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日本リーダー/ソフトパワー史(658)『昭和の大宰相・吉田茂のジョーク集』①「歴代宰相の中で一番、ジョーク,毒舌,ウイットに 富んでいたのは吉田茂であった。

   

日本リーダーパワー史(658)

『昭和の大宰相・吉田茂のジョーク集』①

歴代宰相の中で一番、ジョーク,毒舌,ウイットに

富んでいたのは吉田茂であった。

前坂 俊之(静岡県立大学名誉教授)

 

歴代宰相の中で一番、ジョークに富んでいたのは吉田茂であった。1945年の敗戦後、占領下という最も困難な時代に、吉田はマッカーサーを相手に臆することなく、堂々とわたりあった。

深刻な食糧危機のため占領軍の食糧放出を要請した。「四五〇万トンの食糧輸入がないと、餓死者が出る」と農林省の統計に基づいて陳情したが、実際は七〇万トンで何とかやっていけた。

数字のデタラメさにマッカーサーが怒ると、吉田がケロッとして答えた。

「わが国の統計が完備していたならば、あんな無謀な戦争はやらなかったろうし、また戦争に勝っていたかもしれない」

これにはマッカーサーも大笑いして、それ以上責めなかった。

マッカーサーと吉田の意思の疎通がスムースになったのも、吉田のこうしたジョークとウィットによるものだ。

マッカーサーは話をしながら、司令部の広間の中を、大股で歩き回るクセがあった。会談が白熱するとそれが一層激しくなった。まるで、オリの中を歩き回わるライオンにそっくりで、思わず吉田は笑い出した。

マッカーサーは腹を立て、なぜ笑うと怒った。

『実は元帥がオリの中を行ったりきたりしながら、お説教をしているライオンに見えて、つい笑ってしまったのです」吉田は平気で答えた。

マッカーサーの前では、縮こまってモノもいえなかった日本人が多い中で、吉田のように図太い人間を見たのは初めてであった。

最初にらみつけていたマッカーサーも笑い出して、二人は意気投合したのである。

しかし、最初からこうではなかった。二人とも強烈な個性の持ち主であった。マニラ産の葉巻をすすめるマッカーサーに対して、ハバナを常用していた吉田はこれを断るなど、激しくぶつかったが、お互い、一国の代表者としての気概にあふれていた。

吉田は父親が土佐の自由民権運動家の竹内綱で、外務大臣、宮内大臣などつとめた牧野伸顕の女婿であった。

竹内は茂が外交官になった時、家宝の関兼光の名刀を授け「世俗の欲に迷わされぬように、この名刀で俗念を断ち切れ」と訓した。

外交官として中国へ着任したが、父親から総領事あての紹介状を提出せず、離任の時に初めて出した。

「なぜ着任の時に出さなかったのか」と総領事から詰問されると「親の七光は嫌いだからです」と答えた。

1916 (大正五)年十月、寺内正毅内閣が誕生した。吉田は中国の奉天総領事館で領事官補をつとめていた時、陸軍大臣として満州を訪れた寺内と知り合いになり、以後も、地位は月とスッポンほど違ったが、寺内元帥のところを度々訪れ敬愛していた。

吉田が早速、新総理のお祝いに寺内を訪れると、寺内は吉田に向かって、「どうじゃ、総理大臣の秘書官をやらんか」と誘った。

吉田は「総理大臣ならつとまるかもしれませんが、秘書官はとてもつとまりそうにありません」 とズバリと断った。

この直後、吉田は「大臣官房文書課長心得」に飛ばされた。寺内への一言がゲキリンにふれたのではなく、中国に対する21 ヵ条の要求に、一領事だった吉田が反対論を唱え、他の領事に働きかけて、反対運動を起こそうとした一件が本省に知れて、ワシントン大使館へ赴任の予定が、取り消され閑職へ左遷されたのであった。

吉由は外交官だが、外務省の先輩、幣原喜重郎(後の首相) と仲が悪かった。幣原が英語の達人で、実務にも明るく神経質なのに比べ、吉田は英語がダメで、万事おおらかな親分タイプ。幣原は欧米のエリートコース、吉田はドサ回りの支那通と、正反対の人間だった。

幣原外相は吉田次官の時、吉田が目を通したものでも、すみずみまでチェックし、全面的に書き直した。

ある時、幣原外相が吉田の決裁したものに、朱筆を加えたのに、吉田がカンカンに怒り、「今度は局長の次に大臣に見せたまえ、最後に僕が見る。信用できない次官の印など捺すだけムダ」と言った。

以後、省内では「吉田大臣、幣原次官」と呼ばれた。

 

戦後の吉田と幣原の関係はガラッと変わり、吉田が幣原を終始立てて、協力してことに当たった。外務省時代の二人の関係について、吉田は「外務省時代は、冷や飯ばかり食わされていましたから、ムシの居所が悪かったんで、上司に立てついてばかりいました」と振り返った。

一方、戦後、芦田均(首相)とも終始、意見が違っていたが「芦(あし)も葦(よし)ももともと同じものでしょう。しかし、心がけが悪ければ遥庸㌃、良ければ″吉田′になる。理の当然ですよ」とケロッとしていた。

吉田は戦時中に親英米派として、和平工作した容疑で憲兵隊に逮捕された。吉田邸の書生が憲兵隊のスパイであり、情報が筒抜けであった。

その書生が戦後現れ、吉田に向かって「上官の命令とはいえ申し訳ないことをいたしました」とわびると、「忠実に任務を遂行したのだから、別に謝る必要はない」と激励し、頼まれるままに、就職の世話までしてやった。

太平洋戦争が開戦すると、グルー米国大便夫妻は、憲兵の厳重な監視下におかれ、

大使館内で、窮屈な抑留生活を余儀なくされた。

さわらぬ神にたたりなし、で日本人は、だれも知らん顔であった。ところが、吉田だけは別で、クリスマス、正月、グルー夫人の誕生日などには肉や香料、石けん、花束などをたくさん贈った。これは、クレーギー英国大使に対しても同様だった。吉田は「仇敵に対しても塩を送るのが、武士道というものだ」という精神で実行したものだが、敗戦後、こうした好68 意が吉望占領軍の意思疎通を円滑にしたことは、間違いなかった。

終戦後、苫田は幣原内閣で外相に就任したが、占領軍にどう対処していけばよいか、わからなかった。

鈴木貫太郎前総理とは懇意な間柄だったので、教えを請いにいったところ、鈴木は、「戦争は、勝ちっぶりもよくないといけないが、負けつぶ。もよくないといけない。譲るところはあっさり譲って、潔く引き下がれ。コイはまな板にのせられてからは、包丁をあてら

れてもビクともしない。あの調子で、負けっぶりよくやってもらいたい」 と言った。

吉田はなるほどと思った。

「負けつぶりをりっぱにしよう」

占領軍に対する吉田の基本的な態度は、これで決まった。

政界入りをすすめられた吉田は、「陣笠ではイヤだが、最初から総務くらいになれるのなら、出てもいい」と断った。

総務とは党の三役か、大臣クラスであった。ところが、吉田は外務大臣としてデビューし、すぐその後に総理、総裁となり、二段飛びであった。

吉田のエラいところは、選挙区への利益誘導を一切しなかったことである。そこが、田中角栄や他の政治家と決定的に違っていた。「投票したのは高知県民でも、私は国会議員です。国のことを考え、県内の問題は知事や県会議員の仕事です」と口ぐせのように言っていた。十六年の代議士生活中、選挙区からの陳情は一切受けつけなかった。

ある時、県会議長がやってきて「総理、地元には一寸の鉄道もありません。ツルの1声でぜひ実現を……」と切り出すと、吉田はサッと顔色を変え「汽車ですか、時代遅れですね。ツルの1声で、土佐の鉄道はやめにしましょう」と答え、サッと退室した。

あとで、吉田は「いまの発言で、私の票は五千票は減りましたね」と側近にもらした。

吉田ほど、物議をかもす言葉を、吐いた首相もいなかった。「不達の輩」「曲学阿世の徒」「無礼者」「臣茂」「バカヤロー」「戦力なき軍隊」「辞職は流言昔話」「計画経済はアカ」……。

吉田は好き嫌いがはげしく、嫌いな人間とは、一切ロをきかなかった。その嫌いな代表格 が国内では河野一郎、外国ではインドネシアのスカルノ大統領だった。

河野一郎邸が放火されて全焼した時、吉田はこう言った。「悪いことをして金をためた罰ですよ。私のように、親の財産を使い果たしたものは、頼んでも火をつけてくれませんよ」

吉田は親父が遺した50万円(今の金ならば数十億円)を一代で、使い果たしていた。

スカルノ大統領が対日賠償の請求問題で来た時、吉田は「閣下の来日を待ちかねていました。賠償の支払いは、その原因を作った側にあるとお考えでしょうね」とズバリ言った。

意外な問いかけに、スカルノは面くらい、そして賛意を表し「その通りです。実は今度参りましたのも、その賠償の問題です。はなはだ気の重い仕事ですが、いま閣下の言葉を聞いてホツとしました」

吉田は安心した表情のスカルノにこう言った。

わが国は神代の昔から、貴国がつくった台風で毎年莫大な損害を、こうむっております。いまその計算をさせておりますので、いずれわかり次第、請求書をお送りしましょう」

スカルノは二の句もつげず引き下がった。

このように、ガンコ一徹な吉田は政敵でも自分と同じタイプを好んだ。共産党の徳田球一や野坂参三は好きなタイプだった。

徳田は議会で激しく吉田を攻撃したが、演説のため登壇する時、吉田のそばを通り、小声で「総理、やりますよ」と言い、降壇の時はまた「どうです、参ったでしょう」と小声で言って通った。吉田は苦笑いしながら、徳田の稚気を愛した。

高知へ後輩代議士の応援にかけつけた時のこと。冬で、寒かったため、オーバ1を着たまま街頭演説を始めると、

「オーバーを脱げ!」「失礼だゾ」

と会場から激しいヤジが飛んだ。

野党側のヤジだが、吉田はあわてず、騒がずで、オーバーのエリをつかんで引っぼりながら「これが、ほんとの街頭(外套)演説です」。

この当意即妙なジョークに、会場の聴衆は大爆笑、ヤジの主は黙ってしまった。

政界を引退した吉田は、元老として大磯で悠々自適の生活をしていた。トレードマークの葉巻、和服、白足袋は全く同じで、飼っている犬には、講和条約の締結記念として「サン」「フラン」「シスコ」とそれぞれ名づけていた。

月刊「文聾春秋」がそんなワンマンに取材に行き、6人の首相の対談の企画を申し出た。吉田は「そんなヒマはないよ。大体、首相なんてバカなヤツがやるもんですよ。首相に就任するや否や、新聞雑誌の悪口がはじまって、何かといえば、悪口ばかりを書かれる。そんなバカが集まって、話をしたっておもしろくも何ともない」と断った。

首相を引退後、選挙運動の応援で高知の田舎を回っていた時のこと。腹痛を起こし、山の中の一軒家のトイレを借りたが、家人はおらず、車に乗ろうとすると、帰ってきた。

翌日、同じ道を通ると、村長以下が正装して迎え、「世界の吉田先生をお迎え出来光栄です」とあいさつした。富田もていねいに返礼し、車に引き返すと、秘書官が「この村の票は全部いただきです」と笑った。吉田は「君、選挙は黄金に限るよ」とまぜかえした。

吉田は総理を退いて八年目に『大磯随想』を出版した。この間に、吉田への評価が「アメリカ一辺倒の売国奴」から「日本再建の恩人」 へと変わった。

あいさつに立った吉田は「私の思い出を本にするから、原稿を書けというバカがきた。そんな本を買うバカがあるかと言ったら、何万人ものバカが買って読んだらしい。こんどは出版記念会をやるというバカが現れた。会費まで出してくるバカがあるかといったら、きょうはこんなに大勢のバカが集まった」

会場を埋めた満員のバカから、割れんばかりの拍手が起きた。

 

1960(昭和35)年の日米修好百年祭に、苫田は日本政府代表として訪米した。記念パーティで外人記者から「八十二歳にしては元気ですね」と質問が出た。

「イヤ、元気なのは外見だけですよ。頭と根性は生まれつきよくないし、ロはうまいもの以外受け付けず、耳ときたら、都合の悪いことは一切聞こえません」

「特別の健康法は何か」

「イヤ、別に。しいていえば、年中ヒトを食っているということかな」

亡くなる2年前、吉田は心筋梗塞で倒れた。見舞いにかけつけた娘の麻生和子は「ヤーィ、とうとう、腰が抜けちまったじゃないの」とからかった。吉田は床の中から「なあに、腰が抜けたんじゃない。やっと腰が座ったんだ」と言い返した。

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