片野勧レポート『太平洋戦争<戦災>と<3・11>震災』ー①なぜ同じ過ちを繰り返すのか―仙台空襲と津波<上>
太平洋戦争<戦災>と<3・11>震災①
なぜ、日本人は同じ過ちを繰り返すのか
―仙台空襲と津波<上>―
片野 勧(フリージャーナリスト)
大津波にのみ込まれて壊滅した街の光景と、戦災で焼け野原と化した街の姿――。戦前、戦中を生きた多くの人たちは、この二つの光景を重ね合わせて、戦後とは何だったのかと改めて思いを巡らせたに違いない。また福島第1原発事故による放射能被害を見て、広島と長崎への原爆投下を想起した人も多いだろう。
私は、そうした人々の思いと、戦後の復興がどのようにしてなされていったのかを求めて、東北の被災地を歩いた。まずは「仙台空襲」と今回の大震災(大津波)の両方を体験した人々を追ってみる。
私は宮城県の仙台市や石巻市、名取市、岩沼市、東松島市などを訪ねたのは、3月11日の大震災(大津波)から4カ月半ほどたってからである。まずは仙台市戦災復興記念館(青葉区)を訪れた。パンフレットにこう書かれていた。
「この記念館は仙台空襲と復興事業の記録を保存し、仙台市の今日の発展の蔭にあった戦災と復興の全容を後世に伝えるとともに、あの悲劇を二度と繰り返さないための平和の殿堂としていくものです」
仙台空襲は東北で最大規模
仙台空襲は1945年7月10日未明に行われた。夜間焼夷弾による市街地に対する無差別爆撃だった。B29は134機で焼夷弾912トン、爆弾5トンを投下した。被災家屋23,956戸、死者828人(その後の調査で死者は1400人以上)、重傷者385人だった(仙台「市民の手でつくる戦災の記録」の会編『仙台空襲』)。
仙台空襲は死傷者数、焼失家屋数などから見て、東北地方の空襲の中で最大の規模を持つ。私は戦災復興記念館の展示品の一つ一つを見て回った。目を覆いたくなる惨状が次から次へと飛び込んでくる。
市役所付近は全壊し、瓦礫の山となっている焼け跡、富国生命ビル屋上から市街地と市立病院付近の焼け跡、青葉山から見た焦土の街、崩壊した仙台駅のバラック建ての仮駅舎、焼け落ちた清水小路の専売局……。
空襲の語り部にインタビュー
私は仙台空襲を経験した人がいないかを戦災復興記念館の職員に尋ねた。
「おりますよ、仙台空襲の語り部です」
その人の名前は好川堉雄さんという。彼は現在、「仙台の戦災・復興と平和を語り継ぐ会」(以下、語り継ぐ会)の理事で、仙台空襲の「語り部」の一人。1932年1月生まれの80歳。
好川さんは記念館の一隅で静かに語り始めた。空襲時、中学2年生で14歳だった。
落とされた爆弾は、ナパームのような油脂焼夷弾(48発束になっている親子爆弾。10センチ径の長さ約60センチ)で、地上300メートルぐらいで爆発し、100メートル半径のところに落とされたのである。
「油の臭いが充満し、逃げまどう人々の上に焼夷弾をまき散らしました。街の中は、死体が累々と横たわっておりました。身元のわからない方たちの遺骸はトラックの荷台にスコップで積み上げられ北山霊園に運ばれました。乳飲み子の上に被さって共に黒焦げになった母親の死体。そこに私は地獄を見る思いでした」(語り継ぐ会編『これだけは是非知ってほしい』)
焦土と化した仙台空襲と情景は同じ
好川さんは今回の東日本大震災についても語り始めた。
「仙台市若林区や名取市の沿岸部は津波で呑まれ、多くの死者がでました。その情景は、一面焼け野原になった仙台空襲の時とそっくりです。また津波で行方不明になった方たちを捜し求める姿は、空襲によって焼け出され、身元不明の遺骸を捜し求めている姿と重なって見えました」
戦災と震災――。たった一字違いでも、戦災と震災はまったく異なる。前者は人災だが、後者は天災だ。それを同じ次元で論じられないけれども、県民の恐怖・怒りは等しく深い。そして悲しいかな、爪あとは似ている。東日本大震災の行方不明者は宮城県内だけでも約2800人に上る。
仙台空襲では、約500ヘクタールが焦土と化し、犠牲者は1400人を超えた。しかし、身元不明者の正確な数字は67年たった今も、まだ分からない。
五木寛之「山河破れて国有り」
敗戦と3・11――。作家の五木寛之氏はこう言う。
「3・11は、日本人にとって『第二の敗戦』ではないかと思います。私には三陸海岸の無残な風景と、広島の原爆の焼け跡が重なってみえました。しかし、敗戦と3・11ではまったく違う。第一の敗戦のときは、『国破れて山河有り』。空襲を直接うけた都市は壊滅状態でしたが、山々は繁り、水は清く流れていました。ところが3・11の場合は、『山河破れて国有り』ではないか」(『文藝春秋』2012・4)
なるほど、空襲によって仙台の街は一面焼け野原になったが、山々は青く茂り、川の水は清らかに流れていた。しかし、今回の津波によって沿岸部は破壊され、大規模な地盤沈下で地形は変化した。何より、放射能による汚染は山にも川にも海にも広がってしまった。まさに、「山河破れて国有り」――。
私は好川さんに戦時中の防空訓練について尋ねた。
「訓練はしていましたけれども、バケツリレーや竹やりでたたき落とす程度の訓練で全然、問題になりません。防空壕は縁の下に掘らされました。しかし、防空壕に入った人たちはほとんど蒸し焼きにされました。防空壕があったために逆に被害が大きくなったともいえます」
当時の日本の民間防空体制はお粗末そのものだった。投下される焼夷弾と爆弾に対して、火たたきとバケツリレーで向かって行ったが、多くの日本人は焼死した。これは、銃後の国民に特攻隊思想を強要したためである。
民間防空の最高責任者は警視総監で、「民間防空は、国民の義勇奉公の精神を基調として行うべき」と訓示していた。義勇奉公とは正義と勇気をもって、国家や主君のために尽くすという意。科学的な防空体制ではなく、精神論を押しつける絶望的な訓練しか示し得なかったのである。
海岸は瓦礫の山
全市が壊滅状態になった宮城県名取市へ。
市街地に近づくにつれ、道路の痛みはひどくなる。水たまりの個所もあった。名取川の名取橋にさしかかったとき、思わず息を呑んだ。橋の上から下を望むと、海岸の街は一面、瓦礫の山と化していた。その光景はテレビで何度も見ていたが、テレビで見た光景と自分の目で確かめた光景とは、また別の世界だった。
不思議な沈黙、奇妙な臭い……。道路で見かけるほとんどの車は復旧作業のダンプカーや警察のものだった。道路はあるが、街がない。瓦礫のジャングルは、「3・11」までは人間が住んでいた。じいちゃん、ばあちゃん、とうさん、かあさん……同じ屋根の下で食事をしたり、テレビを見たりしていたのだろう。
しかし、灰褐色だけが広がる世界に、ひとつひとつの家族、一人一人の人生があったことを見いだすのは、不可能に近い。
のちに、この瓦礫の置き場から火が出たというニュースが流れた。微生物の動きが活発になったり、金属と水が反応したりして熱がたまるのが原因だという。微生物を多く含むヘドロや重油まみれの木材が交じる津波被災地の火災は、まるで大空襲で燃え盛った東京の街の様相と似ていた。
震災という名の「戦場」
津波によって流された船があちこちに転がっていた。名取市小塚原には道路と田んぼの間に、「第五蔵王丸」という名の船があった。閖上小学校は静まり返っていた。頭ではわかっていても、実際に訪れてみると、あまりにも被災したエリアが広く、かつ多様であることが身体で理解できた。それぞれの持つ街の豊かな風景と東北の地形が生み出す自然の風景が傷ついたのを、この目ではっきりと捉えることができた。
津波で呑みこまれた街の木造家屋は土台しか残っていない。岩がむき出しになっているだけだ。町の彼方まで見渡すことができるのがいかにも異様で、ところどころにコンクリートの建物が骸骨のように立っていた。
報道されていない小さな集落も差別なく、津波に呑まれていた。街にはほとんど人影が見られない。この状況に接して、私は自然の猛威に文明がすべて否定されたように感じた。私は「空襲・戦災を記録する会」全国連絡会議で各地の戦場写真を数多く見てきたが、どんな戦場でもこんなすさまじい光景を見たことがない。
道路わきには巨大な松の木の残骸があった。ガードレールが外を向いてひんまがっていた。津波の引き潮のエネルギーによって、想像のつかない力が働いたのだろう。津波は凶暴な力で一瞬にして平穏な日常を変えた。地肌がむき出しになり、荒廃した光景は、まさに震災という名の「戦場」ではないのか。
石巻市。製紙工場も大きなダメージを受けた。紙製品を運んでいたコンテナ貨車、出荷されるはずだった紙製品のロールが津波の力であちこちに散乱していた。特に紙を運んでいた鉄道の被害は甚大。線路はぐにゃぐにゃに折れ曲がり、赤い車両はレールから外れ、大きく倒れていた。67年前の仙台空襲でも鉄道が狙われ、市民の足が奪われたが、今回の津波の比ではない。
「貞観津波」無視された警告
「科学は未来を予測することはできなくても、過去を正確に知ることができるし、そのことから災害の悲劇を繰り返さないために、どう備えなければならないかを提言することができるはずだ。科学は人々の命を守るためのものでなければならない」――。
こう言って、突然、襲ってくる津波に警鐘を鳴らしていた地質学者がいる。東北大学大学院理学研究科の箕浦幸治教授である。(以下、ノンフィクション作家の柳田邦男氏の論文「巨大津波 無視された警告」『文藝春秋』2012年4月号を参考にする)
箕浦教授は明治期、歴史地理学者の吉田東伍『類聚国史』の一編「三代実録」の中の、貞観11年(西暦869年)5月26日、仙台平野を襲った貞観地震・津波に注目した。そして箕浦教授自身も、この貞観津波に地質学の手法を採り入れて、調査。
地質学の手法とは大地を掘削して、津波の痕跡を探す方法のことである。水田の広がる仙台市若林区の荒浜地区でボーリングを行い、地質調査したところ、貞観津波の痕跡がはっきり残っていることを発見した。「三代実録」の記述は事実だったのだ。
箕浦教授はその年(1986年)の地震学会で、貞観津波が歴史的に最大級の津波であり、仙台平野における津波対策を再考する必要があるという研究成果を発表した。ところが、地震学者たちはこの報告に全く関心を示さなかったという(前掲書「柳田論文」)。
なぜなのか。箕浦教授は述懐している。
「貞観津波の研究などは、枝葉末節そのものだったのでしょう。それに地震学者は、地質学にほとんど興味を持たないんですね」
1986年は、2011年の3・11「東日本大震災」の25年前である。もし、この時に官僚も政府も産業界も地震学会も、箕浦教授の警告に真摯に耳を傾けていたら、こんなに被害は拡大しなかったにちがいない。警告を無視し、何の備えもしなかったことが、今回の大惨事を招いたともいえる。
さらに箕浦教授は海岸線から約1・8キロの荒浜地区だけでなく、約2・5キロと約4キロの二カ所を加えた計三カ所を掘削した。その結果、重要な新事実を発見。貞観津波は海岸から一番奥に入った地点を含めて三カ所すべての地点で堆積物の痕跡を残しているという事実を掴んだのである。
箕浦教授は津波の発生間隔を平均的に800年から1100年に一回と結論づけた。そして1990年にその論文を今度はアメリカの地質学会誌に投稿して掲載された。論文の中で、こう警鐘を鳴らした。
「貞観津波から今は千百年の時を経ており、堆積の周期性から考えると、仙台湾岸で巨大な津波が発生する可能性がある」(同)
この論文は、また日本の学会では注目されなかった。巨大津波の警告を無視した日本の政府や学会、ジャーナリズム……。そして不動産業者らしい人物からの圧力も。「仙台平野に大津波が来るなどといい加減な発表をするな」と。
桐生悠々の「関東防空演習を嗤ふ」
戦前の日本では、“万邦ニ比類ナキ”検閲が行われ、ほとんど言論の自由はなかった。戦前のジャーナリズムのタブーは天皇制批判、ポルノ、日本本土空襲に関する文章だった。このタブーに挑戦したのが、信濃毎日新聞の主筆・桐生悠々。彼は「関東防空演習を嗤ふ」と題してこう書いた。
「敵機の爆弾投下こそは、木造家屋の多い東京市をして、一挙に焼土たらしめるだろう……逃げ惑う市民の狼狽目に見る如く、投下された爆弾が火災を起す以外に、各所に火を失し、そこには阿鼻叫喚の一大修羅場を演じ、関東地方大震災当時と同様の惨状を呈するだろうとも想像される」(『信濃毎日』1933/8・11付「評論」)
軍部は烈火のごとく怒り、在郷軍人会は不買運動に乗り出して、この圧力で桐生悠々は信濃毎日を追われた。この小文は12年後の日本本土空襲を予見した警世の文章といえた。もちろん、軍部は関東大震災の大火の経験から空襲の恐ろしさを知らぬはずはない。空襲されれば、それで終わりということを知りながら、侵略戦争に突入していったのだ。
箕浦教授の「貞観津波」と桐生悠々の「関東防空演習を嗤ふ」の二つの警鐘――。これは同列には論じられないだろうが、その本質は全く同じではないのか。よもや、一地方の学者、ジャーナリストだから警告を無視したのではないだろうが、戦前も戦後も日本の構造的システムは何ら変わっていないのだ。
1943年1月のガダルカナル島からの撤退。1944年6月のマリアナ攻防戦で、もはや戦局の帰趨は絶望的になり、多数の戦死者や餓死者が出て、誰が見ても敗戦は明らかだったのに、「がんばろう! 日本」などの標語が飛び交い、感動的な話題を満載していた。
2011年の夏。「節電しよう」「15%削減しよう」と東京電力はもとより、政府も政治家もマスコミも一丸となって呼びかけた。その呼びかけを聞いていると、戦時中の「ゼイタクは敵、ガマンは美徳」というプロパガンダを思い起こす。
節電の大合唱は戦意高揚と物資の調達のために家庭の鍋釜まで供出させた戦時体制下とよく似ている。その結果、猛暑の中、エアコンをつけずに熱中症になった老人がいた。私自身も計画停電のため、二度、暗闇の生活を経験した。そのことに疑問を挟もうとすると、異端児扱いされそうになった。
震災報道は戦争時の情報操作と同質
3・11「東日本大震災」以降、日本のメディアは朝から晩まで被災地の報道で満ちていた。とりわけ、東電や政府から流される“大本営発表”を鵜呑みにし、無定見な情報を流したことは、太平洋戦争時の国民に対する情報操作と同質。
津波が町や村を根こそぎ流した大震災は日本の歴史上、最大の災害として歴史に刻まれるだろう。日本の敗戦も我々に決定的な歴史を刻んだ。
戦争末期、日本の都市という都市は米軍のB29爆撃機によって木っ端みじんに焼かれた。そうした中、東北地方の空襲は1945年8月15日の無条件降伏前の7月と8月に集中した。一般人を狙い、戦意喪失を目的とした無差別殺戮爆撃である。
先に述べたように宮城・仙台空襲は7月10日未明。岩手・釜石の艦砲射撃は7月14日と8月9日の2回。青森空襲は7月28日。ただし、福島・郡山空襲は4月12日正午前後、保土谷化学工場その他の工場に対する精密爆撃だった。そのころ、米軍は主に軍需工場を狙っていたためである。
日本のように権力機構(政治家、官僚、マスコミ等)が強大で庶民が無権力の国では、大空襲や原爆投下の時もそうだったが、老人や子ども、女性など弱い立場の人々に被害がしわ寄せされる。東日本大震災の死者の64・4%は60歳以上の人々である。
灰色濃厚な日本に対して続けられた米軍の容赦ない空襲。しかし、何よりも日本の指導者が終戦の決断を遅らせたことが戦禍を広げ、犠牲者を増やしたことはいうまでもない。
第二次大戦が残した教訓は“決断”である。今、震災復興をずるずると先延ばしして、決断できないのは戦前の政府とそっくり。そのことによって、国民を欺く大本営発表という悲劇が生まれたことを忘れてはならない。
風化させるな!「戦争と津波」
「父が死んだ戦争って何だったんだろう」
仙台空襲を題材にした手作りの紙芝居を戦災復興記念館で昨年2回行った百束たき子さん(69)は2歳の時、現在の東松島市の祖父宅で終戦を迎えた。南方へ物資を運ぶ船の船長をしていた父親は戦死したと後年、知らされた。
「ボルネオで死んだと言われていますが、どこで死んだかはっきりしないんです。ただ、キリの箱の中に、骨の代わりに白い造花が入っていたことだけは覚えています」
東北学院大学(2部)や武蔵野美術短大油絵科(通信教育)を卒業して昭和45年(1970)に結婚。絵本講座にも通っていた百束さんは地域の歴史物を題材に紙芝居を作っていた。しかし、歴史を調べると、そこに出てくるのが学童集団疎開や仙台空襲の“戦争の歴史”だった。父を死なせた戦争についても調べ始めた。
戦争を知らない世代は8割を超えている。紙芝居で学童集団疎開や仙台空襲を描けば、大人も子どもも戦争について考えてくれるだろう、と思った。『空襲・学童疎開・終戦―宮城師範学校男子部附属国民学校の記録』の本を読んだり、1400人以上の死者を出した1945年7月10日未明の仙台空襲の体験者から直接、話を聞いたりして、事実を忠実に描いた。それが『ぼくたちの学童集団疎開』と『願いを七夕に~仙台空襲物語』という作品になった。
今回の津波で、東松島市にあった百束さんの実家も流された。女手一つで3人の子供を育てた93歳の母が建てた家だった。親戚の叔父も叔母も津波に呑み込まれ、亡くなった。危うく助かった母は震災後、市内の仮設住宅で兄夫婦と暮らしている。
「津波の悲惨さも後世の人に伝えてほしい」
百束さんのところへ、こんな電話がかかってきた。
「戦争も津波も風化させてはなりません。そのきっかけになれば……」
命の尊さを描く百束さんは、こう語っていた。
※太平洋戦争(東北地方の空襲、東京大空襲、ヒロシマ・ナガサキの原爆、引き揚げ等)と今回の大震災の両方を体験された方がおられましたら、編集部(公評社)へご一報ください。電話03(3264)0078(代)
(かたの・すすむ)
片野 勧
1943年、新潟県生まれ。フリージャーナリスト。主な著書に『マスコミ裁判―戦後編』『メディアは日本を救えるか―権力スキャンダルと報道の実態』『捏造報道 言論の犯罪』『戦後マスコミ裁判と名誉棄損』『日本の空襲』(第二巻、編著)。近刊は『明治お雇い外国人とその弟子たち』(新人物往来社)。
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