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「英タイムズ」「ニューヨーク・タイムズ」など外国紙は「日韓併合への道』をどう報道したか⑭「朝鮮における日本」(上)「英タイムズ」(明治40年9月27日)

      2015/09/21

 

「英タイムズ」「ニューヨーク・タイムズ」など外国紙は「日韓併合への道』をどう報道したか⑭ 

  「英タイムズ」(1907(明治40)年9月27日)

「朝鮮における日本」(上)

 

朝鮮半島の帝国で演じられてきた最近のドラマの最終幕とも言える韓国軍隊の解散に幕が下りた今,その過程で実際に起こったできごとを簡潔にまとめておくことは有意義だろう。日本の統監府では,もちろん,ソウル宮廷によるハーグ会議への使節派遣を早い時期から察知していた。だが,この使節派遣に際して韓国皇帝が果たした役割については,今日まで正確なところは分かっていない。

皇帝は一切の責任を再三にわたって否定してきた。とはいえ朝鮮でも日本でも皇帝自身が使節団を任命し旅費を調達したことは間違いないと思われている。皇帝はすでに正式な条約に基づいて自国の外交に関する事項の管理をすべて日本にゆだねており,今回の行為によって自分が日本との悶着に巻き込まれることをはっきり認識していたはずだ。

したがって,彼はまた,使節派道によって彼を日本の束縛から最終的に解き放つ何か有益な手段が生まれるものと想像していたに違いない。このような誤った見通しは,世界とその情勢に対する深い無知を示すものであり,同時に,2つの大戦争を経た日本のその小さな隣国に対する立場についての深い無知をも示している。

だが韓国皇帝には,外務顧問たちから一貫して誤った考えを吹き込まれてきたという事実をある程度口実にすることができるはずだ。だが,顧問たちが.朝鮮の運命など顧みず,私利私欲のために事態を悪用してきたにしろ,あるいは彼らもまた信じがたいはどの政治的盲目に毒されていたにしろ,いずれにせよ,彼らの操り人形である皇帝にとって結果は同じだった。彼らは皇帝を破滅の道にいざなったのだ。

伊藤侯爵は,使節派遣に関して十分な情報を得ていながら,完全な沈黙を守ってきた。彼がこの一件の持っ重要性を完全に認識していたことは,彼の深い英知を知る者には疑いのないところだ。

そして,彼がこのできごとを歓迎したというのも,当然の話かもしれない。なぜならそれは.ソウルの統監がこれまで行使してきた陰の力を実態のある権限に変えるチャンスだったからだ。

公爵は無限の忍耐力と並外れた才覚を備えた人物だ。きわめて面倒な事態にもしりごみはしない。一見無益な努力を延々と続けても倦むことがない。丸1年の間、侯爵は朝鮮側に採否がゆだねられていた助言に効果を持たせようと努力してきた。

彼のやり方が不十分だと責める政治評論家たちの批判にも黙って耳を傾けてきたが,その連中は彼がそれ以上のことをしていたら真っ先に彼を非難しただろう。

そこで韓国皇帝が1905年に11月の協約を甚だしく踏みにじることで,日本に対し事実上の挑戦状を突きつけてきたとき.朝鮮半島の帝国に対する日本の理論的な保護統治を現実の支配に変え,朝鮮を真の進歩の道に沿って導くという事実を成就していくための機会がようやく到来したことに侯爵は喜んだかもしれない。

しかし,どんな思いを抱いたにせよ,侯爵はなんのそぶりも見せず,ただ,宮廷への訪問を取りやめるという消極的な対応策をとっただけだった。朝鮮の使節団がハーグに姿を見せ,そこで大失敗を演じたことは.7月の初めに世界に知れ渡った。

そして韓国皇帝は.何もかもが明るみに出てしまったと悟った。陛下が統監の出方をかたずをのんで見守っていたことは想像にかたくない。だが彼が見ることのできたのは.ますます意味を深める伊藤侯爵の不吉な沈黙だけだ。

この政情危機が起こる少し前にソウルでは内閣の改造が行われ,閣僚のポストは恐れを知らない進歩の提唱者たちの手に移っていた。そして彼らが実権を担った直後に,前大臣と次官による閣僚5人の暗殺計画が続いた。新大臣たちは,皇帝の行為が持つ政治的な意味を読み違えてはいなかった。

7月6日には正式な手続に沿って宮廷で閣議が開かれたが,その席上,彼らは断固たる口調でこの間題を取り上げ.きわめて危機的な状況が生まれていると断言した。皇帝は当初,ハーグ使節団とのかかわりを一切否定し,使節の処罰について発言した。

しかしながら最後には,この問題への対処の責任を内閣にゆだねた。このときの皇帝がどこまで誠実であったかは,まさにその翌日にハーグ使節団へ送った暗号電を見れば察しがつく。

電文の中で彼は,自分が日本の手に落ちた囚人であると述べ,閣僚たちを看守の共犯者だと非難したのだ。そして同時に,皇帝は内閣からわが身を遠ざけていた。

おそらくこの時期の皇帝は,それまで機会あるごとに示されてきた伊藤侯爵の友好的な姿勢が繰り返されることを当てにしていたのかもしれない。というのも彼は,2度にわたって侍従を統監の元に送り,こまごまと事態の説明をさせているからだ。だが日本人政治家の方は黙って話を聞くだけで,一切の返答を避けていた。

ちょうどそのころ朝鮮の空にまた新たな稲妻が走った。7月15日に,外務大臣の林子爵が天皇の命を受けてソウルに向かうとの発表があったのだ。林子爵が伊藤侯爵への訓令を携えてくるとは,だれも思わなかった,

伊藤侯爵は彼の元首から完全な信任を受けており,完全な自由裁量権をゆだねられていた。したがって,林子爵の韓国訪問についてはただ1つの解釈しか成り立たなかった-すなわち統監は,朝鮮内での日本の行動によって生じ得るあらゆる国際的な問題に直接対処する権限を与えられたということだ。

このニュースに皇帝は強い衝撃を受けた。それまでのほぼ11日間、彼は内閣と露骨な反目を続け.統監からは不吉な孤立状態にあった。だが今や,林子爵の到着を前にして,なんらかの確固とした行動を起こすべきときがきた。

7月18日には2度にわたって侍従が統監府を訪れ.伊藤侯爵に宮廷まで足を運んでほしいと懇願した。そしてついに侯爵は出かけた。彼は,このような呼出しに全く耳を貸さなければ皇帝の権限を暗に繰り返し否定しているように誤解されかねないと判断したようだ。

皇帝は.伊藤侯爵にハーグ使節団への関与を全面的に否定した。これはなんの反応も引き出さなかった。そこで陛下は,内閣が彼に退位を促しているのは侯

爵の要請によるものと理解していると言った。

これに対して,統監はきわめて明確な返答を行った。彼はそのような説を事実無根だと非難し,皇帝の退位問題は日本の統監の全く関与しないところだ,と断言した。

そこで皇帝は彼に,目下の窮状を打開する寛大な解決策を見つけてほしいと頼んだが,侯爵からは,自分は日本政府の意向に従うほかない,との簡潔な答が返ってきた。その夜,皇帝は閣僚に接見した。彼は17日に,彼の11日間にわたる蟄居後,初めて顔を合わせていた。この接見は大荒れとなった。

皇帝の退位以外に現状の打開策はない,と閣僚はロをそろえて繰り返した。皇帝は憤慨し,幾世代のもの貴い祖先から受け継いできた皇位に関していかなる内閣からも指図を受ける筋合はない,と反論した。

折しも林子爵のソウル到着の報が入ってきた。皇帝はついに屈服し,19日午後3時,退位の宣言に署名した。東洋におけるこのような文書の常で,その文面からは悔恨の情がうかがわれる。

皇帝は47年にわたる治世がさまざまな困難により損なわれた責任がひとえに自らのいたらなさにあることを認め,次いで,長年の慣例に従って政権を息子に委譲すると述べた。

夜が明けると,退位のニュースはたちどころに市内全域へと広がった。民衆がそれを悪く受け止める状況がすでにできていた。ソウルの市民は主に,反日の偏見に凝り固まったあるイギリス人が編集する朝鮮語版の新聞から政治的判断を引き出している。

退位の数日前に,この新聞は,日本が皇帝の退位を主張しており,彼をかどわかして日本へ連れていこうとしているという主旨の論説を発表した。そのため、もはや皇帝の治世は終わったことを知らされた人々は退位と日本への連行計画の第1段階が実行されたのだという結論にすぐさま飛びついてしまった。

逆上した群衆による集会が開かれ,不法行為が行われた。兵舎を脱走した朝鮮兵の一団は,日本警官に至近距離から発砲した。これに続く銃撃戦で日本側は40人が負傷し,そのうち20人は致命傷を負った。

一方の朝鮮側も・死者23人,負傷者189人を出す惨事となった。終日,この騒乱状態が収まる気配はなかった。そして同夜7時45分,前皇帝は法部大臣を通じて,伊藤侯爵に次のような親書を手渡した。

「皇位を退くという今回の私の行動は,自らの信念に基づいたものであり,外部からの忠告や圧力に屈したわけではない。過去10年の間私は国務の処理を皇太子の手に任せたいと考えてきたが,器械に恵まれず,望みを果たせないまま今日を迎えてしまった。

しかしながら,今まさにその機会が到来したことを確信した私は,皇太子のために皇位を譲った。今回の決断は諸般の事情の自然の流れに沿ったものであり当然ながらそれは,わが王朝にとってもわが国にとっても慶賀すべき事柄だ。それにもかかわらず,一部の無知な臣民がわが動機を曲解し,誤った怒りを爆発させ,暴力行為に及んだことを見て,私は悲しみを覚える。したがって私は,統監を信頼しつつ,このような暴力行為を防止あるいは鎮圧する権限をその手にゆだねるものとする」

つずく

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