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 日本リーダーパワー欠落史(744) 欧米が心配する『安倍ロシア朝貢外交の行方は!?、再びバラマキ外交で失敗するのか』『歴史復習応用編』-日清戦争後のロシアの三国干渉と遼東半島の武力、占領支配が日露戦争の原因なのである。★『  安倍政権に激震 日ロ首脳会談は北方領土“ゼロ回答”確実に』●『日露経済協力の目玉、サハリン・パイプライン プーチン大統領の訪日に何が期待できるのか』●『日露に総額1.5兆円強の共同計画』

   

 日本リーダーパワー必読史(744)

対ロシア外交は完敗の歴史、その歴史復習問題)

 欧米が心配する『安倍ロシア朝貢外交の行方は!?』

『歴史復習応用編』-日清戦争後のロシアの三国干渉と遼東半島の武力、

占領支配が日露戦争の原因なのである。

 

安倍政権に激震 日ロ首脳会談は北方領土“ゼロ回答”確実に

http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/192889

 

日露交渉 すれ違い 平和条約の調整難航

http://mainichi.jp/articles/20161030/k00/00m/010/107000c

 

日露経済協力の目玉、サハリン・パイプライン

プーチン大統領の訪日に何が期待できるのか

http://toyokeizai.net/articles/-/142024

 

日露に総額1.5兆円強の共同計画

http://blogos.com/article/195601/

 

130年前の日清戦争での日本の圧倒的な勝利は欧米列強に衝撃を与えた。

 

日清戦争の第一の殊動者は何といっても大本営の川上陸軍上席参謀が陸海軍を1本化して指揮したことにあった。日本の圧倒的な勝利は欧米列強に衝撃を与えた。ちなみに、日清戦争によるわが国の犠牲者は外地に出征した兵士、軍属は合わせて約178000人で、このうち7.5%の犠牲者13309人 うち病死11894人)が出た。

日清講和条約は明治28年4月17日、下関で調印された。

       朝鮮国の独立(清国の属領を否定)

       遼東半島(旅順) と台湾の割譲

    賠償金二億両(邦貨約三億円、当時の日本の国家予算

   8000万円)の支払

といった内容で、日本側は歓喜にわいたが、大きな落とし穴が待っていた。

危惧されていた通り、ロシアは下関条約の内容が伝わると、御前会議を開き、皇帝ニコライ2世の指示でドイツ、フランスと協調し、6日後の23日、三国の駐日公使が外務省を訪れた。

 ロシア駐日公使は「遼東半島を日本が所有することは、朝鮮国の独立を有名無実にし、極東の平和に害を与える。遼東半島領有の放棄を勧告する」と異議を申し出た。ドイツも「日本が承諾しなければ武力を用いざるを得ない」との強硬覚書を突きつけた。

 

一方、英国は「清国での英国の権益は日本の講和条件では毀損(きそん)されない」と判断し、ロシアの南下政策を警戒していたので共同干渉の申し入れを拒否していた。

当時、ウラジオストックが基地のロシア太平洋艦隊は軍艦12隻、ドイツ軍艦1隻、フランス軍艦1隻の計15隻の適合艦隊を組んで、日本周辺海域に派遣した。

「三国干渉」拒否の場合は24時間以内に出動できる戦闘準備態勢をとり、神戸などで軍艦数隻がデモンストレーションした。拒否した場合は武力行使をするという有無をいわせぬ干渉だった。

日本側は戦争中から米欧列強の介入をある程度は予想していたが、戦争遂行におわれ、介入防止の外交工作は二の次になっていた。その間に、あっというまに戦争はカタがつき講和会議となったのである。

『戦いは五分の勝利をもって上となし、七分を中となし、十分をもって下となす。五分は励みを生じ、七分は怠りを生じ、十分は驕りを生ず』(武田信玄「甲陽軍鑑」)の通り、日本は「勝ち過ぎは負けに通じる」という勝利のパラドックスにはまった。

清国は『孫子の兵法』の『遠交近攻』(遠くとまじわり、近くを攻める)を戦争中から英、米、仏、独、露に猛烈な利益誘導をもちかけて秘密外交を展開し、三国干渉を実現した。

三国干渉を受けて、日本側に批准延期を要求してきた。批准ができなければ条約は失効する。日本は窮地に立たされた。

伊藤総理は23日夜、陸・海軍首脳と緊急会議を開いた。海軍は山本権兵衛軍務局長が「世界列強3国を相手に戦う力などない」と断言した。この結果、

24日、「広島大本営」で御前会議が開かれた。伊藤、山県、西郷海相の3人と大本営の高級幕僚が列席した。

伊藤は、今後わが国がとるべき案として3案をあげた。

・第l案 たとえ新たに敵国が増加するも三国の勧告を断固拒絶する。

・第2案 列国会議を開催し、遼東半島問題を協議する。

・第3案 勧告を受け入れ、清国に恩恵的に還付する。

l案については、陸・海軍とも三国と戦っても勝ち目はないことから、すぐ退けられた。第3案も受け入れられないとの判断に至った。というのも実際に戦い、満州に駐屯している将兵の反発を買うのは必至であり、勝利に沸き返っている国民にも説明がつかない。

伊藤は『英米の日本への友好国の支援を期待して、国際会議の開催を訴える』第2案を強く押し、この第2案に決して御前会議を終わった。

陸奥宗光外相はこの時、病気のため神戸舞子で療養しており、会議には欠席していた。

 伊藤総理は、その夜広島を発して、二十五日早朝、舞子の病床にある陸奥外相を訪ね、丁度京都から来ていた大蔵大臣松方正義、内務大臣野村靖を加え、三人で協議を開いた。

結果を聞いた陸奥は、「列国会議を開けば、強国の外交戦略に翻弄され、英米への支援期待とは逆の、さらに過酷な要求を突き付けられる可能性が高い。日本に不利となる干渉を招くだけだ」と、第2案に強く反対した。

ロンドンに留学し、英国の外交史を猛勉強してきた博識の陸奥は次のケースを挙げた。

1877年(明治10年)の露土戦争ではロシアはトルコに軍事的には勝利したが、翌年ベルリンの列国会議で、ロシアのトルコ進出は拒否されてしまった。このように軍事的には勝利しても外交で失敗して、所期の目的を達せなかった事例は決して珍しいことではなかった。

しかも、ベルリン会議の場合も、三国干渉同様にドイツが首謀であったことを陸奥外相は説明し、第2案に反対したのだ。

この陸奥の建策により、伊藤も第2案を改め、第3案の「三国には譲歩するが、清国には一歩たりとも譲らない」2面作戦で対応することを確認した。

結局、日本はこの強国連合の恫喝には屈するほかなく、泣く泣く受け入れた。

430日、三国干渉を部分的に受け入れを三国へ通知。54日の閣議を経て、510日、遼東半島還付の詔勅が発せられ、国民に通知した。

 戦勝で湧きかえっていた世論は一転、屈辱の涙を呑んだ。

 

ロシアなど3国の横暴を憎み三宅雪嶺が『日本新聞』で唱えた「臥薪嘗胆」(がしんしょうたん)が国民の合言葉になった。

臥薪嘗胆とは、仇を討つまで我慢するという中国の諺。薪の上に寝て熊の胆を舐めてじっと我慢しながら復讐を誓うこと。三国干渉の本質は西欧列強が弱小新興国の日本の戦利品をかすめ取った『火事場ドロボウ』的な、弱肉強食の強盗行為そのものだった。

以来、日本は、ロシアを仮想敵国にし、ロシアへの復讐を誓った。

ところが、三国干渉の首謀者はロシアではなくドイツだった。

三国干渉にドイツが加わっていたことに陸軍は大ショックを受けた。あのビスマルク、モルトケを神のごとく崇拝していた日本はドイツのインテリジェンスに「赤子が手をひねられるよう」に裏切られたのだが、その三国干渉の真の首謀者はドイツ皇帝ウイルヘルム2世だったのである。

 

もともと、ドイツのアジア、中国進出は英仏米ロから比べて大幅な遅れを取っていた。

1872年(明治4年)普仏戦争に勝利すると、武器市場としてアジアへの進出を加速、清国へはドイツ製の「鎮遠」「定遠」など巨大軍艦を海軍士官付きでセットで売り込み指導、日本に対しては陸軍創設のための指導教官メッケルを送りこんできた。

メッケルも3年間、陸軍大学校でモルトケ、クラウゼヴイッツの戦略、戦術を教えた後は清国の指導に回わり、同じ手ほどきをしながら、各種情報をインテリジェンス(諜報)していたの。

こうして、清国や日本を支援してロシアに対抗させる一方、ロシアの東洋進出をも支援して、ヨーロッパでのロシア勢力を駆逐するインテリジェンス(遠謀深慮、謀略)であった。

三国干渉の結果、日本から恨まれるマイナスと、将来の清国の領土分割戦争に加わり英国の反対に露仏独の3国連合で対抗して、領土を獲得するメリットを計算した上での、三国干渉だった。

 

『黄禍論』を声高に唱えていたドイツ皇帝ヴイルヘルム二世は1895年4月、ロシア・ニコライ二世に宛てた書簡の中で、次のように述べている。

「私はヨーロッパの静寂を保ち、ロシアの背後を守ることに全力を尽くす覚悟である。極東に向けての貴方の行動を、誰にも邪魔させはしない。アジア大陸を教化し、黄色人種(日本人のこと)の侵略からヨーロッパを守ることがロシアに課された将来の大きな務めである。

かくして、出来る限り貴方を手助けする覚悟で私が常に貴方のそばにいることを忘れないでほしい。……(さらに繰り返し自分の黄禍に対する憎しみを述べた後)歴史あるヨーロッパのキリスト教文化を蒙古人種(日本人を指す)や仏教の侵略から守ることこそロシアの使命である。」

(山口洋一『植民地残酷物語』(カナリアコミュニケーションズ、2015212P

 

ビスマルクが岩倉使節団に語った「大国は都合のいい時だけは国際法を遵守を叫び、自国の利益のためには国際法など無視して軍事力を使う」という帝国主義的な恫喝武力外交を自ら駆使したのである。

また、この裏では戦争で負けた清国側は欧米列強に利権をちらつかせて猛然と秘密外交工作を展開して巻き返しをはかって、この最後の逆転劇を仕組んでいた。

戦争には強いが、外交には弱い、インテリジェンスのない日本に対して、ドイツも清国も、1枚も2枚も上手だった。

 

「日本のモルトケ」川上はドイツ、清国に土俵際でうっちゃられた。

ただし、大陸にいた全軍を粛々と撤兵させた点では見事な采配ぶりを示している。

これの『引き際』を昭和の陸軍と比べてみると、そのリーダーパワー、決断力がよくわかる。東條内閣は日米交渉での米側最終回答で「中国大陸からの全支那派遣軍を撤退せよ」を突き付けられた際、これを断固拒否して負けるとわかっていた日米戦争に、「清水寺から飛び降りる」賭けで突入した。

明治と昭和戦前のトップリーダーのインテリジェンスと決断力の差が「勝利」と「敗北」、「明治史」と「昭和史」の明暗を分けた。

 

『三国干渉』下る。

 

川上は、軍部の代表として、遼東半島割譲の最強硬論者だった。軍兵士の多教の犠牲をはらい、血を流して占領した土地を割譲するなどもってのほかで、政治上、国防上からも当然の要求と考えていた。

日清戦争はアジア問題を解決するための序幕で、次に来るのは、対ロ戦争であるとの認識を持っていた。その点で、遼東半島の割譲はわが国の大陸政策の必須条件であるとの認識は山県も変わりなかった。

ただ軍部内に異論はあり、谷干城などは遼東半島、台湾割譲にも反対の態度をとっていた。川上にとっても三国干渉まさに青天の霹靂、痛恨事であった。

明治28年5月18日、小松宮彰仁親王征清大総督は旅順を出発して、凱旋の途につき川上は他の幕僚とともに随行し、21日、神戸に帰国、30日、東京に帰着した。

川上は30日、凱旋して新橋駅に到着すると、川上家の使者として曽木幸輔が出迎えて凱旋の祝辞を述べた。川上はただ『嗚呼(ああ)!』と嘆声を一言もらしたのみであった。

翌日、曽木は川上にその理由を質したところ、川上は自ら眼をさしていった。

「予の眼晴(がんせい)は黒いか」

曽木がうなずくと『余の眼晴が黒いうちは、臥薪嘗胆年じゃ』と決然と言い放った。

 

川上が興した戦争と言われた日清戦争の大勝もつかの間、ハゲタカのような強国同士の「遼東半島」の強奪に、ビスマルク、モルトケの『大国はいざ自国の国益を守るためには平気で国際法を踏みにじる行動に出る』との忠告をかみしめていた。『モルトケの直弟子』を自称していた川上は完全に一杯食わされたわけだが、それは自らのインテリジェンス(智謀)の不覚でしかなかった。

川上は憤然として、遺恨年を胸に『臥薪嘗胆(がしんしょうたん)』(将来の成功を期して苦労に耐えること)するが、その無念さがにじみ出ている。

日清戦争は川上だけでなく、日本にとっての初めての対外戦争であり『戦争とは血の流れる政治であり、外交とは血の流れない戦争である』というモルトケの極意をまだ十分、会得していなかったのである。

 

『三国干渉』後、川上操六はどのように戦略を立て直したか

 

『三国干渉』という一大国難に張り倒された日本はこの失敗を猛反省して、西欧各国への情報収集体制の強化、今後の防衛政策と長期国家戦略の立案が緊急課題になった。その戦略情報立案は、いうまでもなく陸軍参謀本部・川上操六次長の任務である。早速、腹心の福島安正大佐を呼び協議した。

川上「露独仏の三ヵ国の威力の前に屈服させられたわが国が、これに対抗するには英米の二ヵ国と組んでいく以外にはないとみるが・・」

福島「そのとおりと考えます」

川上「しかし、英米とわが国が何を条件に協力できる可能性があろうか」

福島「たしかに容易ではないことは明瞭です。まず日英両国の協力態勢を獲得するための戦略情報を集めてくることが先決と信じます」

川上「そうか、シべリヤ鉄道建設予定が今後10年先と考える場合、どうしても対露戦略上からみて欧米強国の戦略情報支援を仰がなければ成立しないな・・」(以上、「島貫重節『戦略・日露戦争【上】』原書房、20P)

明治28年9月初旬、福島大佐はに川上次長に壮大なプランを提出した。三国干渉から3ヵ月後、単騎シベリア横断からかえって、わずか1年半後のことである。時に福島大佐は43歳。今度の偵察プランは約1年半かけて、イギリスのアジア、アフリカ、中近東における植民地の実態を調査し、特にロシアに対するイギリスの弱点を探し、イギリスを日本に振り向かせるためには何が必要かを探るスパイ大作戦であった。

福島が『亜欧旅行』と呼んだこのプランは明治28105日に東京出発ー明治30年3月まで18ヵ月間かけて、明治30年3月25日東京帰着する。全行程、約7万キロ(地球1周半)、全日数は538日という壮大無比、破天荒なもの。

その最終目的は「日英同盟締結」に導くための情報収集、関係ある諸情報を取得し、これらの情報収集要領について現地を踏査していく極秘偵察旅行であった。

もともと、川上は福島安正を参謀本部のエースにし、国際的にも一流のインテリジェンス・オフィサーに育てあげた。川上の「片腕」というよりも『超長耳』であっ英、仏、独、ロシア、中国の五ヵ国語を自由にあやつる語学の天才で、明治7年に22歳の時、陸軍通訳として勤務して以来、大正3年退官するまでおおむね情報一筋に勤めあげ、最後は陸軍大将にまでなった。

その陸軍在職40年間のうち27年間は主として海外情報収集のため歩きまわり、いつも通訳抜きの単独行動を得意とし、日本の国家戦略に見合う長期情報の獲得に最大の実績を挙げた、いわば『戦略情報の開祖』であった。

福島のインテリジェンス(情報学)は「真の情報とは相手が秘匿しているものを頭脳と足でせしめてくるものであり、他人の話や文書などで適当に作文されたものとはまったく違う。歴史、地理、社会、経済のすでに公表されてある資料などを情報と勘違いしているものがよくあるが、これは能力の低劣を物語るに過ぎない」と断じていた。

明治25年、福島は1年4ゕ月にも及ぶ単騎シベリア横断冒険旅行(ベルリンからウラジオストックまで約1万8000キロ) に出発するが、その狙いは川上の指示による対ロシア戦争に備えた軍事情報収集、特にシベリア鉄道建設情況の把握であり、この世紀の難業を成功させた。

ただし、今回は無名の福島の「単騎シベリア横断」(14ヶ月)の時とは違い、日清戦争勝利後の諸外国の日本に対する関心は飛躍的に高まっている。

しかも、『ビッグネーム』となった福島大佐の行動を各国はきびしく監視している。しかも「シベリア横断という寒冷地ではなく、全く別の亜熱帯、熱帯、乾燥、砂漠、酷暑地域の今回の偵察旅行は果して身の安全と危険が保障されるかどうか。

川上にとっても心配と危惧の念がよぎったが、即、ゴーサインを出した。明治のトップリーダーのこの速戦即決、スピード決断力と実行力こそが昭和前期のリーダー、現在のリーダーとの決定的な違いである。

「亜欧旅行」では、福島は明治28105日に東京出発し、続いて上海―香港―サイゴン一カイローアレキサンドリーベイルートーコンスタンチノーブルーポートサイト―スエズ運河―コロンボ―ラングーンーカルカッタ―カラチ(五・二)、ボンベィーマスカットーテヘランーカスピ海、―コーカサスースカパット(中央アジア)-サマルカンドータシケントーコーカンド―テヘランーバグダットープシールーボンベイーカルカッタ―ラングーン―シンガポール―バンコク―ハノイー香港―上海―長崎に帰り、明治30年3月25日に東京帰着した。

視察目的とその行動はー

    上海、香港、シンガポールはイギリスをはじめ欧米列国が、まさにアジアの国際都市として、この地に最も有力な極東情報の収集機関を設けている。これら先進国の情報員と連絡してその取得した情報をすみやかに東京に報告する。

    サイゴン、バンコック、ラングーンは東南アジア諸国の情報はそのつど、各種の方法で参謀本部に報告、写真機(コダック)を利用して適確な資料を送る。これらの資料は甲乙丙の三種類に分けられた。

    甲は最も機密度の高い情報で参謀本部の川上次長宛に送致、乙は政府高官、陸軍省、参謀本部等の重要幹部に配布する。

この福島大佐の超人的な体力と知力によって成し遂げられた『長期秘密亜欧旅行』は日本のインテリジェンス史上に輝く、明石工作と並ぶ成功事例であろう。

なぜなら、これが日英同盟締結(明治35年)につながったからである。同時に、世界をまたにかけた福島の縦横無尽のスパイ活動を指揮したボス・川上操六こそ「日本インテジェンスンの父」であることが示されている。

 - 人物研究, 戦争報道, 現代史研究

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