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野口恒のインターネット江戸学講義④『第1章 ウェブ社会のモデルは江戸の町民社会にあり』-(下)-

   

日本再生への独創的視点<インターネット江戸学講義④>
 
『第1章 ウェブ社会のモデルは江戸の町民社会にあり』-江戸の町民社会はウェブ社会先進モデル(下)-
 
 
野口 恒著
 
 
庶民の日常生活や経済活動を支えた「講」のプラットフォ-ム
 
 コンピュ-タ-やインタ-ネットの世界では、「プラットフォ-ム」という言葉をよく耳にする。プラットフォ-ムとは、コンピュ-タシステムやネットワ-クが機能するために不可欠な基礎部分、すなわち土台となる基盤をいう。
 
具体的にはハ-ドウェアやオペレ-ティングシステム(OS)などを指している。たとえば、パソコンを使ってビジネスをしている人にとってはパソコンがプラットフォ-ムであり、携帯電話で情報のやり取りをし、仕事をしている人にとっては携帯電話がプラットフォ-ムとなる。現代のようなネットワ-ク社会において、プラットフォ-ムは日常生活やビジネスのあらゆる活動に必要不可欠な社会基盤となるものだ。
 
 江戸時代の町民社会において、人々の日常生活や経済活動を支える社会基盤といえば、「講」の組織とネツトワ-クが上げられる。講はもともとは純粋に宗教的な信仰のため、あるいは寺社への参詣から生まれた集団組織(信仰講・参詣講)である。
それが江戸時代になると、信仰や参詣を兼ねた旅の講(伊勢講・富士講・御嶽講など)、同業組合の講(太子講・えびす講など)、趣味や嗜好の講(茶講など)、さらには経済的・金銭的な相互扶助を目的とした無尽講や頼母子講など、まさに百花繚乱のごとく様々な種類の講が生まれ、庶民の生活やや経済活動を支えていた。
 
 講は、同じ趣味や嗜好を持ち、文芸的な同好仲間の集まりである座や連とは異なり、庶民にとって生活上の必要性や利便性を提供し、そして様々な経済活動を支援することを目的とした組織とネットワ-クである。
 
そのため、座や連のような緩やかで融通無碍の、アドホックな組織やネットワ-クとは違って、組織もしっかりしていて一定の規則やル-ルに従って運営されており、講のメンバ-をきちんとまとめていくリ-ダ-も存在していた。講のメンバ-(講員)同士は強い信頼の絆で結ばれており、日頃の付き合いや経済活動を通じて暗黙のうちに相互の信頼感が醸成されていくメカニズムが働いていた。まさに、江戸時代の講は、メンバ-同士の間で醸成された信頼感に基づく人間関係が基本になっている。
 
 たとえば、代表的な経済講である頼母子講は、発起人(親、講頭)と仲間(講衆)とから成っていて、講の仲間同士は強い信頼関係で結ばれていた。講は連のように誰もが自由に参加・退出できるわけではなく、講に入るには講衆の紹介と親の許可が必要であった。
 
ただ、一度講に入れば、仲間同士の信頼関係は非常に強かった。講は懸銭(かけせん)とか懸米と呼ぶ金品をみんなで出し合い、入札または抽選によって講衆の一人に金品を融通し、金品を得た者は以後当選の権利がなくなり、全員が当選したら講を解散する場合もあった。
講はもともとは金銭に困窮した者を救済するため無利息無担保で金融していたが、その後取り逃しを防止するために利息・担保を取るようになった。
 
頼母子講には多種多様な講が存在した。たとえば、目的により金銭を融通し合う金講、物品を購入するふとん講、椀講、牛講など、物品だけでなく労力も出し合う萱講、寺社への寄付を目的とした宮講、寺小屋への寄付を行う学校講など、それこそ生活に必要なあらゆる頼母子講が作られ、庶民の生活を支えていた。まさに、講は庶民の日常生活を下支えした“生活のプラットフォ-ム”といってよいだろう。
 
講の役割や働きはそれだけでない。講があらゆる生活分野に普及し、講の数もどんどん増えてくると、中には複数の講に加入してくる人も増えていく。そうすると、それらの人と人のつながりを媒介して講と講の交流やネットワ-クが生まれてくる。講と講が出会い、交流すれば、情報を交換したり、金品を融通し合ったり、ビジネスの取引も行われるようになる。
 
戦国時代以前の講は、戦国大名の支配する狭い領国内にその活動が限られていたが、江戸時代の講は、講と講が無数につながったネットワ-クを介して、その活動は日本全国に広がっていた。輪島塗り、黒江塗り、会津塗り、津軽塗りなど有名な椀講などは、講と講のネットワ-クを介してそれぞれ地方特産の漆器類を全国に販売していた。まさに、これらの経済講は庶民の経済活動を支え、促進する“ビジネス・プラットフォ-ム”の働きをしていたのである。
 
浪花講や東講といった、全国の主要街道にまたがる旅籠のネットワ-クを形成していた旅講もまた、庶民が安全かつ安心して旅行できるよう、さまざまな支援サ-ビスを提供する旅行の“ビジネスプラットフォ-ム”といってよい。
旅講と呼ばれるこうした信頼できる旅のプラットフォ-ムがなかったら、お伊勢さんや富士山、京や大坂など、全国に何百万人の人たちが旅行した江戸の一大旅行ブ-ムは決して起こらなかったであろう。講は、庶民の生活とビジネスを支えたプラットフォ-ムであったのだ。
 
世界一の高密度都市に生まれた「ハイタッチ・コミュニケ-ション」
 
 江戸の人口は18世紀中頃に100万人を超え、19世紀始めには120万人に達していたと推定される。当時ヨ-ロッパ最大の都市であっロンドンが80~90万人位といわれているので、江戸は文字通り世界一の都市であった。
 
江戸の人口100~120万人のうち、その半分の50~60万人が武士、残りの50~60万人が町人を始めとする庶民であった。そして、江戸全体の面積の65%以上を武家の家屋敷・敷地、15%を寺社関係がそれぞれ占め、残り15~16%の地域に50~60万人の町人・庶民が集められていた。江戸の人口密度は町人・庶民に限ると、これまた世界一人口密度が高かった。当時、町人・庶民の人口密度は、1平方キロメ-トルに約5~6万人居たといわれる。江戸の中心地・日本橋地域では100坪ありた約9戸の家があり、30人ほどの人たちが住んでいた。一戸当たり10坪強であり、人口密度はきわめて高かった。
 
 当時の町民・庶民の住宅事情を見ると、人口密度がいかに高かったかがよくわかる。江戸時代の庶民の家は、だいたい一軒の家で二間が平均であり、そこに1世帯平均6人ほどの家族が住んでいた。これだけの部屋の狭さでは、夫婦の寝室や子供部屋などとても取れる余裕はない。
 
食事も、居間も、子供部屋も、寝室もすべて共用である。終戦直後、日本の庶民の家では、一軒の家で二~三間の部屋があり、子供たちが一つの部屋に川の字に寝て、隣室に夫婦と祖父母が寝ていたという家族の光景はよく見られた。江戸庶民の住宅事情はだいたいそれに等しいか、それ以上だったかも知れない。
 
こうした高密度住居では、家族の人も家の中で大きな声を出したり、騒いだりできないから、「目は口ほどにものをいう」というが目でものをいったり、微妙な身振り手振りで自分の気持ちや感情を伝えたり、スキンシップでお互いのコミュニケ-ションを図る、濃密な「ハイタッチ・コミュニケ-ション」が発達するようになった。
 
 江戸庶民の高密度社会では、濃密なコミュニケ-ションやハイタッチな人間関係を通じて、庶民はお互いの感情や心理の僅かな変化や、身振り手振りや態度の微妙な変化を汲み取って相手を理解し、同時に自分の気持ちや考えをそれとなく伝える繊細できめの細かい感受性や微妙な表現能力が養われた。
欧米人のように、自分の気持ちや感情を大きな声や身振りで表現し、自分の考えや意思をはっきりと主張するコミュニケ-ションや表現方法は、江戸の高密度社会にはなかなか育たなかったのである。
 
その代わりに、高密度住居と濃密な人間関係から生まれる、義理や人情、夫婦・家族への深い愛情、男女の微妙な恋愛心理、友人・知人に対するきめ細かい気配りや心配り、四季の移り変わりや自然の美しさに対する鋭敏な感受性、動植物に対する愛情など、きわめて内面的な感覚や感情、繊細な美意識や心理が養われていった。こうした日本人特有の感性・感情・心理は、現在の若者社会やハイテクのウェブ社会において次第に稀薄になりつつある。実は、現代のハイテク社会ほど江戸時代に見られる濃密なハイタッチのコミュニケ-ションや人間関係が求められるのでないだろうか。
 
 よく落語や講談、テレビ番組の時代劇に江戸の長屋風景やその人間模様が紹介される。地主で物知りのご隠居さん、素性のしれない素浪人、どこか由緒ある武家の娘と大店の番頭が駆け落ちしてきたような、いわくありげな若夫婦、怪しげな漢方医や陰陽師、働き者で子だくさんの大工や左官屋の職人たち、地方から江戸に上京してきた薬売りの行商など、実に様々な身分・階層・職業・キャラクタ-の人たちが一つの長屋に住んでいて、時にはいろいろ助け合ったり、時には激しい口論や喧嘩をしたりしながらも、共同生活のル-ルはきちんと守り、仲良く一緒に生活しているのである。
そこには、庶民ならではの生活上の智恵と経験、気取らないありのままの人間模様や生活風景が見られる。
 
 こうした人間味豊かな長屋コミュニティは、現代のハイテク社会において稀薄になった信頼感に根ざした人間関係や濃密なコミュニケ-ションを取り戻すうえで非常に参考になる。必要以上の規模の拡大やハイテク化を求めず、現代のウェブ社会の良さを最大限に活かし高齢社会に適した、より人間的で癒し系の「コンパクトシティ」や「コンパクトコミュニティ」を構築するうえで、江戸のネットワ-ク社会とりわけ長屋コミュニティにおける多様な人間模様や、智恵や経験を生かした生活風景は、それなりに大いに参考になるのである。
 
 

旅人が行き交い、庶民が暮らす「街道のコミュニティ空間」
 
 ヨ-ロッパの歴史のある古い都市なら、どこでも市民が集まる「公共空間としての広場」がある。パリのコンコルド広場、ロ-マのカンピドリオ広場、ベネチアのサンマルコ広場など、みんなそうである。しかし、日本や東洋の都市にはこうした広場がない。ヨ-ロッパの古い都市は広場を中心に発達してきた歴史的経緯がある。広場は非常に重要な役割を果たしており、都市が何か重要な危機や出来事に遭遇した場合、市民は真っ先に広場に集まって、みんなで情報を交換したり、盛んに議論したり、何かの解決策を決めるのである。
 
広場は市民たちの集会の場、定期的に様々な市が開かれるマ-ケットの場、カ-ニバルやフェスティバルなどを行う祭事・行事の場など、時には裁判や処刑の場になることもある。いずれにしても、都市のいろいろな活動はすべて広場を中心に行われている。

そのため、広場の周辺には政治や行政の中心である市庁舎や議会、裁判所や警察署などの役所の建物、市民に時刻を知らせる鐘楼、宗教的な祈りや行事を行う大聖堂や教会などが建てられている。そして、それらの建物の周りを町人・庶民の住宅、商店街や職人街などが立ち並んでいる。最期に都市の外周を堅固な城壁で囲んでいる。

 
これが、ヨ-ロッパにおける中世以来の歴史的な都市の平均的な形である。
 ところが、日本や東洋の歴史的な都市にはヨ-ロッパに見られる公共空間としての広場は存在しない。なぜなら、日本や東洋の都市はヨ-ロッパの諸都市のように、都市が市民の広場を中心に建設され、発達してこなかったからだ。
 
それならば、日本の都市において町人や庶民が集まり、旅人が行き交い、定期的に様々な市が開かれ、お祭りや行事などが行われる公共空間としての広場は何かといえば、それは「街道のコミュニティ空間」である。
 
日本の街道の役割は、単なる交通手段としての空間ではない。そこでは香具師や行商が店を広げたり、修行僧や陰陽師が辻説法や辻占いを行ったり、旅芸人が芝居小屋を設けたり、朝市や夕市など定期的にマ-ケットが開かれたり、山車を引き神輿を担いでお祭りを行ったり、子供たちの遊び場であったりして、日本の街道のコミュニティ空間は多様な役割と機能を持って空間である。
日本の街道は、交通空間・生活空間・コミュニケ-ション空間・コミュニティ空間など、実に多様な機能を持った“多義性のマルチ空間”である。
 
建築家の黒川紀章氏は、著書「共生の思想」(徳間書店刊)において、
日本の都市は、広場を持たないが「道」を中心に発達してきたのであって、「道はあらゆる生活機能が共生する空間である」「道は固定された空間機能はないけれども、二十四時間の生活空間の中で、あるときには、私的な生活の場として、またあるときは公的な生活の場として、その意味が複雑に重複し、深化する多義的な空間である」と述べている。
 
 江戸もまた、五街道を始め大小無数の街道を中心に発達した街道都市であった。江戸時代は、1年に全国で数百万人の人たちが大小さまざまな旅行にでかけた日本の歴史の中でももっとも移動の激しいノマド社会(移動社会)であった。江戸時代に旅行ブ-ムが何度も起こった背景には、旅行好きな日本人の国民性もあるが、江戸時代の多くの都市が旅人をはじめ多くのノマド(移動する人々)たちが盛んに行き交う街道を中心に発達した「街道都市」であったことも大きな理由である。
 
 21世紀のウェブ社会において、多くのユ-ザ-が集まり、様々な情報を交換し、自分たちの意見を述べ、多様な活動を行うネットワ-ク上の公共空間としての「広場」をどう作っていくか、その役割と機能、ル-ルや方法などについて盛んに議論されている。その際に、ヨ-ロッパ諸都市に見られる「公共空間としての広場」の事例だけでなく、日本や東洋の「街道のコミュニティ空間」の事例、とくに公的性格と私的性格を併せ持ち、その境界が曖昧な「両義性の空間」としての街道は、きわめて斬新でユニ-クな視点や事実を提供してくれる。そこから学ぶところもかなり多いと思われる。
 
 それでは、現在のウェブ社会の先進モデルである江戸の町民社会の具体的な内容に移ろう。
 
 

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