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<最強の外交官・金子堅太郎⑨>『外交交渉の極致―ポーツマス講和会議で日本を支持したルーズベルト大統領』(終)

      2015/01/01

<日本最強の外交官・金子堅太郎⑨>
 「坂の上の雲の真実」ー
外交交渉の極致―ポーツマス講和会議で日本を
支持したルーズベルト大統領』⑨終
 
 
前坂 俊之(ジャーナリスト)
 
以下は金子堅太郎の『日露戦役秘録』(1929年(昭和4)、博文館>の紹介である
 
ルーズベルトとの交渉成功の中に外交の要諦は示されている
① 金子はルーズベルト大統領とはハーバードの同窓生だが、学部も違い大学時代には付き合いはなかった。ルーズベルトが海軍次官から政治家となって活躍していたころに知り合いハーバード同窓生、同じ政治家として意気投合、互いに尊敬する親友となった。その親友が米大統領になったのだから、このパイプは強力である。
② 個人の付き合いも、政治家同士、国の付き合いも要は同じである。人間関係の良し悪しで決まってくる。この場合の外交の要諦は「良き友を持てと言うこと。
③ 2つめは『敵を知り、己れをしれば百戦危うからず』(孫子)も外交の要諦である。忍者さながらにわずか1名の随行員ともに、なんらの武器弾薬も持たず、単身で大アメリカに渡り、その弁舌と英知によって大統領からアメリカ国民を日本の味方につけようと言うまさに大役者であり大説得者である。
④ その恐るべき知恵と大陸を駆けめぐる行動力だ。
⑤ そのアメリカの歴史と成り立ち、移民による多民族国家の風土、国民性をよく知っており、それにもづいての勉強し研究したこと。その戦略が成功した。
⑥ 卓越した英語力とスピーチで広報外交の成功した。金子は18才の時に米国に留学してハーバード大に進みその英語力は傑出していた。高校では卒業生代表でスピーチしたという優等生で、渡米後、彼は、その博識と機智とに加えて、抜群の英語と巧みな演説方法を駆使して説得にあたった。
⑦ ハーバード人脈を最大限活用したこと主として同国の知識層の多く居住する東部を活動地域にした。
⑦    アメリカ人のフェア、半官びいきに訴えた。アメリカの国民性、対人意識の根底には、フェアな競争を求めて、弱者に声援を送るアソダードッグ観(負け犬に対する同情心)があり、それに訴えたのである。
 
 
○日英同盟なのに英国は日本のために働かない
 
翌朝の話のうちに大統領が言うには、
 「フランスはロシアの同盟国であるから、陰になり陽になってロシアのために働いた。これに反してイギリスは日本の同盟国ではあるけれども、超然主義をとって少しも日本のために働かない。これについて実にぼくは不都合だと思う。
しかしこれには理由がある。何となればロシアが負けて満洲から追払われて大連・旅順の不凍港を失ったときには、ロシアは必ず西の方面に向ってインドを突いたり、或いはペルシャに出てペルシャ湾の不凍港を取ろうとするから、将来イギリスに大関係があることを予想しているからである。これは君だけには言うけれどもどく秘密にしてもらいたい。」
翌朝、縁側の話の中において非常に必要なことがあったからこれは暗号にて日本政府に通報したが、日本人も記憶すべきことと思うからその一節を申し上げたい。

大統領ルーズベルトいわく、

 「さて今度の戦争は日本の大勝利、又講和談判も近々に決まるならん。よってぼくは将来を達観して意見を述べたい。つらつら東洋の有様をみると、東洋に国を成して独立の勢力のあるのは日本のみである。支那・朝鮮・ペルシャ(イラン)・シャム(タイ)その他あるけれども、これはまだなかなか独立国というわけにはいかない。又独立しうる勢力もない。
 
そこで日本がアジアのモンロー主義をとって、アジアの盟主となってアジアの諸国を統率して各おの独立するよう尽力することが急要である。
それには日本がアジア・モンロ主義を世界に声明して、ヨーロッパ・アメリカからアジアの土地を取ったり、かれこれすることは断然止めさせる方針を日本に執らせたい。そうして西はスエズ運河から東はカムチャッカまで日本のアジア・モンロー主義の範囲内として、ヨーロッパ・アメリカ人には手を染めさせない。
 
しかし既得の権利は別としてかの香港・フィリピン・アモイのどとくこれまでヨーロッパ・アメリカが租借しているところは認めるが、それ以外の土地は一切取らせぬようにしてもらいたい。」
と途方もない重大なことを言った。そこで私は、
 「君からそういう議論を聞いても、実は我々日本人は君の期待に添いうるや否やは分らぬが、もし君がその論をいよいよ決行せしめようとするならば、ぼくは満腔の熱心をもって賛成をする。我が身体を粉にしても君の意見を実行するように日本において尽力しよう。ぼくが帰ったら日本国民にそのことを報告するがどうだ。」
 
 「いや、それは待ってくれたまえ。ぼくは今は大統領である。大統領としてそういう論をすればアメリカ人のうちにも反対する者が多い。ヨーロッパ人には無論多い。ゆえにぼくが大統領をしている間はそれを公表してくれるな。しかしぼくが大統領を止めて一個のルーズベルトになったときには自ら進んでこの意見を発表する。」
 
 「それでは君が発表するときには一本の電報をよこせ、ぼくは日本においてこれがルーズベ
ルトの希望であるということを発表しようから。」
とこう言ったことがありましたけれども、不幸にして彼はその時機に達せずして黄泉の客となった。実にこれは日本のために惜しむところであります。今少しルーズベルトが生きていたならばアジア問題もかくのごとく紛糾しなかったであろうと思う。
 
さていよいよ講和談判は米国にて開始されることに決まった。七月八日に日本軍が樺太に上陸して、かの地を占領したことは大いにロシア政府を驚がくさせたものとみえ、ロシア皇帝は
ローゼン大使に電信を送り、大統領に面会して日本軍を樺太より撤去するように尽力ありたしと申し込ませました。
 
このときルーズベルト答えて言うには、そのことなれば自分は既に自発的に日本人に陳述したることあり、しかし講和談判の承認のときその談判中は互いに休戦すべしとの条件がないゆえに日本はその点を利用して樺太を占領したるものなれば、今さら自分よりその撤兵を交渉したればとて、とても承知せざるべし、と体裁よく謝絶した。
かの樺太占領はルーズベルトが六月八日、自発的に私を通して日本政府に忠告したれば、この答はさもあるべきことなり。
 
●ポーツマス講和条会議始まる
 
 そこで講和談判のために七月二十日に小村全権がニューヨークに着きました。私は途中まで出迎えましたがなかなか盛んな出迎えであった。

私は小村のホテルたるウオルドフにおいて、「さてぼくは命を受けて戦争中アメリカで活動したが、戦が終ればぼくの任務は終った。君が講和談判委員として来たから、アメリカは君に引渡してぼくは帰国したい。どうかそう思ってくれ。」と告げた。
 

 「それは待ってもらいたい。今君に帰られては困る。今度講和談判が開かれれば我輩は表面の舞台で働くから、君はニューヨークにいて始終ルーズベルトと往復して、ルーズベルトの意見を聞いてぼくに暗号電報で知らせてくれなければぼくは十分働けない。
そうしてぼくのすることはすべて君を通してルーズベルトに内報してもらいたい。何となればぼくからは講和談判中はルーズベルトには直接に一本たりとも電報は出せないから、どうか君がニューヨークにいてぼくを助けてくれなければこの談判はまとまらない。

ゆえにぜひニューヨークにいてくれ給え。これは元老も閣臣もみなその希望である。」

と言ったけれども、私は小村に向かい、
 「君はそう言ったところがルーズベルトがそれを承諾するか否や分らない。」
と答えた。そのとき小村はそのうち大統領に面会してその意見を聞こうといい、翌日ルーズベルトの午餐会に招かれたからそのとき小村からそのことを大統領に言うと、ルーズベルトいわく、
 「今日まで一年半、金子男がこの国におったから、予も日本政府に対しいろいろの意見を言い、日本政府からもいろいろのことを聞くことができた。しかるに今度貴官が来たけれど講和談判中は予と貴官とは直接に交渉はできないから、やはり金子男の手を通して交渉することを希望する。」
 
と答えた。よって小村全権とルーズベルトとの意見が一致したから私はニューヨークにいることになった。

それからある日小村全権と会合して

 「講和談判はどうするのか。」と私が問いますと小村は、
 「今度はぜひとも講和条約を締結して帰らなければならぬ。何となれば満洲において日本の陸軍は総出である。もうこれ以上は兵隊がない。兵器弾薬も殆ど使い尽くしている。それでどうしても今度は講和談判をしなければならぬ。」
 「それはそうであろうが、条件はどうか。」と尋ねた。

ところが小村は書類を示し、

 「条件はこれだけれども、樺太も償金も譲歩してよいが、平和回復条約だけはぜひ成立させたいというのが廟議である。」
と言った。よって私は、
 「それならば講和談判は朝飯前に済む。しかし日清戦争のとき三国干渉のあったさい、軍人がやかましかったがその方はどうか。」
と問いましたところが小村は元老の意見、軍人の態度、政府の決議等をくわしく陳述して、
 「その方は安心し給え。しかしぼくは樺太と償金はぜひとも主張したい。」
と言いました。よって私は
 
●大統領に条約案をみせて相談、ー『償金やめて払い戻し金に』
 
 
 「それはもちろん賛成するのみならず、この二件についてはすでにこれまでルーズベルトとたびたび協議したる結果、大統領は樺太は当然日本が占有すべきものといっているけれども、償金はなかなか困難なりと言っている、しかしぼくも及ぶだけ尽力しよう。ついてはルーズベルトも今日まであれほど日本のために尽力したからこういう条件で談判をするということをルーズベルトにあらかじめ言って、その条件をみせたまえ。」
 
と注意しました。よって小村はこれをみせたところルーズベルトは熟読したる後、私に手紙を送っていろいろ忠告したにより、小村が削ったのもあれば又改正したのもある。
 
その一例は、償金を小村がIndemnity(インデムニーティ)と書いていたのをルーズベルトが見て私に手紙をよこして、日本の原案のIndemnityという文字は賠償金で多少懲罰の意味を含んでいる。しかるにロシアの皇帝は金は一文も払わないと言っているからこの懲罰的な文字は非常にロシアの感情を害するがゆえに、これは直すがよい、その直す文字はReimbursement(レインバースメント)とするがよい。
 
Reimbursementという文字は「払戻す」という意味であって、賠償金ではない。それのみならず先頃ウィッテがロシアを立ってパリに来てロスチャイルドに会って話したときに、償金はどうするかという問題が出た。
 
それに対してウィッテは、償金すなわちインデムニティは一切払わない。しかし日本がロシア人たことをパリに在るアメリカ人から密報があったにより、あるいは「払戻し」という文字を使ったら多少金がとれはしまいか。といいましたから、小村と相談して「払戻し」という文字に直した。小村全権が日本を出発するときにはインデムニティという文字を使って償金と書いてあったけれども、これはルーズベルトの意見で「払戻し」という文字に改めることになりました。
 
 さて小村全権の到着後数日にしてロシアの全権ウィッテがニューヨークに到着した。その日の景況は小村のときとは雲泥の差であった。
ウィッテの乗船がニューヨーク港に入るやロシア人はもちろん、新聞社は数十そうの小蒸汽船を出して海上に出迎えた。そうして新聞記者が船中に乗りこむやウィッテは彼ら高を上甲板に招き、かねて船中にて用意した「アメリカ人の同情に訴う」という印刷物を配布して、ロシアの状態と全権の心中を米国人に訴えてその同情をさそった。

終ってシャンパンを抜いて大いにその歓心を求め、又ロンドンタイムスの記者にして、ロシア通のサー・マカンゼー・ワレス、ロンドン・デイリー・ニュースのデロン博士の有名な二人の記者を顧問兼通信係として同伴して米国に乗りこみました。

 
そうして小村のホテルより数丁離れて向側のセント・リージスという第一等のホテルに止宿し、さかんに新聞操縦に全力を尽くしました。
それから二、三日して大統領は日露の全権をオイスター・ベイの私邸に招いてこれを紹介し午餐を供したる後、米国の軍艦二そうに両国の全権を分乗せしめポーツマスに送り出しました。
 
 それから講和談判が始まって進行するに従い、日本から提出した条件を議して、その日の会議終りたる後小村はその模様をただちに暗号電信で私に通知する。
私は私の秘書にその電報、私の手紙を持たせてオイスター・ベイにやってルーズベルトに内報する。その返事は大統領の秘書官が持って私の旅館に来る。それを私が小村に暗号電報で知らせる。しかるに私の名でポーツマスの小村全権に電報を打つときにはロシアの方ですぐ目をつけるから、ニューヨークの内田総領事の名で電報を打つ。
 
●電報合戦始まる
 
小村が打つ電信は内田総領事の名宛で打つ。総領事の名前なれば官用につき、ロシアの注目を引く心配もないから、私は総領事の名の下に隠れてポーツマスに始終朝から晩まで何本も暗号電信を発送した。
 
さて講和の談判の箇条は一条から十条まである。この十箇条のうち一番面倒なのは払戻金と樺太の問題である。それゆえにルーズベルトは私に向かっていわく、
 「第一から第二、第三と一つずつ片付けなさい。もしこれを一緒に議するとこんがらがって面倒だから一箇条ずつ、たやすい方から片付けて面倒なものは後回しになさい。たとえばその一、二を言えばウラジオストックのロシアの艦隊の制限ということを日本から言い出しているが、これは譲ってもよい。なぜなればロシア人は陸では強いが海においては弱いから。ウラジオストックにロシアの艦隊が何そうあっても日本の艦隊には到底かなわぬから、そんなものはいざというときにロシアに譲ってよい。
 
チーフやマニラに逃げこんでいるロシアの軍艦を引渡せと書いてあるが、損傷した軍艦を日本が取ってどうなるものか。それを修繕して役に立てようと思えば多額の金がかかる。そんな戦利品をもって日本に帰るのは空名誉である。そういうものはロシアに譲れ。」
というふうに一つ一つに意見を述べた。もちろんこれは私から小村全権に通知した。中立国の大統領がかくまで日本の全権に注意してくれた。このくらい日本に同情を寄せた人は他にあるまいと思う。
 
 さて要求の条件は両国の互譲によってたやすく片付いたが、いよいよのところになって、講和談判の最後の払戻金問題になってウィッテはなかなか金を出そうとは言わない。ウィッテがロスチャイルドにパリで言ったことは全く欺まん手段であったのかもしれない。それから樺太問題になってもなかなか承諾しない。
 
よって私はルーズベルトに面会して種々熟議したところが、同人の意見は、払戻金は撤回するも、樺太はすでに全部日本の兵隊で占領しているから樺太全部は日本が取るべきものである。ゆえに払戻金は撤回して樺太全部を譲渡させることにして結末をつけようという計画であった。
 
それゆえに小村も随分その方針で働いたがウィッテがなかなか承知しない。種々協議した末ウィッテは、とうとう北緯五十度を境として北はロシアに譲れと言い出した。よって小村はそのことを私に通報したから、私はすぐオイスター・ベイに行きルーズベルトと協議したところが、同氏がいわく、
 「樺太は日本軍が全部を占債しているからその半分をロシアに返還するなら買戻金を出すは当然だからこれを要求せよ。」
 
と、よって私は暗号電報を打って小村にその旨を通知した。小村はだんだんやって樺太半分をRedeemすなわち買戻す金を出せと交渉した。ところが又これで引っかかってウィッテは頑強に拒んだ。そこで私はオイスター・ベイに飛んで行きルーズベルトに相談したところが、同人いわく、それならば仕方がないから、樺太半分の割譲とその買戻しの金高は三人の委員を設けて決めさせることとし、その委員はロシアが一人へ日本が一人、あとは中立国から一人出して、この三人の委員が樺太北半分の割譲とその買い戻しの金額を五百万円とするか、一千万円とするか、その委員に委せて結末をつけさせよう。
 
と言ってロシア政府及びウィッテに交渉したけれどもロシアが承知しないのみならず、このときウィッテは帰国の準備にとりかかった形勢を示し、彼はしきりに新聞を操縦して日本に反対せさせたので談判の始まる前までは新聞記者の九割は皆親日なりしが、たちまちひるがえりて親ロシアとなりたるもの九割と変転した。明日は談判破裂するか、明後日は全権委員が帰るかというので、ポーツマスでは「破裂、破裂」という評判が高く、その新聞の号外がどんどんニューヨークに配布される。
 
●談判決裂を心配したル大統領―3人委員会をつくる
 
このときルーズベルトは破裂しては大変と思い、この上は最後の手段をとってロシア皇帝を動かして承知させるにはドイツ皇帝に依頼する外はないと考え、ドイツ皇帝をして北樺太半分問題に関する委員を設けてこれを決定せしむることをロシア皇帝に勧告させようと決心した。そのとき(八月二十七日午後五時)連合通信社の社長メルビル・ストーンがオイスター・ベイに来りルーズベルトの宅に飛び込んで来た。
 
そこでルーズベルトが言うに、いよいよ談判が破裂になるかもしれぬ。そうするとまた戦が始まる。戦が始まれば日露両国の衰滅を来すかもしれぬから、どうしてもまとめなければならぬ。いかなる手段でもよいからひとつまとめたい。
ついてはドイツ皇帝に依頼してロシア皇帝に勧告させる電報を打ちたい。
その電報にはぜひとも今度の講和条約は締結するようにご尽力を頼む。それには北樺太の半分割譲とその買戻し金高は三人の委員を設けて決めさせる。この方法でまとめてもらいたいということを我輩の名をもってドイツ皇帝に直電を打ってくれよ。その文章は金子男とお前に委せるから。
 
二人で電報の文案を作ったなら我輩に見せるに及ばぬ。ニューヨークからただちにドイツ皇帝に電報を打ってくれよ。そこでストーンはその用件を帯びて私の旅館にやってきてその趣を告げ、この大任を受けた証拠に持って来たと言って紙片を出して私に見せた。
 
それを見ると普通の紙を引きさいてその端が破れている。その事由についてストーンが言うには、汽車の出る前にわずか五分間しかなかったから大統領はゆっくり書けなかった。それでかたわらに有り合せのこの紙片を引き裂き壁に押し当てて立ちながら鉛筆で書かれた。
 
その文面を見ると「男爵金子へ」と書いてその下に「メルビル・ストーンを君のところに通わし、ドイツ皇帝に送る電信文の起草を君とストーンに委せるから電報を打ってくれよ」としたためてある。そこで私はストーンと協議し同人はロータスクラブに行って電信文を起草し、レノックス避暑中のドイツ大使代理ブッシュ男に打電してドイツの暗号電報を持ってただちにニューヨークに帰ってくれと言ってやって、その晩の十二時にわれわれ三人会合しドイツ皇帝に発電することを約束して別れた。しかるに私はこれだけの責任をルーズベルトに負わせてドイツ皇帝に
 
親電を打たせるについては、小村が今もっぱら談判をしている際であるから、その意見も聞かなければならぬと思って、右の事情を詳しく暗号にしたためて小村に電報を打ってその意見を聞いたけれども、その晩十二時になっても何らの返事もない。
 
ついに午前一時も過ぎたから明朝面会しようと言ってストーンを帰宅せしめた。明朝六時頃ストーンから小村の返事が来たかと尋ねられたけれどもまだ来ないから返事の致しようがない。又催促の電報を打った。しかし、なお小村からは何の返事も来ない。午後一時に小村からの電信によれば大統領の好意は感謝すれども、今日の場合、大統領からドイツ皇帝に電信で依頼しても、ロシア皇帝の決心を翻すことはできないとある。よってその旨をストーンに通知して大統領からドイツ皇帝に発送する電信は止めました。翌二十九日小村全権から電信が来た。
 
 「今朝の会議にて払戻金は撤回、樺太は北緯五十度をもって分割することに決定した。もっともこれは本国政府の許可を得て決定したから遺憾ながらルーズベルトの勧告には応ずることができない。」
とあった。
後で聞けば小村は私が電報をもってドイツ皇帝にルーズベルトの直電を打つや否やを尋ねる前にすでに本国政府に電報を打って、到底北樺太半分は無償でやらなければ条約は成立せずということを言って政府の訓令を待っている際であったから、ルーズベルトの意見に対して何とも返事ができなかった。
 
いよいよ政府の許可を得たるにより、小村は買戻金を撤回し樺太半分を得てかの平和条約に調印した。それでその電報を持って私はオイスター・ベイに行ききこれをルーズベルトに見せ、北樺太半分ロシアにやって平和は回復したと言いした。
 
ルーズベルトは「樺太を半分やったのは実に遺憾である。ぼくは償金さえ撤回すれば樺太は日本にとるべき権利があると思ったのにはなはだ残念なことであった。」と嘆いた。ルーズベルトは樺太全部を日本に取らせるために講和談判の開けざる以前に二個旅団と砲艦二隻で樺太を取れと言った関係もあるから、ぜひともあれだけは日本に取らせようと尽力してくれたのである。
 
この関係は日本国民のぜひ知っておくべきことだと思いますからお話をいたします。ここにちょっとお話しますが樺太半分割譲については日本政府は非常な攻撃を受けたがロシアにおいても、非常な反対があった。講和条約締結の功により伯爵に叙せられウィッテは国民の痛罵を受け『樺太半部伯爵』と愚弄されておりました。それからまだいろいろございますけれどもあまり長くなりますからこれで終りに致します。

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