日本リーダーパワー史(78) 辛亥革命百年(15)平山周、犬養毅の証言する孫文との出会い
日本リーダーパワー史(78)
辛亥革命百年(15)平山周、犬養毅の証言する孫文との出会い
前坂 俊之(ジャーナリスト)
明治三十年九月、隣国の革命児・孫文が、初めて來朝し、宮崎滔天、平山周の両人に依って木堂を訪ねたことはよく知られているが、面白いのは、孫文の別号として通るようになった、その「中山」命名の由來である。平山周はこのように語っている。
●「中山」命名の由來
孫文が初めて犬養さんにあった帰り道、今晩は東京へ泊ってゆっくり話そうというので、京橋の対鶴館-今の対鶴ビルディングに泊った訳です。日本人のような風をして。
ところが番頭が宿帳を持って来た。後で書いて置くから下へ行け、と番頭を階下へやって「サテ何と名前をつけようかな」と言うと、孫文は「お前の名前でよい」と言う。「同じ名前じゃ変だし」「何とでも書いて置け」、「何とでも書いていいわけだけれども、さてちょっと困る」。
その時分に中山さん(註、侯爵・忠能)邸が日比谷にあった。先刻その前を通って対鶴館に泊ったのだから、それを思い出して中山ときめた。中山でいいが、名前は何とするかと考へていると、孫文が筆を執って中山の下へ「樵」と書いた。日本人の名としてはちょっと可笑しいというと、孫文は、「俺は中国の山樵だという意味で、樵という名前にした」という。そんな訳で、初めて中山を名乗ったのです。
その晩、そこに泊って、翌朝横浜に帰り、それからわれわれは、孫文を東京に置く許可を得なければならないので、犬養さんに相談すると、「小村寿太郎のところへ行って相談して見ろ」と云われた。
それから外務省に報告かたがた小村次官に会って「実は孫文が来ている、これを東京に置くつもりだから」というと「それは、やめてくれ、いかぬ」という。「いま、日清戦争後、初めて、日支関係を回復しょうという際に、日本が革命党を援助しているようにとられて困るからやめてくれ」という。しかし、われわれは、支那の民間党の事情を調査するために命を受けて行ったのだ、これはオトリだ、これをこのところにつかまえておいてだんだん探って行けば支那の事が分る、是非これを置いたらよからろう」
「いや、いかぬ、どうしてもいかぬ」仕方がないからまた、犬養のところにいって「小村はこういう理由で反対する」「それじゃ大隈さん(重信)に会って相談して見よう」
それから犬養さんが大隈さんに相談した、ところが大隈さんは、「それはさしつかえなかろう、自分はリゼンドルを雇人としておいたことがある。その例にならって孫文を雇人として置いたらよかろう、こういう訳だ、それで私の雇人ということにして、その手続をする事になって、東京府に願い出た。
孫文の仮寓
平山の談は続く。
ところが役人が面倒なことを言って急に許可せぬ。その頃、尾崎さん(尾崎行雄)が丁度外務省の勅任参事官をして居られたから、尾崎さんに会って、大隈さんも承知の事だが府庁に手続きをしても、なかなか許可をせぬからと頼んで、尾崎さんから電話をかけてもらって、やっと許可を得た。その時の府知事は久我通久侯であった。
孫文と私とは、麹町区平河町五丁目三十番地に住み、許可をそのところで受けた訳です。ところがその時分、孫文も用心をしているし、この方も用心をしているが、どうも支那公使館が余りに近いから、どこかへ移ろうじゃないかというので、家を探がした。
ちょうど、早稲田鶴巻町に高橋啄也君の家がある、高橋君は山林局長をしておったのを松隈内閣でやめさせられたので、自分の住まっておった家を貸家にして、自分は後ろの方に引込んだ訳だ、その家が空いている。
七百坪位の大きな屋敷だ。そこで犬養さんの家から借りにやったが「犬養には貸さぬ」という。松隈内閣で罷めさせられたから怒っているのだ。ところが犬養さんはああいう人だから、貸さんというなら、何とかして借ろうじゃやないかというので、犬養さんの家におった島村という書生を開博直(旧岡山新見藩主、子爵)さんの家令ということにして借にやって話がきまったので早速引越した。
さうすると犬養さんが「よしよし、入り込んでしまったら大丈夫」と、直ぐ奥さんと二人で見えた、高橋の住まっている家と、こちらと垣根も何も無いからよく見える、さうすると犬養さんがわざと高橋の方を向くんだ。「モウ借りて入ってしまったら心配ない」と言ってそこに住むことになった。宮崎は、郷里に用事があると言って帰ったので、私と後から来た可児君とが一緒に住まっていた。
ところが孫文もその頃は金がほとんどない、一文もない位、こつちも困っておる。どうしましょうと犬養さんにいうと、「金の事は少々困る、有る時は出すが、毎月きちんと出すといふ訳にいかぬ、一つ平岡(活太郎)=玄洋社社長=に相談したらよいじゃないか、私が話をして置くから、君がよく相談してくれないか」
それから犬養さんに話をして置いて貰って行った。平岡さんは宜しいと引受けて呉れて、毎月ちょうど1年間貰ったわけです。
そのところに一ヶ年程いったけれども、どうも孫分の連絡が一向、支那の方にない、広東からはちよくちょくあるけれども、各省からは通信が来ない、これはいかぬ、支那へ行ってモウ少し連絡をとらなければいけない,支那へ行こうというので、犬養さんの所へ行って、金を少しもらい、私共が行ってしまっては孫文が一人いるのはいけないから、孫文は横浜へ帰らすことにし、その家を畳んで、私と宮崎が上海へ発つったのです。
孫文 の 思い出
孫文 の 思い出
ここらで、木堂の「孫文の思い出」を聴くことにする。
孫文と初めて合ったのは明治32年だったかな。宮崎滔天(註、寅蔵)がひよっこり連れて来て引合わせたのじゃ。宮崎といえば面白い男で、外務省に頼まれて支部に革命の秘密結社を調査しに出かけおつたが、ミイラ取りがミイラになって、帰りがけに横浜で孫文と合い、意気投合して、そのまま東京に引っ張って来た。
そして外務省に出頭して「報告書の代りに見本を一匹連れて帰った」とやったので、役人連中すっかり毒気をぬかれたそうじゃ。
そのころわしはひどく貧乏しとった。正月に到來物の塩鮭一びきで五十人の客をしたりなんかしていた時分じやったよ。
しかし、故国を追われて身を寄せて来たからには、黙って見てもおれんので、頭山満、平山周、古島一雄なんかと相談して、いろいろ金を工面したあげく、早相田に小さな家を持たしてそこに住まわせておいた。
しかし、故国を追われて身を寄せて来たからには、黙って見てもおれんので、頭山満、平山周、古島一雄なんかと相談して、いろいろ金を工面したあげく、早相田に小さな家を持たしてそこに住まわせておいた。
支那人の名義では都合が悪かろうというので、標札には「中山樵」とだしておった。この仮名の中山がいつのまにか孫文の号になってしまって、今では孫中山の方が支那人のあひだで、通りがいいようじゃ。その時分は政府でも政党でも外国の亡命志士なんかてんで相手にしなかった。政府ではかえって、対外関係を恐れて弾圧主義を取っていた。
わしはそのころ憲政本党に関係していたが、この党にしても、また旧自由党系のものにしても、支那の革命派を世話するような奴なんかまるでいなかった。中でも大隈(重信)なぞはひどく浪人嫌いで、てんで寄せつけなかったものじゃ。
で、頭山などは、わしの顔を見るたびに、「政党で浪人の面倒見るの貴様だけだ。貴様はよほど物好きじゃのう」などといいおった。っ
そのとき孫文は三十四、五の若盛りじゃやった。顔立ちは引きしまって、辮髪は組ますにハイカラに分けて、日本人然たる様子をしとった。ふだんは、しんみりした物静かな男じゃが、満洲朝廷の腐敗などを説きだすと、とても議論が立って、気鋒の鋭い人物じゃったよ。だんだんつきあっているうちに、わしもこいつは大物じゃと見てとった。
で、頭山などは、わしの顔を見るたびに、「政党で浪人の面倒見るの貴様だけだ。貴様はよほど物好きじゃのう」などといいおった。っ
そのとき孫文は三十四、五の若盛りじゃやった。顔立ちは引きしまって、辮髪は組ますにハイカラに分けて、日本人然たる様子をしとった。ふだんは、しんみりした物静かな男じゃが、満洲朝廷の腐敗などを説きだすと、とても議論が立って、気鋒の鋭い人物じゃったよ。だんだんつきあっているうちに、わしもこいつは大物じゃと見てとった。
あれなら相当のことが出来るじゃろう」と頭山なんかとも話し合ったことじゃ。
支那人に似合わず潔癖な男で、風呂に入るのが何より好きじゃった。それで、わしの家に来ても、先づ風呂をたててくれといって、ゆるゆると長湯を使って喜った。酒はさっぱりやらなかったが、飯はどんなまづい菜でも喜んで食った。
あるときた家内が安いニシンの切身を焼いてだしたことがある一すると、孫文、目を丸くして『今日はごちそうですね」とお世辞をいった。これには家内も苦笑していたよ。
日本語は簡単な言葉を少し知っていただけで、話はできなかった。その後も日本には二、三回やつてきたが、日本語はとうとう物にならなかった。それでも聞くだけは大抵わかるやうになっていたようじゃ。英語は達者で、読み書きも話すことも不自由はしなかったようで、暇さへあると横文字の新聞、雑誌などを読んでいた。
わしとは、いつも筆談じゃつた。香港の医学校を出て、二十七、八までマカオで医者をやっていたので、医術は一通りの心得は持っていた。
そのためか医者らしい感じがどこかに残っていたようじゃ。早稲田の家はしばらくでたたんで、横濱の山下町に引越していつた。
そこらには支邦人もたくさんいたので、同志を集めるのに便宜が有ったからじゃろう。
横浜で可老会とか三谷会だとかいふ支那独特の祓密結社の連中がうんと周囲に集まっていた。そいつらは一種の物騒な政治結社じゃな。
何しろその時分に、革命などという荒仕事をするには、こんな連中しか寄りついて来なかつものじゃよ、これらのたくさんの身内に孫文は実によく尽くしておった。金がはいると右から左にくれてやって、自分はボロ洋服をきて平気で
いた。淡白で清廉で、立派な志士の風骨を帯びていた。
人間がきれいな男じゃから、いふことも、やることも眞直じゃった。で、わしなども心安だてに「君のように釈迦や孔子の説法めいたことばかり説示しておっては、とても大きな徒党の首領にはなれんぜ」などと冷やかしたりもしたもんじゃが、別に弁解がましいこともいわずにニコニコ笑っとった。清朝打倒の革命騒動をやらかして、失敗しては日本に亡命して来おった。
そして何度もやつたあげく、とうとう第一革命に成功したのじゃ。革命の策源地は東京で、日露戦争直後の如きは、支那の革命家という革命家は全部東京に集まった。そして孫文を首領にして、今の国民党の前身の「中国革命同盟会」というものを造った。これが出来てから革命党の勢力が始めて増大したのじゃ。
最後に合ったのは、第二革命に失敗して袁世凱にやっつけられた時で、大正三年の秋じゃった。このとき今の宋慶齢と東京で結婚式を奉げた。「もう五十になった」といいおった。
その頃、欧州戦争が始まって、日本も連合軍に参加して青島攻撃をやったが、孫文は頻にこれに反対して「日本はドイツと連合すべきだった。日本が大陸政策を遂行するにはドイツと結んで英米の勢力を支那から駆逐すべきであったのに…」といつて残念がっていた。
支那に帰ってからも、このことは何度も手紙で言ひよこした。一個の見識じゃな…‥
(昭和五年七月二十一日付、東京朝日新聞)
以上は鷲尾義直編「犬養木堂伝(中)」(昭和14年版、東洋経済新報)より
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