「日中韓150年戦争史」(76) 『(日清戦争勝利後)朝鮮における日本』1895(明治28)年3月19日『英タイムズ』
2015/01/01
◎『「申報」や外紙からみた「日中韓150年戦争史」
日中韓のパーセプションギャップの研究』(76)
1895(明治28)年3月19日『英タイムズ』
『(日清戦争勝利後)朝鮮における日本』
<本社通信員記事 神戸(日本)1月14日>
中国での作戦行動が一段落した現在,日本の多くの目は朝鮮に向けられている。日本は朝鮮で取りかかった仕事の難しさと大きさに気づき始めたばかりだ。日本にとって,朝鮮半島における支配力を固めることはたやすかった。鴨緑江の向こう岸へ中国人を追い払うことはさして困難ではなかったのだ。
しかし,旧体制下での相対的繁栄ですら取り戻すとなると全く別問題だ。多少親日的な内閣が作られたが.数週間で崩壊してしまった。改革案は発表されたが.よくも悪くも全く効果が出ていない。
朝鮮国王と重臣には助言が与えられ,彼らは拝聴しているものの体よく無視してしまう。宮廷内の反日の動きは決して表立ってはいなかったが,それでも功を奏してきた。
しかし、ただ1人はっきりと反旗を翻している者がいる。日本軍の援護で政権に就いた日から.大院君は反目をもくろんで暗躍してきた。
当時のソウル駐在日本公使,大鳥氏がいかなる目的で隠遁させられていた大院君を呼び戻し,政権の座に据えたのかは,わからない。おそらく同公使は,日本の目的や意図に対するもっともらしい共鳴のそぶりにだまされたのだろうか。
それとも,初めから二心に気づいていながら,日本が舵をとる新しい船の船主像として使える人材が支配者一族にははかに見つからず,窮余の策だったのだろうか。しかし大院君が平壌の中回の将軍たちと連絡をとっていたという動かしがたい証拠を日本側がつかんだ直後,大鳥公使は召還された。朝鮮を国王の父君によって統治させるという同公使のもくろみが失敗だったことは,この召還ではっきりしたと言えよう。
しかしながら.後任の井上伯爵も.日本人が行うあらゆる改革に対する役人の冷ややかな反対や国民の激しい嫌悪に阻まれ,現行の腐敗した政治体制の改革の導入においては,前任者以上の成果をあげていない。
日本人が提唱し,ソウルの評議会を通過して国王に提出された改革案の大部分は,賢明で政治的技巧に長け.イギリス人に言わせれば多少官僚的であり,やたら研究した跡が見えることは否定できないが,これらが実施されていれば.以前の腐敗行政は飛躍的に改善されただろう。
かくして,すべての人民は法の前に平等とみなされ,奴隷制度は完全に廃止され,請願書により自由に評議会に申し立てることができ,国家財政は総点検され,国家資源は念入りに査定され,度量衡は統一され,税は品物ではなく現金で納められるはずだった。
以上が,日本人によって評議会に押しつけられ,8月に国王が名目的承認を与えた改革の一部だ。これらの改革のいくつかは,きわめて詳細なことにまで及んでおり,数年来日本で朝鮮の綿密な調査が行われてきた十分な証拠となる。
こうして,文官と武官の差別は廃止され.軍服が規定され,公文書は中国式年号表記をやめ,代わりに朝鮮式を用いるよう通達された。役人の従来の数は減
らされ.養子縁組の法律が発布され.各省庁の本務が明確にされ.各省庁の官職が定められ,官吏登用の作文試験が撤廃された。さらに男女の結婚可能年齢(男子が20歳.女子が16歳)までが決められた。
しかし,これらの改革を実施しようという試みは完全に失敗した。まず第1に.こうした全面的改革には金がかかるのだが,資金がなかった。
朝鮮では,すでに貧しい人民からさらにしぼり取ることでしか,金を調達できないのだが,これはもはや許されない。もちろん強制する方法がありさえすれば,役人はそれほど気にもかけず実行しているだろうが、とはいえ国の大部分が赤貧にあえいでいるのは明らかだ。
「戦争のあらし」が北部地方一帯を.こともあろうに収穫期のこの地方を襲ったのだ。中国人は最も肥沃な地域のいくらかを荒廃させた。彼らは前進する際には,時おり食糧を購入することがあるが退却する際には強盗や略奪を行って火を放った。
中国人が残していったもの,すなわち東学党と呼ばれる反乱分子は.多くの地域で盗みを働いた。それ故,改革に着手する前に日本が金を出さなければならないのは明らかだ。この記事を執筆中に,朝鮮政府に迫っている改革を遂行するために,日本では朝鮮への借款が募られるとの情報が入ってきた。
確かな筋から.同国においては500万円の借款が募られ.担保には全羅道,忠清道、慶尚道の南部3地方の税金を充てる旨が伝えられたのだ。
しかし,たとえ朝鮮の財政状態が良好でも,改革の遂行がこの国の役人に任されていては.寸分の前進もとげられるものか疑わしい。日本人自身もこの事実に気づき始めている。1か月ほど前,井上公使は国王に謁見し,改革実行の失敗をいさめた。同公使の通訳以外にはだれ1人同席を許されず,朝鮮王室の侍従たちですら排除された。会見の覚書が作成され,その写しを入手したが,興味深い内容となっている。
井上伯爵は,以後最高権限は国王にのみ与えられるべきだと主張して,説教の口火を切った。「大院君は国王ではない放,国政に口を出す権限はなく,今後いかなる助言も提案も行うことは許されるべきではない」と同公使は述べ,さらに,この見解は王妃にもあてはまるとした。
国王に対する王妃の影響力は,日本が懸念するに十分な理由があった。実際王妃は,中国軍が国境の向こうへ追い返されるまで絶えず同軍とひそかに連絡をとっていたと思われる。大院君と王妃のいずれもが今後朝鮮国の政治にかかわるべきではない旨を国王に通達した後,井上伯爵は,自ら直ちに着手が必須とみなしている種々の改革の大要を説明した。
覚書では,それらは19項目に分けて明記されているが,すでに発表されているため.改めて数え上げるには及ばない。必要とされる改革を遂行する一手段として,井上伯爵は,若干の優秀な朝鮮人青年を一定年月日本へ派遣し各官公省で研修させてはどうか,と進言した。ここに述べたものと同傾向の提言がはかにも多数含まれた覚書は,歴代の朝鮮国王を祭る聖堂の御前に陛下自らが写しを奉納することによりその重要性が正式に認められるべきだ.とする井上伯爵の要求で終わっている。
この提言に国王は結局従ったが.それは覚書が公表されて3,4週間たってからだった。井上伯爵は,大院君を最高権力者に任命した7月の指令撤回をも求めた。大院君は速やかに首班の座を降りたが,引き続き宮廷内にとどまった。これには井上伯爵も異存はなかった。
他の閣僚のうち数人もこの機に辞表を提出し,数日ほど,政府はほとんど機能しない状態に陥った。そこで井上伯爵は行動を起こすことを決意した。
同公使は再び国王を訪問し.改革に向けてなんら措置がとられておらず試みも行われていないことを指摘した後,しばしば国王との間で協議の対象となっていた一件をむし返した。
すなわち,朴公(日本ではポク・エイ・コウの呼び方で知られている)を政府の要職につけるとの助言を進んで受け入れるよう求めた。朴公は失敗に終わった1884年の政変の主謀者の1人で,このときに多くの残虐行為が行われた。
政変失敗後.朴は金玉均(数か月前上海で暗殺された朝鮮人)とともに日本へ逃れ.10年間日本政府の保護のもとで同国に暮らしていた。彼は2.3か月前朝鮮に帰国したが.日本の後ろ盾をもってしても彼の命を狙おうとする企てを未然に防ぐことはできなかったので,現在彼の身柄とその住いは日本の憲兵によって厳重に守られねばならない状態にある。日本の前公使.現公使は共に,朴の拝謁を許すよう.絶えず国王に迫ったが,国王は長らく頑なな態度を通してきた。
しかし井上公使はこれが最後と見てとりわけ強硬に説き,全力を尽くして立派な政権を打ち立てるに必要な改革を推進するにあたって頼りとなる人物を閣僚に任命する掛ま今である,と指摘した。
確かな筋の情報によれば.朴公の受入れを拒めばこれまで常に請け合ってきた改革の約束にはなんら誠意がなかった証拠とみなす,と通告して,井上公使が国王に最後通牒をつきつけたのは.この時点だ。当初国王は譲らず,一級反逆者と考えている人物の受入れをにべもなく拒否した。すると井上公使は.まず国王に向かって,しかるべき日までに朴の拝謁がかなわなければ,東学軍を追っている日本軍を召還し.ソウルを暴徒のなすがままに任せる,と告げ,退出した。
この状況のまま,数日事態は進展しなかったもようだ。主だった閣僚に去られた国王は,極度の不安に陥った。明らかに国王は.脅しが実行され.ソウルが東学党のなすがままとなり,略奪を受けて炎上し.国王と王族が処刑もしくは追放された後,日本人が入ってきて政権を一手に握ってしまうかもしれない,と考えたのだ。日本の要求に服すること以外に道はないと思われ.故に国王はついに井上伯爵に,要求に応じる用意があり.朴泳孝を引見するつもりだ,と伝えた。
最初の謁見は12月13日に行われ.朴は日本警察の護衛を受けて王宮に入った。どのような言葉が交わされたか,正確にはわからない。日本の新聞は,朴が国王に歓待された,と強調しているが,謁見に至る経過から判断すると,歓待はその場をとりつくろうために装われたものに違いあるまい。12月17日に行われた2回目の謁見で初めて朴は内務大臣に任ぜられた。
こうして当面の危機は去り,職にとどまっていた閣僚は井上伯爵を訪れ,改革が長らくのびのびになっていることに対して個人的な遺憾の意を表し.全力をあげて求められている改革の実施に取り組むと約束した。
しかし.日本政府が金の工面をしなければ,朝鮮政府の改革は寸分も進まない,と見るのが妥当だ。朴は(閣僚の中では,最近アメリカから帰国した,もう1人の政変の亡命者,徐光範が朴の同志だが).日本を国々の最高位まで押し上げた発展の道を母国がたどり始めることを心から望んでいる.と言われる。
しかし彼には影響力がないどころか.その考え方ゆえに役人に嫌われ,国民からは国賊としてさげすまれている。彼は.枯渇した財源と堕落した官僚制度と不満を抱いた大衆ととうてい無視できない規模に広がった反乱と戦わなければならないのだ。
いくつかの地方,とりわけ南部はこの何か月も事実上の無政府状態におかれている。あたり全域が東学党に荒らされ民衆が進んで協力しない地域では,脅迫による服従が強いられている。
ある地区では反乱軍はもはや名ばかりの国王に忠誠心など持ち合わせていないと公言するまでに至り,指導者として閲氏一族のある人物を立てた。この人物は正式閣僚の任命を行ったと報じられている。他の地区では完全な無政府状態がまかり通っている。
一方日本軍がすべての戦闘で東学党を破り,この2,3週間に何百人という反乱軍を殺害したのは真実だ。やはりこれまで反乱軍が猛威をふるっていた順天付近では.小作農が横行する狼籍に業を煮やし.東学党の指導者数人を捕らえて処刑し,その首は後に,攻撃を受けた朝鮮政府守備隊に協力する目的で軍勢を上陸させていた筑波艦の艦長に見せられた,との報もある。
しかし東学党の動きは,絶えず敗北を喫しながらもいっこうに衰えず.暴徒がある地域で鎮圧されたとの知らせが入っても,すぐ他の地域で新たな反乱の勃発が報道される有様だった。
今や朝鮮の日本軍に中南部の反乱を抑える能力が全くないのは明らかだ。この国を平定するために必要なのは.不満を持っ地方の拠点となる町すべてに守備隊を置くこと.すなわち,実際に完全な軍事占領体制を敷くことだ。しかし,日本は中国での目的を達するまでは.必要な軍隊を派遣することができない。
したがって前途は確かに厳しいものだ。現在のところ,結局は日本が事態を自らの手で収拾せざるを得ない状態となり.今でも実質的にはそうだが.公然たる朝鮮の支配者となって.まさしく征服領土並みの扱いで日本人役人による統治を国中に敷かざるを得ないように思われる。
実際,現状の勢いでは,日本が望もうと望むまいと,同国は保護関係に代えて東京からの直接統治を行うことになるだろう。ちょうどイギリスが,直接支配に切り替えるためにインド諸州の保護を放乗せざるを得なくなったと同様だ。
しかし,言うまでもなく,朝鮮に関しては中国における日本の軍事行動以上に全世界の平和を危うくする強い脅威が存在している。
日本にとっては.中国全度を併合するほうが.朝鮮の港を1つ占領するよりもたやすいことかもしれない。ヨーロッパ列強は,中国の併合より朝鮮の1港の占領の方にはるかに強い関心を抱いているからだ。
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