梶原英之の一刀両断歴史ルポー『日本の物語としての辛亥革命(上)』ナゾに包まれた孫文像(上)
<辛亥革命百年と近代日中の絆―辛亥百年後の‘‘静かなる革命>
ー『日本の物語としての辛亥革命(上)』ー
孫文が日本の支援者と結んだのは、日本が政府ぐるみ進めていたフリピンの対米独立革命家たちとの提携、そして日露戦争後も続いた対露恐怖論を見ていたからであった。英国が退潮する中で、日中は次の脅威の米国、ロシアに共同して立ち向かおうという孫文の国際感覚に日本人も乗れたのだ、ということも見ておかなければならない。
『季刊日本主義』NO16 号―20011年冬号の転載
梶原英之(経済ジャーナリスト)
梶原英之 かじわら ひでゆき 1948年岐阜生まれ。慶大経済学部卒。毎日新聞社
に入社、経済部記者を経て『週刊エコノミスト』編集委員、出版企画室長などを歴任。現在フリーの経済評論家。『香港ポスト』定期コラムニスト、総合政策研究会特別研究員。著書に、『デノミ戦略-100円が1円になる日』(翔泳社)、『鳩山家四代-何が受け継がれてきたのか』(祥伝社)など。
ナゾに包まれた孫文像
戦後になってのことだが、日本の中部地方の倉庫からピストル数十丁が見つかった。調べてみると孫文が日本軍将校・日野熊蔵に発注したものだった。日野は当時、天才技術将校として知られ、後に飛行家の草分けになった。孫文は日本の飛行技術に関心を持っていて日野に飛行機の教習も頼んでいた。
孫文は19世紀から第二次大戦の間に活躍した革命家としてはナゾだらけである。古いタイプの中国人だったのか近代人だったのか。何より秘密結社に何度も関わった。亡命中故郷の妻と正式に離婚し、日本で行われた宋慶齢との結婚も政略結婚だったのだろうか。衰世凱との決戦、第二革命に際して、日本の援助を求めて後に中国侵略の急先鋒となる森 恪(もり かく・当時三井物産社員)に、満州の日本への 〝割譲″を申し入れた。
孫文は大正政変(大正元年)で失脚したばかりの桂太郎前首相に秘密裏に会い、中国-日本-ドイツの連携で〝合意″した。満州を日本の勢力下に置くことを拒んでいなかった。彼の真意はどこにあったのか? 日本を手玉に取ろうとしていたのだろうか。
これらの話はいずれも事実なので、戦後の日本の左翼系学者は中国共産党の評価が固まるまで孫文の研究は避けてきた。いまもそういう面はある。孫文が「日本と提携し辛亥革命を推し進めた新中国建国の英雄」として大手を振って研究されるようになったのは、妻の宋慶齢が文革の嵐を生き抜き共産党政府から1981年に「中華人民共和国名誉主席」の称号を与えられ、没する直前からである。宋慶齢の死去と同時に夫孫文の功績が称えられるようになった。
孫文は確かにナゾの多い人物だが、中国に行って見ると、多くのことが氷解する。辛亥革命は日本では明治末年に起きた暴動である。清朝が亡び孫文を臨時大総統として中華民国が出来たのは1912年1月1日。その後のごたごたで袁世凱が大総統となって国としては落ち着いたが、すでに第一次大戦中。3年後の1915年の1月には日本の大隈重信内閣
が「対華二十一ヵ条要求」を中国に突きつけ、五四運動という反日全国デモが起き、衰世凱が没したのは1916年の6月のことである。
辛亥革命の時期欧米が第一次大戦中で、中国に手が出せなかったことが、孫文や辛亥革命のナゾを生んだのだ。
だから中国に行ってみれば分かることだが、孫文らが変革しようとした清朝の政治ほどヒドいものはなかった ー これが本質である。清朝ほど残酷な統治をした王朝はアジアでも珍しい。国民のほとんどに弁髪を強いた。政治運動家は摘発されれば、すぐクビを撥ねられた。中国語を外国人に教えるのは死罪に当たった。
武田泰淳の〝誤解″
筆者は上海の経済史の研究をしている。当時の上海を研究する際注意しなくてはならないのは、この町の中でも上海租界だけが、欧米の支配の下で風俗が近代化していた、ということである。この近代化は大海中国の粟の一粒のような上海で起きたことで、ほとんどの中国人の生活は〝野蛮″の中にあったのである。
近くの絹産地の無錫でも、農民は外国人と話と官憲に殺されると怖れていた。欧
米人を洋鬼(ヤンキー)とよび日本人を東洋鬼(トンヤンキー)と怖れたが、彼らが怖れたのは外国人と接触する人間を見つけてクビを切る清朝の宮人だったのだ。明治時代にその元が出来た東亜同文書院の学生が中国国内旅行する際や、辛亥革命を支援するため武昌、漢口(ここも租界があったから行けた)に駆けつけた日本人は、まず辿り着くまでに清朝の監視人と戦いがあったのである。
人権が全くない中で、孫文たちは明治の末年に辛亥革命を起こした。このため、秘密結社とピストルや刀といったテロ用の小兵器は不可欠だった。
武田泰淳の小説『秋風秋雨人を愁殺す』の主人公秋理女史が日本で日本刀の短刀に執着するのを、作家(武田)が囁う場面があるが、これも戦後の日本人の感覚である。日本の武士は刀を差していたが、科挙を通った清朝の宮人は丸腰の文官である。文官だがやることは残酷なのである。民衆が武器を持つことは禁止されていた。
武田泰淳の小説『秋風秋雨人を愁殺す』の主人公秋理女史が日本で日本刀の短刀に執着するのを、作家(武田)が囁う場面があるが、これも戦後の日本人の感覚である。日本の武士は刀を差していたが、科挙を通った清朝の宮人は丸腰の文官である。文官だがやることは残酷なのである。民衆が武器を持つことは禁止されていた。
自殺をするためにはよく切れる短刀がなくては秋理女史も清朝の宮人に何をされるか分からなかった(はたして首を撥ねられた)。
犬養毅は中国革命家に日本刀をしばしば贈ったが、辛亥革命の暴動で本当に役に立ったのである。
清朝の間だけでなく、その後も中国は政治的テロの国であった。国民党のなかでも普通に行われた。そのテロには共産党も参加。日中全面戦争が起きると国民党、共産党、日本の特務、憲兵、傀儡政権のテロリストによる〝テロ戦争″が、本当の暴動、戦闘とは別に起きた。中国ではテロと軍の反乱、暴動がシンクロする時に革命、王朝交代が成功するのである。
紙幅がないのでここに書いておくが、辛亥革命後、袁世凱の覇権が確立したのは袁世凱が上海で二つのテロを成功させたからであった。国民党の理論家、宋教仁と辛亥革命に際して上海を鎮圧した陳其美の二人の暗殺である。どちらの暗殺も巧妙に仕組まれた。
しかしこの二つの暗殺は孫文と袁世凱にとって実に意味のあるものだった。宋教仁はある意味、孫文と同格の政治家だったが、中華民国を立憲政治にしようとし、そのために袁世凱と交渉しようと上海から北京に行く途次、上海駅頭で殺された。最後の言葉も衰世凱に「立憲国家の設立の期待」をかけたものだった。このため一時は陳其美に暗殺の疑惑がかかっ
た。しかし孫文の秘書格だった陳には秘密結社のチンパンという仲間があり、チンパンの
警察署長の働きで宋教仁の暗殺者は判明するのである。
一方陳其美は辛亥革命が起き、黄興、宋教仁らが武昌に走る間に、上海にチンパンの革命派を集めて清朝の武器製造所、江南機器局を乗っ取る。この時陳其美は逆に捉えられ、イスに座らされ群髪を壁穴に通され殺される寸前だった。興味深いのは、日本に留学し、法政大学で学んだ陳も、上海に帰ると弁髪にしていたことだ。辛亥革命に加わった革命家たちがどれくらい弁髪だったのかどうか統計はない。しかし写真が残っている孫文以外は
ほとんど弁髪だったのではないか。
ともかく、孫文の上海到着前に陳其美が上海を制圧していたことが、一時武昌、南京から押された革命派が力を盛り返し、孫文を臨時大総統に押し上げ南京を首都にすることに成功した要因である。陳は暗殺されてしまうが、その後甥の陳立夫、陳果夫がCC団という暗殺団を作り国民党を支えた。その後蒋介石とともに台湾に渡る。チンパンの陳家は国民党の支柱であった。
これほど暗殺が重要な革命だったのだが、それは中華人民共和国の成立まで変りはなかった。前近代性と近代性の混交。膨大な死者。これが近代中国史の分かりにくさであり、日本の大学教授などが研究したがらない理由である。
太平天国の乱のはらむ重要な意味
上海に行き、揚子江沿岸に立ってみると、日本に伝わっている「辛亥革命」は、〝日本が理解した物語″だと分かるのである。しかも辛亥革命も清朝衰退史の一コマであった。何十万人が死んだ大事件の連続の中で、事件としての辛亥革命はきれいにメリハリがついた革命だった。
現在でも、日本には孫文や辛亥革命に強い印象を持っている人が多い。2011年10月には中国、台湾ともに記念行事があったが、日本の新聞の方々が辛亥革命と孫文思想の現代への影響を大きく扱ったのはそのためである。
日本が辛亥革命に突出した影響を与えた理由は、さして難しいことではない。辛亥革命は第一次大戦と時を同じくした事件であり、阿片戦争以後中国の植民地化の最大の犯人の英国さえ、欧州の戦争にエネルギーを割かれていた。そして日本がやっと大国として中国に影響力を発揮できる時期に来たからである。
一方倒された清朝にとっても、1840年の阿片戦争で幕が切って起こされた清朝滅亡劇のなかで、辛亥革命は結果的に命取りとなったが、それ以前の数次の暴動・混乱劇に比べれば、安楽死のようなものであった。言い換えれば、清朝の衰弱死にすぎなかった、とも言える。とは言え、清朝はチベット、イスラムを版図に含む巨大な多民族国家だった。清朝が倒れてみてはじめて、世界は中国がユーラシアの大帝国であることに気付いた。
阿片戦争は、清朝支配下で虐げられていた漢民族のナショナリズムに火をつけたのだが、辛亥革命が起きるまで、欧米は自分が起こした帝国の大分裂の重大な影響に気付かなかった。日本は清朝の分裂の意味を知る立場にあったから、辛亥革命を理解したのである。その最初は太平天国だった。欧米は、太平天国の顛末を見て中国をバカにしたのである。
太平天国の乱(1850~64年)は、阿片戦争で最も農村が破壊された広東、広西省で起きた大暴動である。洪秀全という米国の宣教師からキリスト教を学んだ漢民族(客家)の人が、財産の平等、男女平等を旗印に、あれよあれよと言う間に揚子江を押さえ南京を都に帝国を作った。しかも北京陥落を軍事的に仕掛けたのである。
中国の半分を抑えた太平天国は一つの王朝だとも言える。辛亥革命以後の民主化の起点とも言えるが、現在中国では評価が低い。一つは毛沢東が宗教的な民衆反乱を共産党の原点とは認めなかったからだ。それは今の法輪功の忌避と同じである。また共産党の新中国は、国家を割った太平天国を嫌ったのである。太平天国は国家であるから各地に役所を作った。その跡は、揚子江の南にたくさん残っている。10数年前は上海、蘇州でも古びたお宮の扱いだったが、昨年南京に行くと整備されており、当局は観光資源にしようとしているようだ。
その太平天国が湧き上がってきたときに上海に「租界」が出来た。英米仏は洪秀全がキリスト教の分派だったので最初の内は洞ヶ峠を決め込んでいたが、太平天国が上海を取り囲んだ時、「租界」の防衛のために西洋人からなる傭兵隊を作った。
そしてその西洋傭兵隊は、清朝が送り込んだ漢民族軍人の曽国藩を助けた。曽国藩が鎮圧のため何百万人を殺したか分からない。この時代、四億人だった中国は約1億人、人口が減ったと言われる。曽国藩は漢民族の軍隊、准軍を率いて戦ったが、何度も追い詰められ3度自殺をしようとした。辛亥革命より40年ほど前のことだが、曽国藩の成功から清朝内の近代化が動き始めるのである。
日本は幕末の動乱。高杉晋作は幕府の船に乗って上海に渡り、ちょうど太平軍が上海を取り囲んだ時に上海にいた。太平天国と曽国藩軍のどちらが奇兵隊のモデルになったか不明だが、大砲、馬と大歩兵兵団の戦いを高杉が見たことは日本のその後の軍事史を変えた。しかし太平天国は吉田松陰も幕府も十分に気にしていた。
ちなみに、孫文の伯父は洪秀全の崇拝者で、孫文に影響を与えたと言われている。
太平天国は14~15年で滅亡したが、清朝の女真族支配の屋台骨は崩れた。替わって清朝の実権は林則徐、曽国藩の流れを汲む漢民族官僚に移ったのである。その後も漢民族の反乱が続いた。鎮圧した李鴻章は、これをきっかけに頭角を現し洋務派のリーダーとなる。
辛亥革命前、中国のGDPは世界第二位
太平天国の滅亡が、清王朝に西大后の時代をもたらした。清朝の体制内変革の時代が来たのだが、それが中国の近代化を複雑にし、欧米の侮りを許した。これが辛亥革命の温床になった。1875年に進歩的な光緒帝が即位した。光緒帝の幕下(宮廷勢力)で康有為らによる、明治維新に範をとった変法自強運動が始まった。
しかし西大后は1898年彼らを宮廷クーデターで弾圧、光緒帝は幽閉された。この年義和団の乱が起きた。義和団は中国拳法を身につけた民衆反乱だが、珍しく「扶清滅洋」をスローガンに清朝を守ろうとした。西大后は離宮に逃げる際、義和団に手を振るパフォーマン
スを見せ写真を撮らせたのである。
奇怪な逸話を残す西大后は、1908年、光緒帝とそろって死去した。幼帝の宣統帝薄儀(ラストエンペラー)が即位し、清朝は最後の体制内努力として内閣制を作った。辛亥革命まで2年であった。
政治的な胎動は清朝滅亡の辛亥革命に向かって動き出したが、当時、中国はどういう経済状態であったか。教科書では「半殖民地化」が進んだと書いている。「半」とは何か。「半」とは欧米の経済侵略のことである。
英国は阿片戦争でインド産アへンを売り込み、清朝経済を壊し、広東、広西の農村共同体を破壊した結果、中国はクリー(苦力)の労働力輸出をせざるを得ず、太平天国が起きたのである。しかしアロー号事件をフランスが仕掛けた後、欧米諸国は土地を取る植民地化を中国で行わなかった。土地を切り取ろうとしたのはロシアと日本と、遠いヨーロッパのドイツだったが、まだ成功していない。
中国進出の主流は「半植民地化」を進めた英米仏の3カ国である。3カ国は中国に金を貸しせっせと鉄道を作っていたのだ。これを借款といい、出来た鉄道を借款鉄道と呼んだ。「半植民地化」の実態とは、金融、鉄道支配のことである。
人口も多く地大物博(土地が広くモノが多い)の国・中国に輸送手段が出来ると、輸出品が増えた。中国にしてみれば輸出せざるを得なかったのである。借款の担保として塩税など税金が取られたが、欧米も中国は金を返せると見て借款したのである。そのうち中国内で権利回収運動が起きる。
借款鉄道を買い戻す運動である。これは全体としての中国が経済力を取り戻してきた裏側でもあった。つまり、辛亥革命前の中国をアへンに侵された貧困国だったと考えるのは大間違いなのである。当時中国は庶民は貧しく(1人当たりGDP)とも、世界第2のGDP国家だったというのが、キンドルバーガー説である。日本も輸出で先進国を激しく追い上げたが、戦前にGDPで中国を抜くことはなかった。日本の国力など数字化すればお呼びでなかったのである。
その経済成長を担ったのは曽国藩の流れを汲む漢人官僚(洋務官僚)たちであり、頂点に立ったのは李鴻章だった。もちろん権利回収なども彼らの発想で、洋務官僚は上海、天津に工場、海運会社などを経営した。上海の江南機器製造局(1865)天津機器局(1870)、輸船招商局(1872)などである。機器局は兵器を中心にした機械工場で、輸船招商局は海運会社である。いずれも半官半民の企業であり、現在中国を発展させている共産党系国営企業と同じ発想である。
明治の初期に当たるこの時期、李鴻章は欧州からこうした近代産業を導入していたのだ。清朝の〝首相″となった李鴻章と日本は日清戦争でぶつかるのである。日清戦争は、太平天国で曽国藩の後をウロウロしていた李鴻章が経済政策に成功し、清朝の権力を握って、ドイツから2隻の軍艦を買い、東の方で韓国にちょっかいを出し始めた日本を懲らしめてやろうと考えたのが発端だった。
この時韓国に派遣されたのが衰世凱である。その袁世凱軍や武器を輸船招商局の船でソウルに運んだり、韓国と北京の間に電信を張る会社を経営していたのが、李鴻章の実業分野での子分だった盛宣懐という人物だった。曽国藩-李鴻章-衰世凱-盛宣懐の洋務官僚の系譜が、倒れそうな清朝を支えながら自分の利益を蓄積していた。
(つづく)
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