決定版・20世紀/世界が尊敬した日本人ー「ハリウッドを制したイケメンNo.1, 『ハリウッドの王者』となった早川雪洲は一転、排日移民法の成立でアメリカから追われた②
決定版・20世紀/世界が尊敬した日本人
20世紀で世界で最高にもてた日本人とは誰でしょうかー
答えは「ハリウッドを制したイケメンNo.1,
『ハリウッドの王者』うたわれた早川雪洲ですよ」②
「働き中毒」「アメリカになじまず」「出稼ぎ労働者の日本人移民」は
「排日移民法、排日土地法」の成立でアメリカから追放された。
前坂 俊之(ジャーナリスト)
マチネー・アイドルとして人気スターに
「ザ・チート」によって雪洲はデミルでさえもが予想しなかった新しいマチネー・アイドルとして人気スターの仲間入りをする。マチネー・アイドルとは、女性フアンのアイドル・スターのことで、雪洲の数年後に台頭したルドルフ・ヴァレンティノがその代表格であり、セックス・アピールがそのための最大条件であった。
そして「ザ・チート」以後、日本人庭師や中国人商人は白人女性から、雪洲であるかのように特別の眼で見られ当惑させられる事態まで起こり、日本大使館からデミルに対して正式な抗議がなされた。
世紀の二枚目ルドルフ・バレンチノ以上の人気
この映画は日本では国辱映画として公開されなかったが、雪洲は日本人の復讐心と残忍さを誇張して排日ムードをあおった売国奴として右巽団体からののしられた。しかし、男性美にあふれた雪洲の人気は高まるばかりで、演技者としても高く評価された。
のちの世紀の二枚目ルドルフ・バレンチノ以上の人気を獲得して、アメリカ人女性には超人気アイドルとなった。逆に、日系アメリカ人たちは,白人からしろい目で見られ,日本国内では「国辱スター」と呼ばれたのです。
外国で成功すると、国内での評価は下がるという日本人特有のさびしい嫉妬心ですね。
映画おじさん『淀川長治』は次のように解説する
当時、ハリウッドは、アメリカ人ではないエキゾチックな顔がとっても好きだった。グレタ・ガルボ、ポエフ・ネグリ、ヴアレンチノ……。そういう顔がいいと思っていた。まあ日本で言えば、フランスとかイタリアの俳優がきれいと思うでしょう。それと一緒ですね。 というわけで、アメリカ人は早川雪洲を見て、びっくりした。あまりにもいい男で、『チート』の早川雪洲の役はね。
「セッシュー・ハヤカワは美男子だ。美男子だ」お化粧して「ハヤカワ映画」を見に行くわけは・・
という評判になって、アメリカ中の女の人が憧れちゃった。だから、アメリカ映画史上の第一号の二枚目はセッシュー・ハヤカワというわけよ。雪洲が出るといったら、女の人は全部飛んでいって見たの。ハリウッドのサイレント時代のスターは2番がウォレス・リード、3番がヴアレンチノ。ナンバーワンが早川雪洲だったのよ。早川雪洲の映画というと、みんなきれいにお化粧して見に行ったほど。なぜかと言うと、「画面から見つめられているから、どうしてもお化粧しておかないと……」
別に早川雪洲が話しかけるわけじゃあないんだけれど、女の人たちはそのくらドキドキして見に行っていたんですね。
「ザ・チート」
「ザ・チート」〈1915年=大正4〉の成功はデミルを大いに喜ばせたが、デミルは8歳下の雪洲を人間としても大いに愛するようになった。
次の「テンプティショ」〈1916年〉もデミルが製作・監督した。この16年、ラスキのフィーチャー・プレイ社は「フェイマス・プレイヤーズ」(ラスキ社)となり、配給会社パラマウントを支配し、パラマウントの商標で映画を作った。
雪洲はこのパラマウント=ラスキのもとで1918年(大正7)の「ザ・シティ・オヴ・デイム・フエイシズ」まで計19本に主演することになった。夫人のツルとは「異郷の人」「ジ・オナラブル・フレンド」「ザ・ソウル・オヴ・クラ=サン」(1916年)、「黒人の意気」「ザ・コール・オヴ・ザ・イースト」〈1917年〉の計5本に共演し、人気はハリウッドのトップに立ったのです。
「ザ・チート」〈1915年=大正4〉の成功はデミルを大いに喜ばせたが、デミルは8歳下の雪洲を人間としても大いに愛するようになった。
次の「テンプティショ」〈1916年〉もデミルが製作・監督した。この16年、ラスキのフィーチャー・プレイ社は「フェイマス・プレイヤーズ」(ラスキ社)となり、配給会社パラマウントを支配し、パラマウントの商標で映画を作った。
雪洲はこのパラマウント=ラスキのもとで1918年(大正7)の「ザ・シティ・オヴ・デイム・フエイシズ」まで計19本に主演することになった。夫人のツルとは「異郷の人」「ジ・オナラブル・フレンド」「ザ・ソウル・オヴ・クラ=サン」(1916年)、「黒人の意気」「ザ・コール・オヴ・ザ・イースト」〈1917年〉の計5本に共演し、人気はハリウッドのトップに立ったのです。
<以下は、週刊朝日-徳川夢声の『問答有用』での早川との対談より昭和27年8月31日>
雪洲 初めての映画は 「タイフーン」(1915年)だな。
夢声 それは日本へはこなかったな。はじめてきたのは「ラッス・オブ・ゴッド」(神の怒り)だ。
大正五年に浅草の富士館で「火の海」という題名で封切りした。説明したのは、樋口旭班って男だった。僕はあれを見て、いい写真だと思ってね、自分でチラシの木版まであつらえたりして、僕がいた葵館へ持ってきて、これを説明してわが輩の名声をあげようてえんで、大いにはりきっていたら、警視庁から上映をとめられちやった。
どうしてかっていうと、終わりの方に「日本の神は怒るけれども、アメリカの神は怒らない」というせりふがある。宗教関係の会から抗議が出たらしいんだな。雪洲 桜島が神の怒りで爆発するという筋だったね。
夢声 早川さんは父親の役だったが、ヒョイと振りむくところが凄いかったよ。(笑)2挺拳銃のウィリアム・S・ハートをインスが発見したのは、あなたよりも1年あとだったね。雪洲 そうでしょう。僕のほうがS・ハートより給料が高かった。ミルドレッド・ハリスなんていう女優は、そのころまだ子役だった。僕はインスのところへ3ヵ月の約束でいって、もう6ヵ月延ばしてくれというんで、延ばしておったら、当時できたばかりのパラマウントが僕をひっこぬきにきたんです。
その時分の最高のブロードウェイ・スターだったダスティン・ファーナムが週給1000ドル、チャ-ルス・レイが75ドル、S・ハートが50ドルだ。僕はインスのところで250ドルもらってたんだが、パラマウントが買いにきた時に「最高の人と同じだったらいってもいい」といった。
「最高というとて」 「たとえばファーナムだ」向うもビ少クリしたらしいけどね、1000ドルも入って、6ヵ月ごとに500ドルずつ増給するという契約で僕はパラマウントへ移った。
夢声 「ジャッガーの爪」は、パラマウントで作ったんだね。雪洲 そうそう。あれはパンチョ・ビラーの作りかえの人物なんです。僕は多少気どってまっすぐ作歩いてたら、パンチョというのは馬ばかり乗ってた人間だからがにまたで歩けていうんだ。(笑)あの映画はがに股だ。
夢声 演技とは知らないからね、「ははあ、雪洲もやっぱり日本人だから、ダニマタだね」と思って見ていたな。(笑)それから、王様になった映画があったね。雪洲 ああ、「乞食王子」ね、南洋の王様になった。
夢声 あれがお正月に出た。ヤマテン(山形天洋)という男が、東北弁で説明したんです。そのころは手でまわす映写機だ。満員だから回数あおってね。ガラガラッと速く回転させる。王様の手やなんぞ、チャカチャカッと速く動いちゃう。(身ぷり)客が笑っちやってしようがないんだ。ヤマテン氏、苦心をして「これはカンべキの強い王様であります」そう説明したら、客は感心して見てたね。(笑)
雪洲 あれの撮影の時はおももろかったね。ぼくは王様と、王様によく似た漁師の1人2役だった。王様はヒョウを2匹そばにおいて、いつもその頭をなでて可愛がってる。
漁師が王様の首をしめて、王様の着物をきて、恋人がかくまわれてるところへいく。家来どもは王様だと思って、みんな平伏してる。ところが、ヒョウが見破るんだ。頭をなでようとすると、ワーッとかみついてくる。もちろん鎖はありますよ、わからないようにして。
だけど、ほんとうに飛びついてくるからね(手をひっこませるの速かつたことったら…・‥。遅かったら、すこしぐらいかまれてたかも知れないっそういう場面を速くまわしたら、いまのあなたの手つきよりもっと速かつただろうな。(笑)
パラマウント映画に連続出演、スターを不動に
「ザ・チート」〈1915年=大正4〉の成功はデミルを大いに喜ばせたが、デミルは8歳下の雪洲を人間としても大いに愛するようになった。
次の「テンプティショ」〈1916年〉もデミルが製作・監督した。この16年、ラスキのフィーチャー・プレイ社は「フェイマス・プレイヤーズ」(ラスキ社)となり、配給会社パラマウントを支配し、パラマウントの商標で映画を作った。
雪洲はこのパラマウント=ラスキのもとで1918年(大正7)の「ザ・シティ・オヴ・デイム・フエイシズ」まで計19本に主演することになった。夫人のツルとは「異郷の人」「ジ・オナラブル・フレンド」「ザ・ソウル・オヴ・クラ=サン」(1916年)、「黒人の意気」「ザ・コール・オヴ・ザ・イースト」〈1917年〉の計5本に共演し、人気はハリウッドのトップに立ったのです。
夢声 「ジャッガーの爪」は、パラマウントで作ったんだね。
雪洲 そうそう。あれはパンチョ・ビラーの作りかえの人物なんです。僕は多少気どってまっすぐ作歩いてたら、パンチョというのは馬ばかり乗ってた人間だからガニまたで歩けていうんだ。(笑)あの映画はガニ股だ。
夢声 演技とは知らないからね、「ははあ、雪洲もやっぱり日本人だから、ガニ股だね」と思って見ていたな。(笑)それから、王様になった映画があったね。
雪洲 ああ、「乞食王子」ね、南洋の王様になった。
夢声 あれがお正月に出た。ヤマテン(山形天洋)という男が、東北弁で説明したんです。そのころは手でまわす映写機だ。
満員だから回数あおってね。ガラガラッと速く回転させる。王様の手やなんぞ、チャカチャカッと速く動いちゃう。(身ぶり)客が笑っちやってしようがないんだ。ヤマテン氏、苦心をして「これはカンべキの強い王様であります」そう説明したら、客は感心して見てたね。(笑)
雪洲 あれの撮影の時はおももろかったね。ぼくは王様と、王様によく似た漁師の1人2役だった。王様はヒョウを2匹そばにおいて、いつもその頭をなでて可愛がってる。漁師が王様の首をしめて、王様の着物をきて、恋人がかくまわれてるところへいく。家来どもは王様だと思って、みんな平伏してる。ところが、ヒョウが見破るんだ。頭をなでようとすると、ワーッとかみついてくる。もちろん鎖はありますよ、わからないようにして。だけど、ほんとうに飛びついてくるからね(手をひっこませるの速かつたことったら…・‥。
遅かったら、すこしぐらいかまれてたかも知れないっそういう場面を速くまわしたら、いまのあなたの手つきよりもっと速かつただろうな。(笑)
週給1億以上、お城を建てて豪華パーティー,ついに「ハリウッドの王者」へ
一九一七(大正5)年、雪洲の週給は七五〇〇ドル〈今の日本年に換算するとどれくらいでしょう1億円ははるかこえているでしょうね〉に跳ね上がった。
チャップリンが週給一万ドルでトップだったが、これに次ぐもの。莫大なギャラーで早川はハリウッドの一角に玄関に狛犬が置かれた東洋風の四階建て古城の大豪邸『グレンギヤリ城』を建てた。
七人の召使をやとって、ここでしょっちゅうスターたちを招いて派手なパーティーを開いてハリウッド社交界の話題をさらった。
時には数百名の客を招待して、豪邸の上と下のフロアで同時に、二つのパーティーを開催。2組のオーケストラが入り盛大なダンスパ-ティを開催した。世界で活躍していたオペラのプリマドンナ・三浦環がアメリカに来た時は一行を招いて600人の客を招待して、大パーティーを開催したが、その豪華絢爛さは、ハリウッドすずめに大評判となった。
パーティー客にはすべてシルバーのシガレット、コンパクトをプレゼント
雪洲は必ず客のすべてに男性にはシルバーのシガレットケース、女性にはシルバーのコンパクトをおみやげとしてプレゼントしていた。これを目当ての客も多かった、といわれる。
そのために、たくさんの銀製品を買い集めていた。雪洲は千葉房総の出身だが、江戸っ子の「宵越しの金は持たねえ」とばかり、威勢のいい気風を受け継ぎ、入ってくる金は惜しげもなくすべて飲み遊び使い果たしてしまった、というからすごいね。当時のハリウッドでも早川のように派手な遣いっぷりのスターはいなかったので人気はうなぎのぼり。
名優・ハンフリーボガードも貧しい少年時代に新聞配達をしながら早川邸に出入りしたことがあり、その豪邸と人気ぶりに早川を仰ぎ見て俳優を志したといわれる。一躍、「ハリウッド〈聖林〉の王者」にのしあがったわけです。エライ。
名優・ハンフリーボガードも早川にあこがれて俳優をめざす
いわば、いまのネットベンチャーのはしりだね。シリコンバレーを制したネットベンチャービジネスの成功者とおなじく、ちょうど100年前に太平洋を渡ってやったのだから、まさしく先駆者です。
そして「ハリウッド〈聖林〉の王者」に
早川のパーティに出席した友人たちはチャーリー・チャップリン、ウイリアム・S・ハート、 セシル・B・デミル、ルドルブ・バレソティノ、ダグラス・フエアバンクス、メりー・ビックフォード、バール・ホワイトなどのハリウッドを代表したそうそうたるメンバーで、早川の豪快さ、ぜいたくさ、人付き合いの良さが人気と成功の基になったのじゃ。
独立製作会社をつくる
映画は次々にヒットしてまさにドル箱の早川に対して、18年なかば パラマウント=ラスキ」は契約更新を望んだが、強気の雪洲は拒否した。
自分が全部やればすきなようにやれて、もうけられるというわけだ。
大学時代の同級生の親から100万ドルを借り、製作会社ハウアス・ピクチャーズを設立して、1本15万ドルの予算でプログラム・ピクチャーを製作、1年以内に200万ドルの利益を上げることを目標に仕事を始めた。
製作・主演、脚本まで手がけて22本を製作
ストーリー形式はパラマウント=ラスキ時代を踏襲、配給はロバートスン=コ一ルに委託した。第一作は『黄泉の国』(1918年)で、ウイリアム・ワシントン監督を起用して本格的な製作に入った。
ツル共演の「異郷の親」(1918)から本格的製作を開始し、二年後には「早川フィーチャー・プレイ社」に規模を拡大して、前後4年間、プロデューサーとして主演の作品を計22本を製作・主演、時に脚本まで書くという全盛期を迎えた。
日本人は文化生活を知らない劣等民族だ
早川がここまで豪華で、派手な大パーティーをやった背景にはアメリカへの日本人移民問題の差別があったのじゃ。
「一九一〇年(大正初期)代末期の日系人に対する白人社会は排日ムード一色で、「日本人は文化生活を知らない劣等民族だ。そんな人種を社交の席に招くことはできない」と公然と言われており、雪洲としてはそんな白人たちに見せつける意味もあって、彼らがあっと驚く生活をしてやったのだという。
これは確かに事実であった。日系人たちは雪洲のすさまじい豪華な生活をねたむより、むしろ拍手をもって迎えた」
〈野上英之『聖林の王者・早川雪洲』社会思想社、1986年〉というわけ。
日系人たちは日ごろのうっぷんを、雪洲の存在によってはらすことができわけですね。
大正初め、カリフォルニア州では最多の外国人は日本人
このへんの事情はアメリカへの日本人移民の歴史をひもとかないと、理解できないじゃろうね。
アメリカへの日本からの移民は1920(大正9)年までに約21万人にのぼり、その間の中国人移民約4万3000人の5倍以上に達した。主に米国西海岸に移し、1919年当時、カリフォルニア州では最多の外国人は日本人であり、全米本土9万人のうち約8万人が西海岸に住んでいたのじゃ。日本人移民はなぜ嫌われ、激しい排斥運動が起きたのでしょうか。ここがポイント。グローバルかした世界中でおきている移民、外国人労働者問題と同じものがここにあります。文化的、経済的な深刻な摩擦が横たわっていたのよ。今、日本国内でもくすぶっている中国人、アジア人、アフリカ人たちとの摩擦と根は同じもの。
アメリカに出稼ぎにいった日本人移民たちは白人労働者の賃金の何分の一で人の何倍も熱心に働いて、他の労働者を。その優秀な労働力が白人労働者を失業へと追い込み、反発とウラミを買ったのですね。
働き中毒と最低のマナーの日本人【今の中国人批判と同じ)
アメリカに移民するという観念ではなくて、ひと旗あげて、もうけて故郷に錦を飾るという出稼ぎ労働者が大部分だったため、単身でわたり、異教徒なので安息日も教会にもいかずガムシャラに働く。
今の日本人以上のわれわれの働き中毒の御先祖様だ。地域にとけこまない。そうした日本人の働き蜂の国民性に加え、男の酔っ払って立小便はする最低のマナー〈確かに50歳以上の男性には特におおいね〉レディファーストをせず、あいさつもせず、日本人同士で固まって、地域に溶け込まない、他民族と友好な関係を築かないなどなど。
特にそのマナーの悪さ、文化の低さがひんしゅくを買ったのですね。
さらに思わぬ反発を引きおこしたのは〝写真結婚″である。日本からお見合い用の女性の写真をおくってもらって、その写真をみただけで相手と結婚する。日本で当時あったお見合い結婚と同じようなものだが、これが米国の女性団体からは「人身売買」「女性への侮辱」と激しく批判され排日の原因となったのです。
1905(明治38)年にサンフランシスコにアジア人排斥協会(後に日韓人排斥協会)ができたが、同協会は次の理由をあげて「排日移民法、排日土地法」が成立するきっかけになったのです。
1 日本人は長時間の低賃金労働に甘んじて白人労働者に対抗する。
2 日本人の生活程度は劣等で、米国人は競争にたえることができない。
3 日本人は獲得した金銭を日本に送り、米国経済に貢献しない。
4 日本人は故国から日常消耗品を買い、米国製品を買わない。
5 日本人は愛国心強く、米国人との同化の素養を欠く。
この日本人移民問題を日本製品に置きかえて考えれば、1970-90年ごろまで毎年のように激化、対立した日米貿易摩擦と同じパターンです。地域にとけこまず、集団的に固まる体質は今も地域へのボランティア活動を一切せず、寄付が少なすぎると批判されている日本企業や日本人ビジネスマン。
日本企業による海外の不動産の洪水のような投資、買収が批判されているが、これも70年前に問題となった、日本人移民の島国根性、閉鎖体質による文化摩擦と同根ですね。
当時、日本人移民の大半は農民で、カリフォルニアで抜群の能力を発拝し、白人が開拓できなかった荒地を次々に農地にかえ、勤勉に働いて得た金で農地や土地、住宅、商店などの不動産を買いあさった。これに白人労働者が怒り、カリフォルニア州で1913(大正2)年八月に〝排日土地法″(正式には「外国人土地法」)が成立してしまったのです。
「富も名誉も人気」も一手に収めた絶頂期の早川に危機は思わぬ方向からひたひたと押し寄せてきたのじゃ。日本人締め出しの排日移民法の盛り上がりと同時に、映画ロケの現場での実際の生命の危機が忍び寄ってきたのです。
一緒に映画を製作していた「ロバートソン・コール配給会社」と雪洲プロダクションの合併話が進んでいた。この配給会社の社長が秘かに百万ドルの生命保険を早川にかけて、危険な活劇のシーンで雪洲が誤って事故で死ぬかのように装って命をねらっていることが分かったのじゃよ。
新たに撮影に入った「朱色の画筆」(大正11年、1922年)は大地震のシーンがある大がかりなスペクタクル映画だった。
ハイライトは街が地震で全滅するシーンで、主演の早川が大ビルの前の10メートルほどの石橋で活劇中に何10トンもの建物のセットが倒れかかってくる撮影シーンで、事前に社長は安全な方に倒すと言っておきながら、早川の方に崩れ落として、早川は間一髪、逃げ出して無事だった。
この危険なシーンの撮影の前に仲間が社長の恐ろしい陰謀をたくらんでいるという情報が早川に届けられており、からくも脱出できたですね。あきらかに早川の生命保険をねらったものだった。事故があったのは同年3月のことじゃ。
この事故の瞬間から早川は愛していた「ハリウッド」との決別を決心したのじゃ。この直後の3月17日、ロバートソン・コールの新社長の主催で行われたセント・パープル・デイのパーティーの席上、雪洲はハリウッドの実力者たちに向かってスピーチした。
「……私は永らくこのハリウッドでスターとして皆さんのお世話になった。まず、そのお礼が言いたい。同時にこの席を借りてお別れも言いたい」と切りだした。
一瞬、「何事が起きたのか」予期せぬ言葉にパーティー会場は静まりかえった。雪洲はつづけた。
「……ご存じの通り、わたしは日本人である。先日、一般市民の投票によって、日本人を排斥すべきかどうか、日本人を排斥する目的の土地法、移民法を通過させるべきかどうか、イエス、ノーの投票があった。『イエスと投票しろ』という宣伝カーがロサンゼルスの街を走り回った。その宣伝カーの中には悲しいことだが、わたしが所属している映画会社の車もあった」〈自伝より〉
パーティーは凍りついてしまった。日本人の代表として、『ハリウッドの頂点に上りつめた早川雪洲』はカリフォルニア州で吹き荒れた日本人差別について、切々と訴えた。
「日本人を排斥しろ」というメガフォンの叫びはわたしの家の周りを取りかこみ、そして現実に日本人にとって致命的なその土地法案は通過してしまった。道を歩くわたしと同じ日本人たちはトマトをぶつけられたり、それは悲しい目にあっている」
「そのやさき、わたしは撮影中に事故にあった。わたしはこの事故が不可抗力のものだと残念ながら考えていないし、また考えられない。とても残念なことだが、私はこうなってしまったこのハリウッドでこれ以上一日も過ごすことはできない。いろいろお世話になったが、今日を限りでみなさんとお別れする」〈自伝より〉この演説通り、雪洲はまもなくプロダクションを解散し、一九一四年以来住み慣れたハリウッドを後にしてしまったのじゃ。
(つづく)
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