日本リーダーパワー史(175)『辛亥革命百年の真実』『孫文を助けた大アジア主義者・犬養毅らの熱血支援』
2011/07/17
日本リーダーパワー史(175)
『辛亥革命百年の真実』
『孫文を助けた大アジア主義者・犬養毅らの熱血支援』
前坂 俊之(ジャーナリスト)
孫文 一八六六~一九二五。中国、近代の革命家。字は徳明、号は逸仙、また中山。広東省香山県(現在の中山市)の人。興中会、中国同盟会を組織して清朝を打倒し、中華民国の初代臨時大総統となった。
いわゆる辛亥革命だが、やがてその政権を軍閥に奪われると、軍閥の支配に抗してたびたび決起、国共合作を行なって国民革命に踏みだした直後に、北京の地で死去した。国民党からは「国父」と崇められ、共産党からは「革命の先駆者」と尊ばれている。その革命理論は三民主義である。
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〇十八歳のとき、孫文は人々の迷信、偶像崇拝を打破しょうとして、「もし北帝像の内側に肉があれば本物、なければ嘘っぱち」といって村廟の神像を壊した。そのため村人の怒りを買い、故郷を離れて香港で学ぶようになり、キリストの洗礼を受けることになった。
〇一八九五年、日清畿争が終る直前に孫文は日本の駐香港領事を訪ね、清朝転覆の蜂起のための武器援助の斡旋方を申し出た。要求は、「差しあたり銃砲二万五千挺、短銃一千挺」。蜂起成功後には「統領」に康有為かあるいは他の適当なる人物を頂いて「広東広西地方を独立させ共和国とす定であると言へる。これが舞台を日本にとらず、ダーウィンる」などとの抱負を述べた。
○広州蜂起失敗後、孫文は海外に亡命し、イギリスで清国公使館に捕われ、九死に一生を得た。その後ロンドン滞在中に南方熊楠と知りあい、南方の日記に「海外逢知音南方学長属書、香山孫文拝言」との筆蹟を残している。(『南方熊撫全集』別巻2)
○宮崎滔天との初対面の場面はその『三十三年之夢』によるとー。
「庭前で待つ間に「寝衣のままにて頭を出せる紳士あり、余を見て軽く首肯つつ、英語でお上りなさいといふ、……彼はロもすすがず顔も洗わず、ホンの寝起きのそのままなり、余は先ずその無頓着に驚いた。そして、少し軽率な人と思った」、
「庭前で待つ間に「寝衣のままにて頭を出せる紳士あり、余を見て軽く首肯つつ、英語でお上りなさいといふ、……彼はロもすすがず顔も洗わず、ホンの寝起きのそのままなり、余は先ずその無頓着に驚いた。そして、少し軽率な人と思った」、
しばらくして、口を注ぎ「衣服を更めて椅子にすわった風采は、実に立派な紳士なであった。しかし、私が予想した孫逸仙はこのようなん者ではなかった。私は何となく物足らぬ心地もちだった。もっと貫録がないと。ところが、いったん「共和主義」の革命の構想を説くや、「彼のいう所は簡単明瞭で内容を尽くしており、言葉は理路整然としており、一語一語に重みがあり、自らの情熱が言葉にほとばしっており、その弁説は巧妙とはいえないにしても、飾ったものではなかった。
ここに至って私は恥入りて密かに懺悔した。われ思想を二十世紀にして心未だ東洋の旧套を脱せず、いたずらに外貌によって人を速断するの病あり……孫逸仙の如きは実にすでに天真の境に近きものなり……我国人士中、彼の如きもの果して幾人かある、まことにこれ東亜の珍宝なりと、私はじつにこの時を以て彼に心服せりと」。
ここに至って私は恥入りて密かに懺悔した。われ思想を二十世紀にして心未だ東洋の旧套を脱せず、いたずらに外貌によって人を速断するの病あり……孫逸仙の如きは実にすでに天真の境に近きものなり……我国人士中、彼の如きもの果して幾人かある、まことにこれ東亜の珍宝なりと、私はじつにこの時を以て彼に心服せりと」。
O「孫文といふ人は極く正直な人で、金銭に淡泊な、また情誼には大変あつい人でした。革命が何よりも熱心で、早くいえば思想家、理想家型の人だったのです。……一番好きなのは何んだと聞くと、矢ツ張り革命だと言っていました。清朝を引つくり返すのだと返辞していました。趣味とはいへませんが、孫文の第一に好きなのが革命で、二番目が読書、その次が女といふ順序です」。(菅野長知『中華民国革命秘史』
一方、孫文から師父と仰がれた犬養は、日本の政治家でアジアについてアジア緒民族の解放と復興を念願して支那革命に対しては最も早くから取り組んだ先駆者であった。
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明治二十九年平山周、可児長一、宮崎滔天が秘密給社調査の目的を以て支那に渡航したのは彼の指導と斡旋によるものであった。その後、孫文の来日すると、これを庇護して、以来、支那革命援助のために奔走するわが志士のために協力したことはひと通りではない。
同志と共に東亜会を設立し、これを同文会に合併したのをはじめ、その他インド、ベトナム(安南)、フィリピン独立運動家、志士たちをたすけ、ロシア領となった中央アジアのイスラム教徒との関係も浅からず、頭山満らと共に終始、親切なる後援をしてきた。
支那第一革命に際しては自ら上海におもむき、更に武昌を訪ねて、頭山満と行動をともにして援助に努めたことは事実である。
その舌の辛辣無比にしてただ才智の人とのみ見られ勝ちなりし犬養の胸中にはアジア民族に対する無限の同情が常に暖かくたたえられていた湛へられていたことは誰もが知る所であった。
新支那の政客が犬養に対して信頼するのは、新支那の建設に犬養が最も深い同情を寄せていることを知っているためであった。(東亜先覚士志士記伝(下巻))
○犬養は、中国の革命派に理解を示し、援助した。孫文や載天仇を自宅にかくまったりした。孫文の〝中山がという号は、犬養が頭山満や古島一雄らと相談して、牛込に家を借りて孫文を住まわせた時、中国人名では具合が悪かろうというので〝中山樵″という門札を出した。その仮の名が、孫中山の号になった。
孫文とフィリピンの独立革命運動家アギナルドとの間には連絡があった。孫文の計画に、アギナルドはまだ自国の棲熟さずとフィリピン独立のための資金三十万円の金を、孫文に提供した。孫文はこれをもって恵州に革命を起こすことにして、犬養に武器購入を依頼した。犬養も勝手がわからず、中村弥六に頼んだ。中村は布引丸という船で武器を運ばせたところ布引丸が台湾沖で沈没、恵州では革命を起こしたものの武器の補給が続かず敗れ、同志は飢餓に襲われる悲惨な状態となった。
だが、布引丸沈没は中村が金を横領するために仕組んだしわざだった。犬養らは怒り、中村の家を売って弁償した。その後、古島が犬養の家へ行った時、犬養が立派な将棋盤を持って行けと出したので、見ると中村弥六からの贈り物だった。潔癖な犬養は、気に入りのものでも、もはやそばにおく気にならなかった。(岩淵辰雄『犬養毅』)
○孫文が集めた資金をよく散じたことは、接した者がみな敬愛したところだが、その範囲は時に日本人シンパの家庭にまで及んだ。宮崎滔天夫人の「孫文のかわせ」と題する歌がある。 、
うべなわぬ汝が夫なれば送りぬと
文と為替のありがたき友
ふり来たる人のなさけはうるをひの
わが目こそ天につゞくや
(「つち夫人歌稿」『宮嶋滔天全集』所収)
○大総続をやめたあと、孫文はある外国人の晩餐に招待された。途中で馬車が故障したので、雨の中を歩いて行ったところ、ベルを押しても門が開かない。また押すと今度は開いたが、すぐ閉める。
ようやくにして通じて中へ入ったところ、門番が弁解して「ここに来る人はみな自動車だから、ベルは鳴ったが車の音がしないので、子供のいたずらと思って開けなかった」といった。帰るとき、主人が自動車で送ろうとすると、孫文は「すぐ近くに寄る所があるので」とつくろって、雨あがりの道を歩いて帰った。(馬湘の回想、『辛亥革命回憶録』)
ようやくにして通じて中へ入ったところ、門番が弁解して「ここに来る人はみな自動車だから、ベルは鳴ったが車の音がしないので、子供のいたずらと思って開けなかった」といった。帰るとき、主人が自動車で送ろうとすると、孫文は「すぐ近くに寄る所があるので」とつくろって、雨あがりの道を歩いて帰った。(馬湘の回想、『辛亥革命回憶録』)
○大総続在任中でも、孫文は馬を好み、自動車にはあまり乗らなかった孫文は、「品の長い方からいうと、支那人にも日本人にもあんな品の良い人間」はいない。しかし「世態人情にうとい。これくらいうとい人間はない。モウ世ノ中に御世辞の存在というものを知らぬ人でしょう。人がいふ事は皆んな本当であると思っている」。(「よもや日記」『宮崎滔天全集』)
孫文は1913年(大正二年)第二革命に失敗して日本に亡命し、当時、立憲国民党の首領だった犬養と浪人の親玉の頭山満に匿われて約四年を過ごした。その間のことだが、犬養は孫が酒も煙草もやらないのを見て、「それで一体趣味があるのか」と尋ねたことがある。
すると「革命」という答が返ってきた。模範的だが少しも面白くない回答である。犬養も「それはわかっているが、ほかになにかあるだろう」と重ねて尋ねると、「女」といい、「次はなんだ」というと、「読書」と答えた。「第一の道楽は読書と思ったが、その前に女をいうとは面白い。」と犬養はひどく感心した。
孫は日本語ができなくて、犬養とは筆談で用を足していたというから、この会話もおそらくそうだったのだろう.一説には、孫は少しは日本語ができたのだが、あるとき犬養夫人をうっかり「オカミサン」と呼んでしまったので、それ以来使わないことにしたのだともいう。
この犬養夫人は花柳界の出の人で、中華料理など油くさくていやだといって、主人にも 客にも食べさせなかったので、孫も往生したことだろう。孫の弟子である蒋介石や 王兆銘が犬養邸に厄介になっていたとき、どうせ中華料理は食わせてもらえないので、親子井ばかり所望していたところ、「あの人たちは、どうしてあんなに親子井が好きなのかねえ」と無邪気に感心していたというから、異文化コミュニケーションは難しい。(鈴木真哉『下戸列伝』集英社文庫2000年)
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