日本の「戦略思想不在の歴史⑾」『高杉晋作の大胆力、突破力③』★『「およそ英雄というものは、変なき時は、非人乞食となってかくれ、変ある時に及んで、竜のごとくに振舞わねばならない」』★『自分どもは、とかく平生、つまらぬことに、何の気もなく困ったという癖がある、あれはよろしくない、いかなる難局に処しても、必ず、窮すれば通ずで、どうにかなるもんだ。困るなどということはあるものでない』
2017/12/01
「弱ったな、拙者は、人の師たる器ではない」
「それならいたし方ござりませぬ、刀は、お譲りはできませぬ」
「つらいな、ようし、そういうことなら、およばずながらお世話をすることにしましょう」
ようやく承知してくれたので、田中は、この一刀を高杉に贈り、彼の門下に入った。彼は、この刀が、よほど気に入ったらしく、長崎で写真をとって、田中のところへ送り届けてくれた。それをみると、断髪を分けて着流しのまま椅子に腰をおろしている、
そして、貞安の一刀を、腰へんにぴたとつけ、酒落な風姿の中に、一脈の英気、諷爽として、おのずから眉宇の間に閃いている。彼は死ぬ時まで、これを手離さなかったが、死後、どこへどうなったか、この刀の行方がわからない。一振の刀が、薩摩人から土佐人へ、土佐人から長州人へうつりうつって、薩長土の結び付きとなったことは、不可思議な因縁だと思っている。
田中が高杉を訪ねた時に高杉は王陽明全集を読んでいる際であった。
高杉がいうには陽明の詩の中に面白いのがあるといって書いてくれた。
四十余年、瞬夢の中。而今、醒眼、始めて腹脱。知らず、日すでに亭午を過ぎしを起って高楼に向って、暁鐘を撞く。
「王陽明は、亭午(ひる)に至って、暁鐘をついたが、自分は、夕陽に及んで、まだ暁鐘がつけない始末だから情ない」と高杉は言った。
田中は、もとより書生の分際で、立派な表装もできずに、紙の軸に仕立てて、秘蔵した、という。
慶応四年になって、田中は高野へ出発の際、岩倉家の家臣のもとへ、あずけて行った。維新後、これを取り戻そうと、岩倉家へ出かけた。すると、どさくさまざれに、どこへか紛失した。
「気の毒だが見当たらぬ」
やむを得ず、そのままになってしまった。
ずつと後になって、岩倉家に、高杉のかいたものがあると聞いた。
「ことによると私があずけたものかもしれない」
そう思って、同家へ検分に行くと、果して、この一軸だった、という。
さて、高杉の生涯は、極めて短命である。1867年(慶応3)4月、下関で、病死した時が、わずかに29歳であった。
しかしながら、彼の一挙一動は、天下のさきがけとなって、こう藩の意気を鼓舞したのみならず、全国勤王運動家の指導者となった。
それでも、高杉は自分では夕陽に及んで、なお、暁鐘がつけないでいると嘆息しているくらい、その気性のはげしさは、天性のものでる。
長州滞在中、高杉は、田中に教えた。
「死すべき時に死し、生くべき時に生くるは、英雄豪傑のなすところである、両三年は、軽挙妄動をせずして、もっぱら学問をするがよい、そのうちには、英雄の死期がくるであろうから……」
田中は、そのため長州において修養のできたことを喜んだ。
高杉はこうも言った。
「およそ英雄というものは、変なき時は、非人乞食となってかくれ、変ある時に及んで、竜のごとくに振舞わねばならない」
彼の生涯が、正しくこうであった。さらにまたいった。
「男子というものは、困ったということは、決していうものじゃない。これは、自分は、父からやかましくいわれたが、自分どもは、とかく平生、つまらぬことに、何の気もなく困ったという癖がある、あれはよろしくない、いかなる難局に処しても、必ず、窮すれば通ずで、どうにかなるもんだ。困るなどということはあるものでない、」
自分が、御殿山の公使館を焼打ち
に出かけた時には、まず井上(馨) が、木柵をのりこえて、中へ躍り込んだ、あとから同志がこれにつづいた。
さて、中へ入ったはいいが、このままにしておくと、出ることができない、元気一ばいだから誰も、逃げ路まで工夫して、入りはしない。
困ったなと口をついて出るところはここだが、自分はそこですぐに、木棚を1本だけ、ごしごしと鋸で切り払って、人夫出入りするくらいな空処(隙間)をつくった、それ焼打ちだぞと、館内ではさわぐ、同志のものが、逃げてくる、その時、おい、ここだここだと、元ひとりそこをくぐらせて助け出したことがある。
平生はむろん、死地に入り難局に処しても、困ったという喜だけは
断じていうなかれ」
固く戒められたのである。
この一言、今もなお田中の耳底にはっきりと残っている。のみならずそれ以来田中も困ったということは、かりそめにも、口外せぬようにして、今日に及んでいる、という。
田中は八十五歳の時に、維新往時を回顧して『少壮時、多くの先輩諸氏の驥尾に付して、風雲の間を狙来したのであるが、なんら君国のために微功をいたさず、いたずらに、馬齢を重ねつつあることは、まことに慚愧にたえない』(前掲書)で述べている。
関連記事
-
『棺を蓋うて』ー冤罪救済に晩年を捧げた正木ひろし弁護士を訪ねて』★『世界が尊敬した日本人―「司法殺人(権力悪)との戦いに生涯をかけた正木ひろし弁護士の超闘伝12回連載一挙公開」』
『棺を蓋うて』ー冤罪救済に晩年を捧げた正木ひろし弁護士を訪ねて 前 …
-
梶原英之の政治一刀両断(7)『世界経済の動揺で大国難を迎えた日本』<反省しない人物はエリートから追い出す>
梶原英之の政治一刀両断(7) 『世界経済の動揺で大国難を迎えた日本 …
-
記事再録/知的巨人たちの百歳学(129 )-日本興業銀行特別顧問/中山素平(99歳)昭和戦後の高度経済成長の立役者・中山素平の経営哲学10ヵ条「大事は軽く、小事は重く」★『八幡、富士製鉄の合併を推進』『進むときは人任せ、退く時は自ら決せ』★『人を挙ぐるには、すべからく退を好む者を挙ぐるべし』
2018/05/12 /日本リー …
-
終戦70年・日本敗戦史(142)開戦1ヵ月前に山本五十六連合艦隊司令長官が勝算はないと断言した太平洋戦争に海軍はなぜ態度を一変し突入したのかー「ガラパゴス総無責任国家日本の悲劇」
終戦70年・日本敗戦史(142) <世田谷市民大学2015> 戦後70年 …
-
日本リーダーパワー史(452)「明治の国父・伊藤博文が明治維新を語る④」下関戦争の真相はこうだ。
日本リーダーパワー史(452) …
-
『オンライン/日本の戦争講座④/<日本はなぜ無謀な戦争を選んだのか、500年間の世界戦争史から考える>④『明治維新直後、日本は清国、朝鮮との国交交渉に入るが両国に拒否される』★「中華思想」「華夷序列秩序」(中国)+「小中華」『事大主義』(朝鮮)対「天皇日本主義」の衝突、戦争へ』
2015/07/22   …
-
日本リーダーパワー史(584)「エディー・ジョーンズ・ラグビー日本代表HCの<世界に勝つためのチームづくり>日本ラグビー界は「規律を守らせ、従順にさせる練習をしている」●「選手のマインドセット(心構え)し、自分の強みを把握して最大限に生かすこと」
日本リーダーパワー史(584) エディー・ジョーンズの必勝法ー …
-
日本のメルトダウン(533)●「アベノミクスへの信頼感を試す消費増税(英FT紙)◎「再稼働説を支える3つの神話と1つの真実」
日本のメルトダウン(533) …
-
『オンライン/日本興亡史サイクルは77年間という講座②』★『明治維新から77年目の太平洋戦争敗戦が第一回目の亡国。それから77年目の今年が2回目の衰退亡国期に当たる』★『憲政の神様/尾崎行雄の遺言/『敗戦で政治家は何をすべきなのか』<1946年(昭和21)8月24日の尾崎愕堂の新憲法、民主主義についてのすばらしいスピーチ>』
2010年8月17日 /日本リーダーパワー史(87)記事転載 &nb …
-
池田龍夫のマスコミ時評(122)「三原じゅん子議員の「八紘一宇」発言、議員辞職に値する」(3/30)◎「辺野古作業で岩礁破砕、政府・沖縄県知事が真っ向対立」(3/25)
池田龍夫のマスコミ時評(122) 池田 …