昭和二十七)十二月二日、広島高裁、伏見正保裁判長で二審が始まった。吉岡は相変わらず顔面そう白で、オドオドしながらウソの供述をくり返した。吉岡担当の田坂戎三弁護士が、最終弁論で次のように述べているほどだ。

「吉岡の法廷での供述はえらくぼんやりして、考えなければなかなか理解できないような模様で〝優秀ですぐ判断がつく頭″ではないことがわかる」
丸茂弁護士も、こう追及した。
「吉岡以外がもしやっておれば、あれだけの顔付きはしていない。自白した吉岡がしょうすいし、その他の者が平然としているのはおかしいではないか」と。
吉岡は裁判の第一の関門は通過した。しかし、二審でウソが見破られれば再び死刑に直結する。生への望みが出てきただけに、吉岡は必死になった。阿藤らを前にした公判では、うまく言えないウソを上申書という形で出しまくった。実に十二通にのぼった。上申書ならいくらでも作文することができた。


「共犯者である四人の者は公判の時、今までの自供を否認して私一人でやった犯罪と述べています。気の弱い私が、いかにすれば公平な判決を得られるか、毎日苦しんでいます。共犯者は非常に性格が強く、私は彼等と共に公判を受けると自然に気おくれを感じ……」(二十八年三月十日付〕
と、分離公判を要求するなど、必死に狡智を働かせて、裁判長に哀願していた。伏見裁判長も黒白つけがたく、二十八年六月二十六日と決めた判決を職権によって延ばし、吉岡と阿藤らを分離して公判、心証を確認し、やっと三カ月後の九月十八日に判決を下した。


「吉岡は年少者であり、性格に弱い点があること、同被告が本件犯行により心理的に衝撃を受け、興奮し、恐怖、驚がく、狼狽などの感情に支配されていた。
被告人の悔悟の現状よりみるとき、同人が自己に有利な結果を招来せんとして、ことさら他の被告を共犯に引き込んでいると断ずることも真相に合した見解と言いえない」
として、吉岡の肩を持ち、阿藤氏死刑、吉岡無期、稲田氏懲役十五年、久永、松崎両氏に同十二年を下した。


(9)最高裁の針の穴は通るか


無罪を期待していた阿藤氏らは、二度にわたる誤判に初めて自分たちが置かれた状況の容易ならざることを悟った。いかに無知であるとはいえ、最高裁の狭い門については聞かされていた。
正木ひろし弁護士、地元の原由香留夫弁護士らへ必死の救援活動を頼んだ。
一方、死刑の恐怖からひとまず脱却した吉岡の心には、しだいに阿藤氏らへの罪の意識がふくらみはじめた。


二十九年一月から、原田弁護士が広島拘置所で吉岡と面会を重ねるうち、阿藤氏らは関係なく金山某と一緒にやったと吉岡は発言。以後約一年間にわたって、金山、金村、林(〝共犯〟の名が次々変わる)らと二人でやったと上申書や手紙などを最高裁に出しまくる。検事が取調べを始めると、前言をひるがえすなど猫の目のように変転、動揺をくり返した。


「何とか阿藤らを助けたい一心だった。単独でやったと本当を言っても、裁判の経過からみて信じてもらえないので、架空の男を共犯にした上申書を出した。とにかく、阿藤らが無関係であることを訴えたかった」(吉岡ノート七冊目)
上申書を出し続けているうち、刑務所から圧力がかかった。
「『君が今まで公判で言ったことはみんなウソか』と看守部長から聞かれた。
『こんなウソを言ったら、また二、三年は刑がふえる。長い刑務所務めて一生独房で過ごさなくてはいけないぞ』と言われた。刑務所にいる間、看守に憎まれたら損だと私は気持がぐらつき出した」(同六冊目)


(10)シーソーゲームの変転で!


「吉岡の良心の芽がふき出すと、刑務所側が押しつぶすことはあり得る。看守からかわいがられるのが一番大切だから。囚人は一切の自由、権利を看守に握られている。一度にらまれると、出るまで浮かばれない。
かわいがられないとイヤな仕事に回される。待遇も差別される。楽で、一番自分のやりたいような仕事にもつけない。吉岡の良心が時々芽を出しはじめると、刑務所側が圧力をかけたり好餌を持ち出して、ウソを維持させたのだろう」(阿藤氏の話)
吉岡は相変わらず、煮え切らず、弁護士、検事の双方にいい子になろうとしていた。
このシーソーゲームのような変転が一、二審の吉岡の自供を頼りにした有罪の根拠を自ら掘りくずしたことも事実だった。

三審の最高裁(垂水克己裁判長)は三十二年十月十五日、原判決を破棄、広島高裁に差し戻した。  

   (つづく)

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