日本リーダーパワー史(240)『3・11事件処理と「昭和の大失敗」張作霖爆殺事件のリーダーシップ不全と比較する①』
日本リーダーパワー史(240)
<不治の日本病ー日本無責任・自滅国家の構造①>
―3・11菅元首相、民主党政権のリーダーシップを検証する―
★『3・11事件処理と「昭和の大失敗」張作霖爆殺事件の田中義一
首相、西園寺公望、昭和天皇のリーダーシップ不全を比較する①』
前坂俊之(静岡県立大学名誉教授)
『昭和天皇、首相を叱責す』ー満州某重大事件(1928年)
① 民間事故調の報告書で、菅元首相の危機管理の失敗がマスコミで大きく報道された。小さいことに口を出し過ぎる怒りの菅に官僚、各閣僚、安全委員会のメンバーがいっさい発言できず、事故処理の妨げとなったというもの。自民党の一部は菅元首相の責任を[死刑に該当するなど]と口をきわめて批難している。
② ここでは歴代宰相のリーダーシップ」について、ケーススタディーをして、菅元首相と比較して、考えたい。張作霖爆殺事件を取り上げる。
③ 張作霖爆殺事件は「満州某重大事件」として、戦後まで国民に真相の知らされなかった。この関東軍の独走はその後の軍部専横を許す結果となり、第2の謀略による満州事変、林銑十郎(無能首相)の独断越境、関東軍自作自演の「満州国建国」となり、独走は暴走へ、、最終的な敗戦へとつながった。
④ その最初の謀略、国家テロが国際法のもと、日本の法の下で厳正公平に裁くことをせず、満州某重大事件として、国民にはもちろん、世界には国の恥をさらす結果になるという誤った判断で闇に葬ってしまった。
⑤ このために、若手軍人や陸軍が頭にのって勝手放題に暴走し、テロを頻発させて国の道を誤ったのである。
⑥ 今回の3・11事故調査を同じパターをたどっていないか。原因調査も原発放射能阻止も徹底してやらず、世界に放射線を今だにまきちらしながら、その真相も究明せず、情報も公開していない姿勢と全く共通している。
⑦ このような隠ぺい体質、秘密主義、非民主主義国家体質が明治以来、昭和戦後の現憲法下でも70年間も延々と繰り返されている。不治の日本病なのである。
⑧ 同じく、トップが自らの姿勢をたださず、不正に対して厳重に責任追及せず、不法者を厳罰に処すという法治主義 国家では当たり前のことが毎回行われていない。責任を追及しない無責任、犯人逃げとく、被害者、国民泣き寝入り国家となっている。
⑨ その先駆的なケースが張作霖爆殺事件である。この事件では時の日本トップリーダーの昭和天皇、西園寺公望、田中義一が河本大作ら関東軍の「不法軍閥」の暴走を軍法会議にかけろと指示しながら、下からの反対におされて決断、実行できず、断固処罰できないという腰ぬけぶりである。
⑩ 今も同じ。今回の原発事故の責任がどこにあったのかーその所在はすでに判明している。あとは、うやむやに処理するのではなく、徹底的に責任追及して、世界中に放射能をまき散らした非を詫びなければならない。日本が民主主義的な平和国家だというならば、やるべき最低の義務である。
<以下は別冊歴史読本『天皇・皇室事件史 デ―タ―ファイル』
(2009年、新人物往来社)掲載より>
一九二八年(昭和三)、中国を統一するための北伐(北方の軍閥を倒す)中の中国・国民革命軍(蒋介石)と北京にいた張作霖(ちょうさくりん)率いる奉天軍の衝突が時間の問題となってきた。
田中義一首相は蒋介石から「(満州には)侵攻しない」との言質をとり、張作霖には北京を離れて東三省(満州)に撤退し、再起を期すように働きかけた。田中の腹のうちは山海関(満州・北支の境界地帯)を境に北支(中国北方)を蒋介石、満州を張作霖に分割して共存させ、満蒙五鉄道の建設計画も張との間で契約したので、張作霖を温存、傀儡(かいらい)政権としてコントロールしながら、満州での日本の権益拡大を構想していた。
一方、関東軍は独自に満州支配の戦略を練っており、いうことを聞かぬ張作霖の満州復帰は全く邪魔もの以外のなにものでもなかった。田中の説得もあり国民革命軍との決戦を断念した張は、六月四日早朝、北京を退去して特別編成の列車で満州に引き上げた。途中、奉天近郊の京奉線が満鉄線と交差する陸橋付近にさしかかったさい、線路に仕掛けられていた火薬が爆発、列車ごと吹き飛ばされ八両目貴賓室に乗っていた張作霖は重傷を負い、まもなく死亡した。
犯行は、関東軍高級参謀・河本大作(こうもとだいさく)大佐の指示で、独立守備隊の東宮鉄男大尉が指揮して、関東軍工兵隊から爆薬を調達し、幾脚に二五〇キロの黄色火薬を仕掛け、付近の小屋まで導火線を引いて電気スイッチで爆破していた。便衣隊(べんいたい)の犯行にみせかけるため、現場には日本守備隊に殺された犯行計画書をもった中国人二人の遺体がおかれていた。
関東軍は「国民革命軍の便衣隊による犯行」と発表した。河本は事前に土肥原賢二(どいはらけんじ)奉天省軍事顧問ら多くに知らせており、村岡長太郎関東軍司令官も独自に計画していたが、それを察知した河本が先行したともいわれている。
河本は爆殺後、奉天、吉林の治安をかく乱し、張作霖軍との戦闘を引き起こし、関東軍が出動して満州を一挙に制圧する計画だったが、陸軍中央部に制止され、張軍も動かず、計画は失敗に終わった。
田中義一首相は全く真相を知らず
事件の翌日の「大阪朝日新聞」(六月五日夕刊)は、一面トップに「南軍の便衣隊、張作霖氏の列車を爆破」の大見出しで報道した。また「事件前の3日夜、現場附近を怪しき支那人7、8人がおり、独立守備隊東宮大尉の部下が2人を刺殺して調べたところ、フトコロには一通の国民革命軍の印ある手紙があり、列車の時間が記されたことから、南軍の便衣隊の仕業と判明した」と犯人を特定していた。
同日夕刊の第一報を見た元老の西園寺公望(さいおんじきんもち)はすぐピーンときて、「どうも怪しい。日本の陸軍あたりが元凶ではあるまいか」と秘書の原田熊雄にもらした。ところが、田中義一首相はまったく知らず、関東軍が関係しているとは想像だにしていなかった。
しばらくして小川平吉鉄道相から現場に残された便衣隊の遺体のデッチあげなどの謀略工作の詳細を知らされた瞬間、田中首相は「わがこと終われり!」と天を仰ぎ、「河本の大馬鹿野郎!!」と大声でどなった、といわれる。
陸軍首脳部は六月末に河本を呼び寄せてきびしく尋問したが、河本は理論武装して知らぬ存ぜぬと反論、全面否定し、この謀略工作の一端を知っていた尋問側の荒木貞夫参謀本部作戦部長らは口を合わせて「河本は関係なし」とそれ以上追及せず、白川義則陸相も了承した。
十月八日、田中首相は満州に派遣していた信頼している憲兵司令官からの調査結果報告を開き、河本大佐、東宮大尉らが事件を計画し、爆殺して、抜刀隊で斬りこみ、独立守備隊による襲撃、という三段構えの暗殺の全貌を初めて把握し、「それじゃ、オラはだまされていたのか」と、怒りと困惑にふるえた。
田中首相は、早速、西園寺公望(元老)に事情を説明した。西園寺は「日本の軍人であることがわかったら、断然処罰してこそ、かえって日本の陸軍の信用、国家の面目も保つことになる。一時は支那(中国)との感情が悪くなろうとも、国際的に信用を維持する所以である」(原田熊雄『西園寺公と政局』一巻)と即時の処断を迫り、「陛下にだけは早速申し上げておくように」と指示した。
田中は「御大典(同年十一月六日)がすんだら何とかしましょう」と答えたが、その後、陸軍、閣僚内部から、事件の真相公表は「国家の恥辱を自ら吐露すること、百害あって一利なし」と反対の声が強くなってきた。優柔不断な田中首相は迷いに迷って、態度を決めかねて、時を過ごした。日本のリーダーの決断できない病に陥った。
陸軍中堅幹部の突き上げー下剋上に屈する
十二月二十四日、参内した田中は、天皇に「事件は遺憾ながら帝国軍人が関係しており、日下鋭意調査中で「もし事実ならば法に照らしで厳正たる処分を行い、詳細は調査終了しだい陸相より奉上します」(『田中義一伝記』下巻)とはっきり述べた。
天皇は、「軍紀は厳重に維持するよう」と強くくぎを刺した。田中が退席した後に天皇は鈴木貫太郎侍従長に「張作東がいかような者であろうとも、現在は満州における東三省の支配者である。これに対して陸軍が手を下しで暗殺するのはよろしくない」ともらした。
昭和天皇はこの時弱冠27歳である。七年前のヨーロッパ視察で国際感覚を身につけた若き天皇は、「厳正、公正な判断力を示し、十分なリーダーシップをしめしたいえるだろう。しかし、叱責によって田中首相が辞任したことに天皇自身が衝撃を受けて、態度表明をその後、控えるようになる。
翌一九二九年一月から再開された第五六議会で民政党がこの問題を厳しく追及し、中野正剛が「満州某重大事件」の公表を田中首相に強く迫った。
西園寺や天皇からは「まだか、まだか」と厳正処分をせかされ、一方、議会、政友会、閣僚の大半は結束して公表反対に回り、板挟みとなった田中首相はますます窮地に追い詰められた。
責任者を処罰し、軍法会議にかけるという田中の意向が伝えられた陸軍中堅幹部はこぞって反対、「もし、軍法会議を開いて尋問されれば、河本は日本の謀略を全部暴露するーなどと居直り、全軍あげて田中首相に抵抗した。処罰の法的な権限をもつのは白川陸相だが、下からの突き上げでお手上げ状態になり田中支持の態度を一変、軍法会議に付すことにも反対に回った。
日本の戦国時代から昭和前期の軍国時代に息を吹き返した【宿痾】(しゅくあ= 前々からかかっていて、治らない病気)の日本病(リーダーシップのコントロール不全、下剋上の勃興)が再発したのである。
現役中は長州閥のトップとして陸軍を完全掌握していたが、予備役となって政界入りした田中にはすでに神通力はなくなっていた。軍法会議をあきらめ、「関東軍は爆破には無関係だが、警備に手落ちがあったので責任者を行政処分する」との陸相報告を了承してしまった。
天皇にどう報告したらよいのか、田中首相は悩みに悩んだ末に、問題を先送りした。事件発生後約一年たった一九二九(昭和4)年六月二十七日に事件の顛末と処理について遅れに遅れて上奏した。
「いろいろ取り調べましたけれども、日本の陸軍には幸にして犯人はないだろうということが判明しました。しかし、警備上の責任者の手落ちであった事実につきましては、これを行政処分をもって処分いたします」と昭和天皇に上奏し、七月一日付で、村岡長太郎関東軍司令官を予備役に、河本を停職すると発表した。
昭和天皇に叱責されて、田中首相は辞任す
しかし、天皇の耳にはすでに河本大佐の謀略計画のほぼ全貌が入っており、天皇自身は当然、軍法会議にかけるべき統帥権干犯、軍紀弛嬢事件と認識していた。
前回の上奏では「犯人は厳重に処罰します」といったのが一八〇度変わっており、「お前の最初にいったこととは違うじゃないか」「(奥に入って鈴木貫太郎侍従長に)田中総理の言うことはちっとも判らぬ。再びきくことは自分はいやだ」(以上は原田『西園寺公と政局』第一巻)と叱責したという。
この発音については立会者がおらず、天皇側近の日記ではそれぞれニュアンスは違っている。
「田中が満州事件につき上奏があったが、それは前とは変はっていると云ひたるに、誠に恐愕致しますと、二度程繰り返へし云ひ分けをせんとしたるにつき、その必要なしと打切りたるに、本件については、そのままにして他に及べりとの御仰せなり」(『牧野伸顕日記』)
「陛下には首相の奏上に対し、何事も言はぬと仰せられ、かつ本件に付、陛下の御聞きになりたるかどは、今回奏上の分と相違あり、故に考ふるとの御趣旨を宣らせ給ひしが如し」(河井弥八『昭和天皇と宮中』)
「陛下には今奏上したることはつとに奏上したる所と非常に異り居るにつき、これについでは何もいはぬ、何れ此件についではとくと考へるとのおおせにて、総理の弁解を御聴取にならなかった」(『同部長景日記)
鈴木貫太郎(終戦時の首相)の証言では次のようになっている。
田中内閣辞職の原因については
田中内閣の辞職の問題は私が侍従長になる前からの起こりで、あの事情は、田中総理大臣から張作霖を殺したのは日本の陸軍の将校がやったので、これに対して厳格な処置を軍法会議に付さなければなりませんということを上奏している。
その事柄を西園寺さんや牧野さんにも話してあった。ところがそれを実行することに対して田中総理は非常に骨を折ったのであるが、当時の内閣諸公が、そうすると日本陸軍の名誉を傷つけるということになり日本の国辱になるから荒ら立てずに片付けねばならんと、田中君の決心に対して反対された。
そのために田中総理大臣の意見は陸軍および内閣諸公によって阻まれて実現することができないでいた。そのうちに反対党の民政党から張作霖事件の実情を話せとしきりに迫った。そこで白川陸軍大臣は、いわばあれは支那人がやったので日本の陸軍がやったのではない、しかしその駐在軍の権域内で起こったことであるから、ここの駐在武官は行政処分するといったようなことでもって議会に臨もうとした。そしてそのことを、陛下に、白川君からその事情を上奏した。
そこで陛下は、先に総理大臣が上奏したこととまったく違った上奏を陸軍大臣がしたので、田中総理の拝謁の際にその両人の上奏の喰い違いを詰問されたので、田中さんは恐愕して御前を退下してから、そのことを私に話された。そして自分は辞職するということをいわれたけれども、それに対して、ただ侍従長としてなんら返事することはできない。真に気の毒なことと思っておったのです。もちろん総理の上奏に対しては、侍従長は侍立したのでは重い。陛下と総理とのど対談の様子は自分には少しも判らん。ただ総理の決心の事実を内々に私に話されたのであった。
これが田中内閣の辞職の原因であるが、その時の情勢を後から聞けば、内閣にはいろいろ議論が湧いて内閣の辞職を総理が一存で決するのはいかん、今一応事情を申し上げて辞職しないように取り計らいたいという意見もあった。田中さんは自分は心が萎えてそれはできないと断わったという。その影響であったろう、閣僚の二、三が侍従長を訪ねて来て、何かといえば中間にたって、つまり陛下と総理の間になって、おとりなしをしたらよさそうなものだというようなことをいわれたように思う。私は、それは違う、侍従長はそういう位置ではない、侍従長は総理のもらされたのを聞いておいただけで、それ以上は侍従長としては、どうしようということはできないのだと断わった記憶がある。
(注) 侍従長はこうしたことに行動すべき役目ではなく、それは内大臣と元老のやることだという意である。
(注) しかし今日になってみれば、明らかに日本人のやったものだと判る。政治家が正直に左様認め、素直に中外にも告げたなら、国辱どころか大道を行く正直な正義の上に立つ政治家として、かえって信用が高まるのであったろうに、陸軍および政党が俗にいう臭い物に蓋をする式な、宣伝をもって事実を蔽おうとする。公明正大にやる意識のない政治、この腐敗が今日の事情をもたらした遠因であろう。私は田中さんに同情する。
ところが、政友会の一方では、あれを宮中の陰謀として宣伝した。牧野や鈴木が政友会内閣を倒したのだといった。自己の不正不義を棚にあげてそういう宣伝をしたのであった。
鈴木侍従長は就任早々で慣れていなかったため、天皇の言葉をそのまま田中首相に伝えた。首相は涙を流し恐愕して、即座に辞意を決意、三日に総辞職したのである。(以上は鈴木一編『鈴木貫太郎自伝』時事通信社、1968年刊 254―255P)
この事件の処理の誤りが、昭和の軍国主義の幕を開くことになった。河本大作は関東軍、陸軍内で英雄祝され、その後、第二、第三の河本が現れ、石原完爾による満州事変を引き起こし、関東軍の暴走、陸軍の暴走へとエスカレートしていく発火点となった。陸軍の下剋上を抑えきれず、天皇の統帥権を無視した軍の暴走を阻止できなかったことが、シビリアン.コントロールの不全という戦前の政軍関係の矛盾、失敗がこの事件に集約されている。
(前坂俊之)