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片野勧の衝撃レポート(28) 太平洋戦争とフクシマ① 悲劇はなぜ繰り返されるか「ヒロシマからフクシマへ」❶

   

  片野勧の衝撃レポート(28)

 

太平洋戦争とフクシマ①

≪悲劇はなぜ繰り返されるのかー

★「ヒロシマ・ナガサキからフクシマへ」❶

 

片野勧(ジャーナリスト)

 

 

ヒロシマ・ナガサキからフクシマへ

 

「3・11」。午後2時46分、福島市に住む元福島大学長で福島県原爆被害者協議会事務局長の星埜(ほしの)(あつし)さん(85)は自宅1階の書斎にいた。机の上のパソコンと書棚を押さえて立ったが、本はかなり落ちた。台所の茶碗や2階のタンスは倒れ、家の壁にひびが入った。

私は星埜さんに話を聞いた。2013年2月9日正午を少し回っていた――。

停電で電気、ガス、水道はストップ。新聞も配達されない。テレビもラジオも聞けない。東京にいる親戚から福島第1原発が爆発したという情報が入った。“避難しようか、それとも……”。星埜さんは家族と相談しあった。

星埜さんは福島県原爆被害者協議会の事務局長。もし、避難していなくなれば、誰が被爆者と連絡を取るのか。被爆者はどうなるのか。逡巡した挙げ句、今いる場所でがんばろうと決意した。

その後、約60キロ離れた福島第1原発の衝撃的映像が映し出された。1号機、3号機が爆発している映像だ。瞬間的に星埜さんはヒロシマ原爆のことが脳裏に浮かんだ。

 

異臭と嗚咽、死体の山々

 

1945年8月6日午前8時15分。その時、17歳。旧制広島高校1年生だった星埜さんは、休日で友人を広島市に案内して行く約束だったが、寮長の依頼                                                                                                                                                                                                                                                                                                                             で広島県呉市の実家に食糧調達のため向かっていた。呉市広町の駅に着いて、広島の空に浮かぶキノコ雲を見た。

翌日、星埜さんは同じ寮の寮生を捜すために広島市内に入った。星埜さんは息をのんだ。まだ燃え続けている赤い火。道に倒れているおびただしい数の人々。異臭と嗚咽。死体の山々……。呆然と立ち尽くす。

捜し当てた寮生の一人は鼻孔と唇が炭化していた。全身が焼けただれていた。もう一人は寮に帰る途中に息を引き取った。

星埜さんは一面、焼け野原となった広島を見て回った。爆心地付近の周辺では燃えるものはすべて燃えていた。路上には負傷者がまだあちこちに倒れ、放心状態で座り込んでいた。倒れている鉄塔やコンクリートの土台が掘り起こされていて、熱風のものすごさを物語っていた。寺社の境内には屋根瓦が散らばっていた。

星埜さんは遺体を焼く作業にも従事した。学校の敷地に約5畳、深さ約3メートルの穴を掘り、運び込まれる遺体を次々に投げ入れた。鉄板で覆って重油をかけて火をつけた。

「無残な姿で人間の尊厳なんてありませんでした」

 

鼻血と下痢、倦怠感に襲われた

 

終戦から10日後の8月25日。星埜さんは呉市の実家に戻った。鼻血と下痢。原爆症特有の倦怠感に襲われ、1カ月間、寝込んだ。この原因が、ずっと後になって「入市被曝」による影響だと知った。「入市被曝」とは救援活動や肉親捜しなどで被爆地に入って被爆した人のこと。残留放射線などで被曝したと考えられている。
「間接被曝」とも呼ばれている。

その後、星埜さんは白内障と直腸ガンなどの(こう)障害(しょうがい)にも苦しんだ。原爆放射能によって人体が受ける影響は、「急性障害」と「後障害」の2つに大別される。「急性障害」は被爆直後からあらわれた症状で熱線・火災、爆風、放射線によって引き起こされ、死から逃れれば4~5カ月で収まる。

後障害はケロイドや白血病など長期にわたってさまざまな障害を引き起こすもので、被爆者の健康を今もなお脅かし続けている。白血病は被曝から5~6週間たったころから増え始め、やがて甲状腺ガン、乳ガン、肺ガンなど悪性腫瘍の発生率が高くなる。星埜さんは語る。

「私の場合、急性障害ではなく、入市被曝による後障害です」

原爆の後に降った広島の「黒い雨」。これを浴びると、口や鼻、皮膚などから放射性物質を取り込む。また原爆投下後に街中に漂っていた放射性物質の埃が体内に入ると、体の中から放射線を体に出し続ける。これが「入市被曝」(間接被曝)である。

原爆で直接、被爆したわけではないのに、多くの人が原因不明の症状に苦しみながら死んでいったのは、この「入市被曝」によってである。

「これこそが本当に恐ろしいのです。しかし、入市被曝・内部被曝は国によって今まであまり重視されませんでした」

もちろん、原爆投下直後、業火の中で死んでいった直接被爆者たちは、悲惨な犠牲者である。しかし、あの日から68年間、一見、健康そうに見えても、いつ原爆症が出るかと恐怖におののき、たえず不安にさいなまれてきた人たちも、大きな犠牲を強いられてきたといってよい。

 

原発は原爆と別だと思っていた

 

星埜さんは戦後、東京大学で農業経済学を学んだ。先輩の推薦で福島大学に赴任したのは昭和26年(1951)だった。星埜さんは、求められれば大学や高校で自分の被爆体験を語った。

昭和40年代、福島県原爆被害者協議会は活動を休止していた。その再建のために、当時宮城県の会の事務局長であった田中煕巳・日本原水爆被爆者団体協議会(日本被団協)事務局長らの要請を受けて、福島県原爆被害者協議会を再建し、その事務局長に就任した。1985年のことだった。

当時、沿岸部の浜通りの富岡町、大熊町、双葉町、南相馬市などに住む被爆者には多かれ少なかれ、福島第1原発にかかわっている人がいた。「原発を批判するなら、会には参加できない」と言う人も少なくなかった。そのために会は原発に対して中立の立場を取った。

「原発はイヤだ。しかし、生活のためにはやむを得ない」

星埜さんは違和感を覚えながらも、そうした人々の声にも耳を傾けた。星埜さんの証言。

「私自身、原発は大量破壊兵器の原爆とは別だと思っていました。しかし制御不能に至った原発を目の当たりにして、認識を変えました」

核の平和利用という名の下で推進されてきた原発。しかし、福島第1原発事故でそれが過ちだったことを知った。では、どうして「国策」は誤っていたのか。それを究明しない限り、また同じ過ちを繰り返すと星埜さんは思う。

 

原発とは共存できない

 

「原爆も原発もその根は同じです。そもそも人類は制御不能な核を使う原発とは共存できません」――。

こう語る星埜さんは原発立地県に住みながら、長く封印してきた疑問が確信へと変わった。2011年3月12日午後3時36分、1号機が爆発した。噴煙がもうもうと立ち込め、建屋をすっぽり覆った。

3月14日午前11時1分、3号機の建屋が上空に炎を放ったかと思うと、激しく爆発した。キノコ雲のような黒い煙が立ちのぼった。すでにその時、1号機はとっくにメルトダウン(炉心溶融)していた。しかし、政府はその事実を隠した。

星埜さんは当時を振り返って語る。

「何よりも心配したのは、被爆者の安否でした。死亡者がいなくてホッとしました。それにしても事故後の対応を含めて、政府も東電も安全管理は驚くほど杜撰でした。人間の命を守る気概も感じられませんでした」

星埜さんは3・11後、初めて福島県原爆被害者協議会の会報に原発批判の文章を書いた。内容は「電力会社の振りまいた安全神話」――。明確に脱原発の方向性を打ち出したのだ。

「浜通りは自然エネルギーの宝庫です。電力会社や国は自然エネルギーの開発を進めるべきです」

星埜さんの言葉に、核の平和利用を受け入れてきた歴史に決別しようという強い意思を感じた。

 

原発事故は68年前の構図とそっくり

 

さらに星埜さんは言葉を継いだ。

「広島・長崎の原爆では放射能の危険性は何も知らされず、私も放射能の中を歩き回りました。今も正確な情報が与えられないまま、福島の人々は疑心暗鬼になっています」

私は星埜さんの話を聞いていて、福島原発事故と68年前の構図はよく似ていると思った。被害の実態を過小に見積もり、炉心溶融(メルトダウン)しているのに、すぐに認めようとしない東電や原子力安全・保安院と、広島に原爆が投下されたあとも、それが原爆であると発表しなかった軍の指導者たちと重なる。

また政府が原子力災害対策本部の議事録をまったく残さなかったことと、敗戦が決まったあと、ほとんどの諜報記録を焼却し、責任の所在をわからなくしてしまった戦争指導者たちの隠蔽体質はよく似ている。

さらに第1原発内部を調べようとした事故調査委員会に東電は「真っ暗で危険」と説明したが、実は薄明るく照明器具もあったという。これは「原発安全神話」を生き永らえさせるための偽善で、戦争を継続し本土決戦にかけ、それにそぐわない情報を黙殺した軍の指導者とそっくりである。

大事故を引き起こしたにもかかわらず、誰も何の責任も取らずに同じ場所に居続けていることと、戦争を継続し多くの犠牲者を出したにもかかわらず、戦後も亡霊のように生き永らえてきた軍の最高指導者の、その姿はよく似ている。このように戦中、戦後も日本の構造的システムは何も変わっていないのである。星埜さんはこう強調する。

「御用学者と言われる人たちの言動を見ていると、本当に腹立たしくなります。まずは正確に情報を流してほしい」

信頼は現場の正確な情報を伝えることからすべてが始まる。危険なことがあったとしても、正確に伝える。これが専門家の矜持だ。これまでの原子力学会や原子力政策の失敗は、御用学者がその矜持を捨ててしまったことにあるといってよい。

原爆から原発へ――。15年ほど前(1999年2月14日)、NHK総合テレビは「原爆投下―10秒の衝撃」を放映した。広島に投下された原子爆弾は熱線と衝撃波によって広島の町は10秒で壊滅したという映像だ。

星埜さんが「キノコ雲」を見たとき、すでに広島の町は想像を絶する原子爆弾の破壊力によって壊滅していたのだ。まさに「10秒の衝撃」。原爆は10秒で大規模な破壊をもたらすが、原発は一度、爆発してしまうとその汚染被害は原爆の比ではない。

 

片野 勧

1943年、新潟県生まれ。フリージャーナリスト。主な著書に『マスコミ裁判―戦後編』『メディアは日本を救えるか―権力スキャンダルと報道の実態』『捏造報道 言論の犯罪』『戦後マスコミ裁判と名誉棄損』『日本の空襲』(第二巻、編著)。『明治お雇い外国人とその弟子たち』(新人物往来社)。

 

                               続く

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