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日本リーダーパワー史(219) <明治の新聞報道から見た西郷隆盛①> ―死しても愛された西郷隆盛が語るー

      2015/01/01

 日本リーダーパワー史(219)
 
明治の新聞報道から見た西郷隆盛①
 
―死しても愛された西郷隆盛が語るー
『私学校設立の由来』『征韓論について』
『明治政府は功臣殺すと嘆かれる』
 
 前坂 俊之(ジャーナリスト)
 
○『自ら鋤鍬(くわすき)を手にし不毛の地を開拓』
1876(明治9)年82日 『郵便報知』
 
 鹿児島県下では西郷隆盛君帰農以来、自ら鋤鍬を手にし彼の田畝に耕さるるので百姓等は痛い気に思い、これ迄、重いお役をお勤めなされた五身分で百姓業はお骨が折れましょうし、又、私共も道すがらお行会い申ても、何分恐れ多くお気の毒に存じ上げますれば、堂か農業丈けは五自身でなされずに村内一
同へお任せ下だされば、私共が申合せ不都合のなき様に致し升すと申入たれど聞入れなく、莞爾(にっこり)と笑て、志は満足なれど帰農した上は同じ天下の民ゆえ、心配は無用なり殊に身体を運動すれば、病の根も自然に薄らぐ間、養生傍好(かたがた)で為る業(わい)なりと答えられしが、当今に至りてほ不毛の地も遥々開拓が仕上る様に成りたるとの噂なり。
 
●『私学校設立の由来』
1877年(明治10)年127日  東京日日
 
 西郷君が鹿児島に取立られたる私塾の由来を承るに、同君のかつて在職せらるる内諸所へ出張の事ありても、政府より旅費等は一切受取らずその合金数千円に及びたるを、大蔵省より鹿児島に送られしに、同君は受けられずして曰く、
 
各地の旅行は月給にて足れり、何ぞ斯く許多の金を頂戴する由あらんやと、大山県令これを説て曰く、子の清白これに善し、然れども若し、この金を受けずんは他の官員を塊しむるに似たりと、君曰、足下の言理ありとて終にこの金を受けられしが、これ私に遭い捨つべきにあらずとて、則ち私塾を開き、衆士族に諭して曰く、何つまでも俸禄に喰んで、朝廷の御厄介となるは、士族たるの名義に背かず
とや、宜しく今よりこの校に入り勤めて学事を修め、傍ら農事に服し筋骨を固うし、気力を養いて、国家の為に為す有らんことを心掛くべしと、衆奮てこれに従い、遂に当今の盛大をいたせりと、鹿児島石灯籠馬場の木脇某より報ぜられたり。
 
 
『征韓論につき篠原国幹への答書の写し』
1877(明治10)年420日  『東京曙』
 
 左に登記する文は明治八年十一月西郷隆盛が篠原国幹が許への答書の写しなりという。然るに原本謄写疎漏にして誤脱少なからず、或は字体分明ならずして解しがたき所多しといえども、通篇の旨意を察するに窃に廟堂の動静を窺い為す所あらんとせしに相違なきを見るべし、但し誤脱と覚しき所も総て原本の儘に登記し、只字体分明ならざる所々は代うるに〇○を以てせり。
 
 朝鮮の義は数百年交際の国にて、御一新以来その間に葛藤を生じ巳に五六年談判に及び、今日その結局に立至り侯所、全く交際無之国と同様の戦端を開き候義、殊に迷惑千万に御坐侯、仮令此戦端を開くにせよ最初測量の義を相断り、彼方承諾の上、砲発に及び侯わは我国に敵するものと見傲し可申侯えども、彼より砲発に及侯とも一応談判いたし何等の趣意にて如此時機に到る 可相礼事に御坐候一向き彼より蔑視発砲致候ゆえ応砲に及候と申すものにてはこれ迄の交誼に背き、天理に於て可址の所為に御坐候、
 
この場に臨み兵端を開き侯は肝要の訳にて若や難ずべき所出釆致し侯えば必ず可救の道を各国に於て生じ可申、其機に至り候えは天下の悪む所に御坐候、この戦端を開き候義は天に疑惑を生じ可申候これ迄の談判明了に致し候所、この度条理を失し結局の場合に押来り彼底意を判然たらしめんには、大臣の内より派出致し道理を尽して戦に決し侯わは、理に戦うものにて弱を凌ぐの謗りも無之、
 
且つ隣国より応ずべき道相絶え可申候、乍然斯く手段を経侯ては跡戻りの形現然相顕れ要路の人々は天下に〇〇〇すべきことに成行勢い如何とも不可為を恐れ○○を以てこれ迄の行掛りを水泡に付し更に戦端と振替侯ものか、又は大臣を派出するを恐れ如此次第に及び侯か、
 
何分道理を尽さず只弱きを侮り、強きを恐れ侯○○より起り侯者と察せられ侯、樺太一条より魯国の歓心を得て、樺太紛議を拒むために事を発し候も不相分、或は政府既に〇〇の勢いにて如何とも為すべき術計尽き手早くこの戦端を開き内々憤怒を○わし侯ものにて何れ〇〇の上より起り候者と相考え申侯、この末東京の挙動如何と可見所に御坐侯、二三度の報告にて曲に相分り可申と存じ侯この旨愚考対○迄中上候敬白
 
                  日当山温泉場にて   西郷
 
 
●『捺印した証券を発行する』(西郷札)
                                                   1877年(明治10)年517日 『東京曙』
 
 西郷が鹿児島を出張する前に長さ三寸位幅二寸位の証券を造り、表面には西郷その外賊将の印を捺し(多分桐野、篠原、村田ならんという)、
裏面にはこの切手を以て売買し或は金銀等を出したる者は平定後相当の利息を添て消却すべしと記載してこれを発行せしに、この切手は日数凡そ二十日間程融通せしが、官軍鹿児島へ上陸するに及んで尽くこれを取り収められたるよし、
これ等の切手にして政府の紙幣同様差支なく流用せしを見れば、以て西郷の信任を鹿児島の一般人民に得たるを知るべし。
又西郷の出発前にはその私宅に轡の紋を附けたる高張提灯を高く挑げ桐野、篠原等を初めとして一方の長ともなるべき者は何れもここに集会して軍議を尽したるよし、この時数多の壮士は来りて西郷の邸宅を守衛せしという。
 
 
●『開墾は青年輩の練兵稽古なりと語る』
1877(明治10)年530日  『東京曙』
 
 西郷隆盛が夙に異図を懐きしはいつの頃よりのことなりしや、先年廟堂を辞して鹿児島の郷里に帰りし後、専ら開墾に従事せしは
 
既に今回の事を挙げんとするのためなりしを更に知るものなかりしとそ、一昨年のこととか、或時桐野利秋、隆盛に向い開墾漸くその工を竣らんとすこれを茶園にする時は日本の産物輸出品を増殖して後世の国益大なるべしと言いたれは、
 
隆盛からからと打笑い足下は茶を植て、後世の利を謀らんとするが我輩においてはそれらのことのためならず、足下等全く我意を知らずと答えしより利秋も始て隆盛が異図あるを覚知せりという、ひつきょう右の開墾は青年の生徒輩をして身体を健康にし腕力を強壮ならしめ、他日の用に供せんとするに過ぎりしなり、
 
又夜になれば日中開墾地に鋤鍬を揮いし、疲れを厭わず青年輩に練兵の稽古をさすること一夜も怠らず、或は鹿狩に托して山谷を跋渉するも皆練兵に外ならず、また生徒を集て七書その他靖献遺言等の書冊を講談して、兵道を悟り慷慨激烈の気象を発せしむるを務め常の言に大丈夫たるもの国難に斃るるを以て栄とすべしというは渠が口癖なりしとぞ。
 
 
●『農民原迄も西郷様とありがたがる』
 1877(明治10)年62日  『東京曙』
 賊魁西郷隆盛が夙に名望を士族の間に得たるは、世人の知る所なれども、近来に至り農民原迄も西郷様とありがたがるようになりし次第を聞くに、
かの鹿児島の開墾地吉野原という所は大凡方三里ばかりにて旧藩の
折は牧場なりし荒原なれば、これを悉く開墾したらんには随分大きなるものなるべし、そこで西郷が兼々農民原を築めこの開墾地が成就したなら一体へ無代価で呉れて遣る、とか無年貢で貸渡すとか言聞かせなどしたるに由ってなり、こう人心を釣り出して名望を得るに巧なる皆この類なりと鹿児島大の物語りなり。
 
 
●『大礼服を着して星の中に在り』(西郷星)
1877(明治10)年819日  『朝野新聞』
 
 西郷星ノ解聞ク此ノ頃東方二現ワルルー星有り望遠鏡ヲ以テ之レヲ望ムトキハ西郷隆盛ガ天礼服ヲ着シテ其ノ中二在ルヲ見ルト、僕末ダ其ノ星ヲ見ルニ及バミズト錐ドモ、是レ或ハ信ナラン、夫レ兎ハ徴獣ナリ能ク月中二棲ム鳥ハ凡鳥ナリ、尚オ日中二居ルコトヲ得クリ、鳥獣スラ日月ノ中二在り況ンヤ人二於テヲヤ、

故二 婦人ナレドモ嘗テ奔ッテ月ニ嫁セリ、隆盛ノ奸雄ヲ以テ其遁レテ星トナル何ゾ之レヲ怪ム二足ランヤ、且ツ人ノ星トナルハ今日二始マルニ非ズ蓋シ古ヨリ之レ有り伝説ガ列星トナルガ如キ是レナリ、後漢ノ時二当り処士厳光ガ光武帝卜同臥シ足ヲ以テ帝ノ腹ノ上二加ウレノミ忽チ客星トナリテ帝座ヲ犯シ陳是ガ其諸子ヲ率イテ筍淑ヲ訪エバ則チ徳星出現セリ、往年我ガ国ノ名望有ル諸先生ガ大阪ニ集会サレタルトキ人亦徳星ノ大阪二軍リタルヲ称セリ(僕ハ其ノ星ヲ見ザリシカトモ)、彼ノ隆盛ハ賊名ヲ負ウト錐ドモ英雄豪傑タルヲ夫ワサル者也、其ノ一万五千人ノ子弟ヲ率イ広島ヲ発スルヤー肇ニシテ熊本城ヲ抜キ直チニ上国二攻メ上り雌雄ヲ一戦二決セント欲シタリシガ其志遂ゲズ日向ノ一隅二窮賽シ恰モ秦中ノ鼠二似クリ、故二憤怒ノ
 

余り心火忽チ燃工遂二火星トナリタルカ、且ツ火星ノ洋名ヲ「マルス」ト言ウ、古エニ希臘(ギリシャ)ノ軍神トナシテ祀リン所ノ者ナリ、
彼レ連敗シテ措ク所ヲ知ラズ走リテ「マルス」ニ至り其ノ窮ヲ訴工援兵ヲ乞イタルモ亦知ルべカラズ、加之牽牛星ハ牛追イ野郎ニシテ織女星ハ機織り阿魔ナリ、田舎ノ無頼子弟モ慾火俄ンナルトキハ毎夜毎夜夜這星トナラザル無シ、然ラバ則チ隆盛ニシテ星トナルニ於テ亦何ゾ之レヲ怪マンヤ。
 
  ●『死して、明治政府は功臣殺すと嘆かれる』
                    1877(明治10)年929日『東京日日』(毎日)
 
 ああ西郷隆盛すでに死す。明治歴史に於て十年九月二十四日賊魁伏譲と特筆せられ、永く臭名を天下後世に遺すを免かれざるは良にその分なりといえども、蓋世の豪傑にしてこの末路あるはあんに悲しからずや、
 
その西郷が叛旗を今春に掲げしより以来、吾曹は明かに輿論の存する所を採って正邪の別を匡し、その朝敵たり国賊たるを著示し排斥攻撃して更に寸重を仮きざりしも、既に伏謀の今日に至りては、ただにその悪を鳴らすに忍びざるのみならず、或はその心事を推究しために少しく憫察する所あるも、またあえて不可なかるべき也。
 
 西郷がつとに薩藩志士の首唱となりて勤王倒幕の大業に従事せしより、辛苦経営してつとに薩長諸藩の交際をいよいよ弥縫し、次いで列藩の士気を鼓舞し全国の輿論を誘導し、ついに維新の偉勲を翼賛せしを顧みるに、実に功臣第一等中の人たるに恥じず、朝恩の隆渥なるこれを叙するに正三位を以てし、これに任ずるに参議兼陸軍大将を以てし、文武の元老に位せしむるも、また決して過分と云うべきにはあらざる也。
西郷が維新に大功ありしは、もとより世人の熟知する所なれはことさらにこれを今日に叙するを要せずといえども、もし当時に於て西郷なからしめば、誰がよく維新の慶応年間に成るを保せんや、もし西郷をして当時に反覆せしめは、またいずくんぞ慶応の承久たらざるを保せんや、
 
これ故に薩州に西郷吉之助なく、長州に木戸準一郎なくは、現に廟堂上の功臣諸公もまた或はその大志を野べ、その大功を奏するに由なきにあらずとせんや宜なり、世人が西郷、木戸を目して維新の双柱としこれを漢初の斎韓に比せしは良に故あるかな。
 
 この大功臣にしてにわかにこの大坂賊となる世論のこれを品評するに当り、功臣たるの故を以てあえて叛賊たるを曲庇せざる、征討の当時に在りてはすなわち可なりといえども、伏課の今日に在りてはすなわち不可なり。
その西郷は明治十年に於てこそ国賊なれども、明治九年までは実に功臣の元老なりしにあらずや、たといその功を以てその罪を償うに足らざるも、その罪を以てその功を併せ滅するは、むしろこれを
深刻なりといわざるべけんや。
 
昔ブルトスがシーザルを羅馬に刺殺せるに当り公衆に告げて、「かれ武勇なりしが故に我かれを尊敬せり。かれ智略ありしが故に我かれを貴重せり。かれ忠厚なりしが故に我かれを愛慕せり。今やかれ異図を懐くが故に我かれを刺殺する也」といえり。世論の西郷を品評するもまた白からかくの如くならざるべからす、
 
しばらく吾曹が説目する所によれば、第一には専横議の初めて世に起るに際してひそかに京、坂に周旋し事敗れて鹿児島に帰り、僧月照と共に水に投じたる頃の一武士たる西郷吉之助を見よ、第二には赦されて藩政に与り薩長の連衡を謀り大政返上の議に参し、戊辰の役に兵に将として東下し、北越に戦い大いに武功を奏したる西郷将軍を見よ、
 
第三には廟堂の大臣となりて文武の政務に与りたる西郷参議を見よ、第四には征韓論の議合わずして鹿児島に帰りたる非職の西郷陸軍大将を見よ、第五には盛んに私学校を鹿児島に起して壮士の人心を収攫したる西郷大先生を見よ、第六には政府に尋問を名として戦旗を掲げ、全国の大軍を引受けて肥薩隅日に死戦したる西郷隆盛を見よ、
 
その地位を転ずるに従ってその挙動を変じ、常に一生の豪傑たり英雄たるの面目を失わざるを以て自期し、いやしくも第二流に居るをいさざよしとせざる人物たるを見出せば、その武勇はこれを尊敬しその智略はこれを貴重しその忠厚はこれを愛慕し、その叛罪はこれを筆謙しその善を好みその悪を悪むにそもそも何の妨げあらんや。
 
吾曹はまさに漸次西郷の一生を品評するに於て、かくの如くせんと欲するのみ。
 ああその西郷は蓋世の豪傑なり。惜しいかなその末路の大過に一新せしがために、生きては首足を戦場に殊にし死しては臭名を青史に遺し、その心事を倫没して推究せらるる事なきのみならず、また永く後人をして明治政府は功臣を殺すの嘆きをなせしむ、あに悲しからずや。

 
●『最期まで、欧米諸州の地図を離さず』
       1877(明治10)年1015日『郵便報知』
 
 西郷の籠りし洞穴中には他の一物もなく、只欧米諸州の地図一部がありしのみ、この図は西郷が常に手を離さず肥豊日隅の各所を転走する際にも親しく身に帯び、少しの暇さえあれは開て打ち詠め、独り点頭き居たるは何か遠大の望みありてのことか。
 
この図は陸軍士官の某が分捕り現に所持するよし。叉桐野が陣頭を見廻る度びに、今度の戦いに勝なは東京に至りて、廟堂を改革し、兵を土国へ出さねはならず、その時こそ外国人が敵なれは思う様に分捕りもせよ、今は武器の外一物たりとも分捕りせんなどと都劣な心を起す勿れ、又火を放ち家を焼くも人民の疾苦にならぬ様、精々心を用いよと屡々諭し励ましたりと。
 
 
●『西郷和讃』  1877(明治10)年1020日  「読売」 
 
 長崎来状のつづき「西郷和讃」帰命頂礼西郷は、始めの唱えを吉之助、又の号をば南州と、人も知ったる薩生れし才智は外に並びなく、非凡の人とぞ仰がれて、常に勤王愛国心、毒永の頃より上京し、国へ忠義を尽さんと、心を苦しめ周旋し、日照和尚その外と、はかりし一事も遂ずして、故郷へ急ぎし船便り、再たび薩にて月照に、遇いて日向へ共にゆく、
 
海路に二人は身を投じ、日照あわれや塊も消え、西郷一人は助けられ、菊地源吾と改称し、再び薩摩へ帰りし、島津公には免されず、源吾を流罪に大島へ、渡せし時まで西郷は、三度の流罪に当るとて、自ら姓氏を改称し、自儘に苗字を大島と、替て通り名三右街門、文久亥年に赦免にて、帰れば忽ち選挙され、藩の政事に参与して、威勢は日に増し高くなり戊辰の年には参謀と、用られたる人にして、幕府の還政約をなし、江戸の開城ついに成り、
 
遠く越後へ出張し、軍功あらわれ平定し、参議の登用を辞してより、国へ帰りて二千石、これ賃典と賜わりて、位も高き正三位、そののち参議に任ぜられ、陸軍大将兼勤し、明治の四年に征韓の、評議に論旨の合わずして、又も帰国し鹿児島へ、私学校をは取建て、田畑の耕し山の狩、質素倹約辛労し、
 
貧民病者を救助して、何れの人にも敬まわれ、他国の者にも立てられて、神という名を呼ばれたる、天徳聖亜の人なれど、明治十年二月より、暴徒の頭と成りはてて、錦旗に手向う賊となり、修羅の街を宿として、焔硝けぶりに弾丸の雨、遂に九月の末つかた、討たれて死せしは何事ぞ、仮令不満は有りとても、御国を騒がし大君に、敵たう心ぞ浅猿や、草葉の露と消てのち、千歳に汚名を残せしは、京にもまた余あり、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。
 
●『秘蔵の拳銃は欧州より取り寄せた良銃』
 
       1878(明治11)年22日  「朝野」
 
 西郷隆盛が兼て秘蔵せし拳銃は同人が征韓論を主張せし比欧州より取寄せしものにて、我が国には二挺より外に無しと云う程の良銃なるが、昨年九月城山の城壁を攻撃の時、新選旅団第二大隊三中隊の半隊長警部補石部助幹氏が分捕りその筋へ差出し置れLを昨一日同氏へ下げ渡しになりしとぞ
 
●『墓参の人移しく墓は香花に埋まる』
 
       1878(明治11)年223日  『朝野』
 鹿児島にてはこの比西郷、網野の墓へ参詣人移しく前後左右香花にて埋まる位なり、今に男女とも頑固連多く西郷を善く言い巡査を悪む事甚しく官員兵隊をも忌み嫌う様子有り、その一端を挙ぐれは子供の流行歌に「可愛西郷さんにあげたい物は金のなる木と玉薬」「○○○を油で揚げて可愛い私学校のお茶しおけ(方言お茶うけ
 と云う事)」「いやだおッカサン巡査の女房出来た其子が雨ざらし」何と驚き入った不了間ものの多い事では御座らぬかと芋野頑五郎殿から嘆息して投書せり。
 
 
○『細君香典を送り返す』
 
         1878(明治11)年315日 『朝野』
 夫夫たれば、妻妻たりとでも言う可きは昨年西郷隆盛が城山にて戦死しその細君は家族を携え別荘へ引移りたる比、東京の或る親族より人に託して悔みを述べ金七百円計りを贈りたるに、細君は手にも取らず、夫は戦死し児は廃人と為り、

家星道具は皆焼失せし故、御救他下さる御思召は重々辱けなけれども、夫の存生中に開墾したる土地もあり差向き暮し方に差支える事も無し、又後日に御願い申す筋もあらんとてその僕に持たせ態々東京迄差返したり、又鹿児島県官の内に以前、淵辺高照の世話に為りし人あり、

城山没落後同人の宅を尋ね香典として金百円を細君に贈りしに細君は甚だ不興にて、亡夫は職名を負うて死したるもの故、何等の交誼は知らねど官員より香火を恵まれる筋なし、とて堅く之を拒みたりしと頃日鹿児島より出京せし人の話し。

 
 
○『御雇い外国人も西郷好き』
 
       1878(明治11)年321日  『朝野』
                               
 西郷隆盛は妙に人の好く男と見え、和蘭(オランダ)の水理工師ナツセン氏は一ケ月六百円の給料にて鹿児島県へ雇われ居たりしが帰京後はなんだか人に逢うと西郷、西郷と留め度も無く西郷のこと計り言って居ると聞きました。
 

 

 
 

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