日中戦争史の再勉強①歴史資料<張作霖爆殺事件の陰謀と失敗①>森島守人『陰謀・暗殺・軍刀(岩波新書1950年)を読直す
日中戦争史の再勉強①
歴史資料<張作霖爆殺事件の陰謀と失敗①>
森島守人『陰謀・暗殺・軍刀(岩波新書1950年)を読直す
前坂 俊之(ジャーナリスト)
森島は外交官で1919年(大正8)に外務省に入省、1928年{昭和3}から1935年(同10)まで奉天総領事代理、ハルビン総領事を勤めた。張作霖爆殺事件(昭和3)、満州事変(同6年)、満州国建国(同7年)と関東軍の暴走を現地の外務官僚として、最も身近に見てきた。
当時の日本外交について『昭和前期の20年間は帝国主義的色彩の濃い政治的、領土的発展に向っていた。軍部の支配下に、本音の意味の外交は姿をひそめ、事務的外交の域を出なかった。時に対米、対ソ国交の調整などの試みはあったが、大その時々の外相の個人的思いつきに出たもので、外交方針として統一性と継続性を欠いた』と述べている。(前掲書)
この一貫しないバラバラ外交、ダブルスタンダードが日本外交の最大の欠陥なのである。「あいまいな日本」「態度不明瞭、表裏の日本人」として、外国からの不信感を増幅することになる。半年交代メニューの総理大臣だけではなく、外務大臣はさらに短期でコロコロ交代し、素人外務大臣が登場する。国家の盛衰は総理大臣の外交手腕と同時に、外務大臣にあるといって過言でない。各国における外相のNO2としての位置づけを見ればよくわかる。グローバル化した世界ではなおさらで、外交失敗が戦争へと発展する。
それなのに、日本政治は明治以来、お粗末外交を続けているが、昭和戦前までは外務省など無視して軍人が武力、強圧外交をおし進めた<政府の発表とそれを無視する軍部、さらに出先の関東軍の暴走というダブルスタンダードどころか、無茶苦茶>なのである。
満州某重大事件(張作霖爆殺事件)が長い15年戦争のスタートであり、関東軍を中心とした河本大作大佐の謀略で張作霖が爆殺された。
昭和天皇は軍法会議にかけて厳重に処分せよーと田中義一首相に指示したが、肝心の田中が陸軍を抑えきれず、うやむやに処理して叱責され退陣する。この時、断固、厳正に責任追及して関係者を処分しておれば、その後の陸軍の暴走と内部の下剋上も軍紀粛清できて、食い止めることができた。日本の歴史はかわっていたであろう。
ところが、責任追及、処罰せずの無責任体制によって、河本の後釜の石原莞爾が「第2の河本大作」として、再び満州事変を3年後に起こす。満州事変から陸軍の暴走はとどまること知らずで、「満州国建国」に突っ走る、これを国際連盟で「全員一致」<42対1(日本>で侵略行為と認定された。
日本は全面敗北したため「追放処分を受けて、「国連を脱退」して世界の孤児とか化してしまった。これが日中戦争(1937年)、大東亜戦争(アジア・太平洋戦争、1941)と延々とブレーキのこわれた(原因。責任追及せず)無責任暴走国家となり、転落を続けて無条件全面降伏になったのである。
森島が見聞した「張作霖の暗殺の真相」についてここで見て行くことにする。
以下は森島守人『陰謀。暗殺・軍刀】(岩波新書1950年)より。
張作霖の暗殺(上)張作霖大元帥が北京を引揚ぐ
大正十五年の夏、広東を出発した蒋介石の北伐軍は、翌昭和二年春には揚子江一帯を席捲し、山東地方をも制圧せんとの状勢にあったが、内乱のため、北伐の壮拳は中途で打ち切られた。
国民軍勢力の北進を快しとしていなかった張作霖は、京津に軍を進め、自ら安国軍規司令に就任し、その勢力範囲は揚子江岸にまで達した。張は北伐軍との一戦に利あらず一時後退したが、蒋介石の北伐打切りを見るやふたたび南下、同年六月には陸海軍大元帥を呼しょうし、満洲はもとより華北、山東一帯もその地盤になった。
昭和三年春、蒋介石は北伐を再開し五月末には京津地方にも迫ったが、田中内閣は北伐軍の進出がやがて満州の治安に影響することは必然で、東北軍の敗残兵が京津方面から満州に殺到することは見過ごすことができないという態度を取っていた。
軍部の一部には、 張作霖の排日的傾向にかんがみ、張に見切をつけて下野勧告を強行せんとの強硬論も台頭していたが、対満蒙政策の実行を張個人の存在にかけていた田中首相は、彼の政治的生命を維持させようとの考えから、満州への引揚を強硬に説得し、張作霖と国民政府にあてて
「…戦乱が北京、天進地方に進展し満州に及ぽんとする場合には、日本は満州の治安維持のため適切有効な措置を執らざるを得ないだろう」との覚書を送った。張は右に対して「日本が機宣の措嘗執るべしとの一項は中国政府の断じて承認し難いところだ。満州及び京津地方が中国の領土である以上右は中国の主権に関することで看過し得ない」との回答をした。
しかし,日をおうて悪化する四囲の状勢を前にし、流石に剛腹な大元帥もしぶししぶわが勧告に応じて全軍に総退却を命じ、自らは六月三日深夜、北京を出発、満州への帰途についたが、翌四日未明奉天(現在、瀋陽)の郊外、京奉、満鉄両線の交叉点で搭乗列車が爆破せられ不慮の最期を遂げた。
東北軍後退の報に接した関東軍は、中央の命令を待たず独自の立慧ら、錦州方面へ出動を決定した。これはいわゆる奉勅命令によって阻止されたが、列車爆破事件を見るやあらためて奉天方面に出勤した。若しこの際、錦州出動が実現していたら、満州事変は、昭和六年を待たずに起っていたことは推察に難くない。
張作霖爆殺の真相とはこうだ
事件の直後、六月四、五日にわたって中日両国の共同調査が行われたが、真相は明かとならず、ようやく六月十二日に至って陸軍省は大要攻を公表した。
「張作霖の帰奉に際し、同交叉点に、中国憲兵を配置、警戒したき旨、六月三日中国側より申出があったので、わが守備隊ではこれを容認したが、中国側の満鉄線路上の憲兵配置はこれを拒否して陸橋上は日本守備隊で警戒した。
四日午前三時頃、怪しい中国人三名が密に満鉄戦鉄道堤に上らむとしたので、誰何したところ爆弾を投てきせんとしたので、わが兵は直ちに二名を刺殺したが一名は逃亡した。
死体から爆弾二個と三通の通信が出たが、一通は国民軍関東招撫使の書信の断片だった点から考察して、南方便衣隊員なることは疑いなく、四日夜明け我が警戒兵の監視中・京奉線の東行列車が交叉点に差しかかると、「大爆音と共に陸橋附近に黒煙及び砂塵が濠々(もうもう)として立上った。」
事件の発生当時、中国新聞はもちろん英字紙も事件の背後に日本陸軍のあることを報道したが、日本内地でも満州の現地でも、この怪死が日本人の手によったものとは一般に考えていなかった。
ところが時日の経過と共に関東軍が怪しいとの噂がだんだんと広がり、後日、判明したところによると二名の中国人が刺殺せられ一名が逃亡したことは事実に相違なかったものの、彼らが国民党から派遣された便衣隊だというのは全然虚構であった。
爆破事件の前夜、関東軍の手先がどこからか阿片中毒の浮浪人三名を拉致して奉天の満鉄付属地内に居住していた浪人の安達隆成のところへ連れて来た。(同人は昭和七年一月、錦州攻撃の際、大阪毎日(現毎日新聞)の茅野特派員と共に、軍に先駆けして錦州一番乗りを決行し、茅野と共に惨殺せられた。)
三人いた浮浪人は附属地内の邦人経営の浴場で一風呂浴び、新しい着物に身なりを整えて早暁外出したが、二名は列車爆破の現場で刺殺せられ、中一名が辛うじて逃亡したのであった。常時吉林省長の要職にあり、鋳造問題の交渉などに関連して、公私共に日本側と接触の多かった劉哲が、森岡正平領事に内話したところによると、刺殺をまぬかれた一名は、張学良の下に駆けつけて、ことの顛末を一部始終訴えたので、学良としては、張大元帥の横死が日本人の手によったものであることは、事件直後から高々承知していたわけである。
ただ親の仇とは偵に天を戴かないという東洋道徳の観念から、一度張学良自身の口から日本人による殺害の事実がもれると、学良自ら日本側との接解に当たり得ないので、万事を胸中の奥深く秘めていたに過ぎないとのことであった。
中国では阿片やヘロイン、モルヒネを常用する悪習があり、中毒者は恥も外聞もなく、麻薬の入手に狂奔するので、私たちの中国勤務中には、中毒者が金銀的誘惑にもろい点につけ込んで、よく情報集めなどに利用したものだったが、三名の浮浪人の如きは、利用すべく恰好の囮だったわけだ。私は爆破の眞相を中国側のみから承知したわけではない。
満鉄の陸橋の下部に爆薬をしかけたのは、常時奉天方面に出動中だった朝鮮軍工兵隊の一部だったこと、右爆薬に通じてあった電流のスウィッチを押したのが、後年、北満移民の父として在留邦人間に親しまれた故東宮鉄男大佐(当時奉天独立守備隊付の東宮大尉)だったこと、陰謀の黒幕が関東軍の高級参謀河本大作だったことは、東宮自身が私に内話したところである。
爆破列車に張作霧と同車していた顧問、嵯峨誠也少佐(華北事変発生後少将)が負傷したままで飛びおり・また町野顧問が天津で下車したところから、関東軍全体の仕業だろうとの臆測もあったが、嵯峨が全然関知していなかったことは事実で、爆破関係者は関東軍中の二、三名に止っていた。
常時張の現役顧問は土肥原賢二大佐と嵯峨の二人であったが、土肥原が陰性的な性格のため、とかく敬遠され勝ちだったのに反し、嵯峨は明朗な人となりのため、東三省官場内の信頼を一身に集めていた。
しかし中国側の信頼が厚かっただけ関東軍参謀間の評判が悪かったことは事実で、列車の爆破も国家の大事の前には、嵯峨一人位犠牲にしても巳むを得ないとて、決行せられたのであった。
私は在満当時から嵯峨とじっこんにしていたが・昭和十二年、華北事変発生後、唐山で会見した折、その後軍部の気受けはどうかと尋ねたところ、この頃ようやくお叱も疑惑も解けたらしいと苦笑していた。
爆破計画者のもくろみは、単に張の殺害のみに止らなかったと思われる。列車の爆破・張の死亡に伴う治安のびん乱に乗じて出兵を断行し、引いて大規模な武力衝突を招致し、一奉に満州問題の武力解決を狙ったものであった。列車の爆破に引きつづいて城内の日本人居留民合など数ヵ所に次々と爆弾が投げられたが、何れも出兵の口実と誘因とを作るため、陸軍の手先の行ったものに外ならなかった。
旗順に関東軍司令部があり、満鉄の沿線各地には守備隊が配置せられていたが、平常時には自由勝手に関東州外や付属地外に出動することは許されず、付属地外へ出動するためには、緊急突発事件の場合は別として、平時には関東長官から軍司令官に出兵の要請をすることが必要で、満鉄沿線の各地では、領事からの出兵要求をまつこととなっていた。
列車の爆破、居留民合への爆弾投下等の不祥事件が続発すると、軍側から総領事館に対してー「出兵の必要はないか、治安は警察だけで大丈夫か。」としきりに電話がかかったが、領事館は冷静沈着に警察力だけで付属地内の冶安の維持並に居留民の保護に当たり、出兵を狙っていた一部参謀連の策動に乗ぜられなかった。
昭和六年、柳條溝の鉄道爆破(満州事変)を口実として親領事館の出兵要請を待たず、関東軍限りで出兵を断行したのは、張爆死の際の失敗をくり返さないとの配慮に出たものと見られる。
(つづく)
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