日本リーダーパワー史(95) 5・15事件で敢然とテロを批判した菊竹六鼓から学ぶ②<ジャーナリストの勇気とは・・>
2015/01/02
日本リーダーパワー史(95)
5・15事件で敢然とテロを批判した菊竹六鼓から学ぶ②
<『言いたいことではなく、言わなければならぬことを言え』>
前坂 俊之(ジャーナリスト)
5・15事件と勇気あるジャーナリスト・菊竹六鼓の戦い
戦前の十五年戦争下の言論抵抗でいつも引き合いに出されるのが、桐生悠々(一八七三~一九四一)と菊竹六鼓(一八八〇~一九三七)である。桐生は『信濃毎日』主筆として「関東防空大演習を嗤う」(昭和八年八月十一日)の論説を書き、問題化して同社を退社、その後は『他山の石』というミニコミ誌によって鋭い批判の矢を放ち続けた。
菊竹は『福岡日日新聞』(現『西日本新聞』)で整理記者、主幹、編集局長、副社長とのぼりつめたいわば組織内ジャーナリストである。
菊竹の言論は五・一五事件に軍部に抵抗したという一点によって「反軍ジャーナリスト」の歴史的な栄誉が与えられているが、満州事変では満蒙権益論を支持するなど、一貫したリベラリスト、革新的な思想の持ち主ではなかった。
しかし、〝社会の木鐸″として、言うべきときには万難を排して言い、書くべきときには書くという記者精神では誰にもひけをとらなかった。
1・・わずか17万部の地方紙が言論責任を果たす
当時、『福岡日日』は部数十七万部である。『朝日』『毎日』は各二百万部前後もあった。大新聞とは比較にならぬ小さな〝地方新聞″の責任者として、場合によってはつぶしかねない軍部を相手に、なぜ菊竹の言論抵抗は可能となったか。
大新聞が外見では巨大な〝第四の権力″と化しながら、ひとたび権力との真正面のたたかいになった瞬間、編集と営業との亀裂や内部矛盾、企業防衛に腐心する編集幹部の腰くだけでいつも挫折する例は、戦前も戦後も変わりはない。
菊竹の抵抗は『福岡日日』が中新聞だから可能になったものだろうか。
そうではない。全国無数にあった中小新聞も抵抗らしい抵抗は何一つしていない。
では、暴力や右翼、軍部からの圧力が弱かったからやれたのか。これも違う。福岡は玄洋社をはじめ日本の右翼の源流の地で、『福岡日日』はそれらとたたかってきた歴史があった。
ともすれば、言論弾圧の外圧ばかりが強調されるなかで、敢然とそれをはねのけてたたかった菊竹という新聞人はどのようなジャーナリストだったのだろうか。
2・・菊竹六鼓は〝木鐸″意識にこり固まった古武士の風貌
菊竹は本名淳、号を六鼓と称した。二歳のとき、左脚にケガを負い骨髄炎をわずらった。成長して何度か手術を受けたが失敗し、一生不具となった。それも〝壮大なビッコだった(1)〝という。
六鼓という号も「ビッコ」に引っかけたもの、ともいわれる。
菊竹は身体障害を克服して、新聞人となったが、周囲には「私のちんばに同情してくれるのは有難いが、いたわるのだけはカンベンしてほしい(2)」と言い、負けじ魂が人一倍強く、一切ひけ目を見せなかった。
菊竹は羽織ハカマを常用しており、明治以来の〝木鐸″意識にこり固まった古武士の風貌であった。
若い記者に向かっては「ウソは絶対に書くな。新聞がウソを書けば多くの読者がそれを本当と思うのだから影響は大きい」と口ぐせのように言っていた。
また、菊竹の生き方のバックボーンはその清貧さにあった。
「新聞記者の貧乏は誇りである」「新間記者は裁判官より清潔でなければならぬ(3)」を信条にしていた。自宅に柱時計さえない貧乏生活を送りながら、無心に来る者は拒まなかった。 <菊竹六鼓>
こうしたストイックな精神は『福岡日日』の紙面に反映され、競馬の予想記事などは一切排除し、営業を押え広告の段数を増やしたり、事業としてサーカスを呼ぶことさえも反対した。
一方、自らをきびしく律していた菊竹は公私一切の宴席には出ず、たとえ親しい友人であっても、大義や不正に対しては情け容赦せず徹底して攻撃した。
このため、長年の友人と絶交したことさえあった。
大衆化、企業化が大きくすすんだ当時の新聞界にあっても、菊竹は一時代前の骨董品的な記者といってよかった。
『福岡日日』にあっては、こうした菊竹の姿勢、人格が編集・営業のすみずみまで浸透し、信頼と尊敬を一身に集めて言論抵抗を可能にしたのであった。
3・・菊竹は記者精神の原点、5・15事件を6日連続で論ず
これをみると、菊竹個人の人格によって初めて可能となったともいえる。
ただ、菊竹のこうした批判精神、ストイシズム、勇気などは時代を超えた記者精神のいわば〝原点″といってよいものであり、いつの時代でも、こうした精神がなくなれば、ジャーナリズムは衰退する以外にない。
菊竹が五・一五事件発生後、ペンをとって書いた社説は次のとおりである。
五月十六日夕刊 「首相兇手に斃る」
十七日朝刊 「あえて国民の覚悟を促す」
十八日朝刊 「宇垣総督の談」
十九日朝刊 「騒擾事件と与論」
二十日朝刊 「当面の重大問題」
二十一日朝刊 「憲政の価値」
二十八日朝刊 「非常時内閣の使命」
六日間連続で事件を論じた新聞はない。『大阪朝日』『東京日日』などはせいぜい二回である。その長さといい、内容の鋭さといい、『福岡日日』のみが真正面から五・一五事件の問題点を集中的に批判した、といっていい。
さらに、まる一年後に記事解禁となった段階でも、解禁日より一日も早く「憲政かファッショか--五・一五事件一周年に際して」(昭和八年五月十六日)を書き、五・一五事件にかける菊竹のなみなみならぬ決意と気概を示した。
菊竹の言論は五・一五事件で突如、出てきたものではなかった。議会民主主義を守るという堅い信念が一貫してあった。
五・一五事件が発生する以前の論説をみると「右傾的暴力取締法の必要」(昭和七年三月二十一日)では「きびしく左翼思想を取締まりながら、なぜ右翼運動を取締まらないか、目下の急務はこちらの方だ」と主張。
事件直前の「議会政治の信用と新聞」(五月十日)ではファッショ運動は国民を不幸にすると論じ、軍人の政治関与を批判「それが国家の患害であるばかりでなく、ただちに国軍の混乱破滅に終わることは明白である」と極めて予見的な内容の論説があり、その片鱗をうかがわせる。
五・一五事件が発生したのは夕方だったが『福岡日日』ではその夜、直ちに号外を発行した。十六日朝出社した菊竹編集局長は「ふだんとかわらずやりましょう」と訓示した。いつも通り憲政擁護に沿ってやるということだった。
4・・事件当日、いちもの通りやりましょうと菊竹
当時、『福岡日日』整理部長、上野台次はこう証言する(4)。
「菊竹さんは僕に、『ウチはいつもの通り』を一言し、それから一寸帰宅して、あの論文は自宅で 起草されたのではないかと思うが、十一時ごろ、また僕の机の辺に来られて、何にも言わずに幾枚かの原稿を僕に手渡された。それがあの『首相兇手に斃る』なのである」
読んで感動した上野は菊竹に申し出た。
「今、国民は正邪の判断に迷うていると思います。一刻も早く帰すうを明示してやる必要があると思います。この社説は夕刊に載せたい。夕刊社説は例のないことですが……」
「ヨウ、ゴザッショウ」
菊竹は福岡弁でうなずいた。
上野は「夕刊に出すとすると、二段組にしたい」と言うと、菊竹は「ヨウ、ゴザッショウ」と再び答えた。
こうして、夕刊での異例の社説「首相兇手に斃る」が書かれた。
菊竹は犬養首相を深く尊敬していた。社説は哀悼の意とテロへの怒りが強くにじみ出ていた。
5・・夕刊での異例の社説「首相兇手に斃る」
「陸海軍人の不逞なる一団に襲われたる犬養首相は国民がこの不祥事なる事件の発生を知るや知らざるうちに遽然として逝去した。真に哀悼痛惜に堪えざるところである」と前置きして、こう述べた。
「もし、当代政治家中、識見高邁、時局艱難を担当する実力あるの士を求めれば、おそらくは首相の右に出ずるものはなかったであろう。過去五十年間政界に馳駆して、民権の伸暢に尽瘁し、いわゆる憲政の神様をもって称せられる首相の政治的閲歴は、今さら喋々するまでもない。
しかも老巧首相のごとくにして清節一片の汚点を印することなく、近来政界の腐敗に対して、ファッショ運動等の説を聞くにいたるや、率先して政党自身また七分の責任を負わざるべからざるを公言し、政党自ら相戒めて、改革の実を挙げなければならぬ、と力説高唱し、その一端として来たるべき議会に選挙法の改正を断行せざるべからず、と大いに意気ごみつつありたるに徴すれば、もし真に皇国のために、政治の改革振作を希望するものならば、まず首相のごとき政治家に、その全責任を負荷せしむるの当然であることを知るはずである。
しかも、その政治家を虐殺するにいたっては、かれらは、真に政治の改革を望むものにあらずして、自家の政治的野心を遂げんがためにする一妄動であると断ずるのほかはない。
乏しい報道がなお明白に伝うるごとく、老首相は事の危急を告げて、他に避難せんこと勧告せるものに対し、かれらは将校であるといえば、大いに談論してその誤解を解かなければならぬ、と自らすすんでかれらに面会している。
のみならず、ひとたび致命の重傷を受けて病床に横たわりながらも、なお邦家のために、兇行者に会談せんことをねがったほどである。
その七十八歳の老首相を捉え、ムザムザと虐殺をあえてせる行為実に憎むべきであると同時に、あくまでも堂々として、大政治家としての態度を失せず、死にいたるまで大いに邦家のために戦いて戦いぬける老首相の最期ほど尊敬すべく、また同情に値するものはない。(中略)
その老首相を政治の改革に籍口して虐殺しさるにいたっては、かれらは国家を混乱潰滅に導くほか、なんの目的なきものと断ぜざるをえない」
6・・「あえて国民の覚悟を促す」でテロを言語道断と追及
翌日の「あえて国民の覚悟を促す」は一層峻烈なものになり、テロへ暴発した国軍の軍紀の乱れはやがて自らをも崩壊させる言語道断の行為と断じ、きびしく追及した。
「頻々たる暗殺の連続として、犬養首相がついに陸海軍人の一団のために兇手に斃れたことは、われわれが国民とともに悲憤痛恨に堪えざるところである。
昨年来、軍人間に政治を論じ革命をうんぬんするものあり、事態容易ならずとはわれわれがしばしば耳にせるところであった。
……もし軍隊と軍人の間に、政治を論じ、時事を語りて、あるいは少壮佐尉官、あるいは下士というごとく、横の関係がいったん発生するにおいては、帝政末期、革命当時のロシアにおけるごとく、ついにその風潮が一般兵士間に浸潤し、軍隊と軍人とは豺狼よりも嫌悪すべき存在となり、国軍まず自ら崩壊することは必然である。
しかし、不幸にしてわれわれの所信は裏切られた。陸海軍人が首相官邸に押し入りて老首相を虐殺せるにいたっては、実に言語道断のさたといわねばならぬ……
何人も知るごとく、近来右傾向的運動の勃発に乗じ、左傾運動者輩が国家民族の仮面をかむり、ファッショという流行語を仮り来たりて、ややもすれば国民を煽動せんとするあり、あるいは政治的野心家輩がその政権欲を遂げんがために、陛下の軍隊と軍人とに誘惑の手を延ばさんとするあり……。
何人といえども、今日の議会、今日の政治、今日の選挙、今日の政治家に満足するものはない。にもかかわらず、ただちに独裁政治に還らねばならぬ理由はない。独裁政治が今日以上の幸福を国民に与うべしと想像しうべき寸毫の根拠もない。
ファッショ運動が日本を救うべし、と信ずべきなんらの根拠もない。……(政治)その救治の方策いかん、問題はもちろん簡単ではない。
けれども、われわれの政治的進路は明白である。これらの過誤欠陥を補正しっつ、立憲代議政体の道を静かに進むまでである。
7・・事件を傍観して今日の結果を招来した責任は軍部
ただ一言、われわれが指摘せねばならぬことは、この事件を傍観して今日の結果を招来した責任は何人にありや。
検察当局なりや、政府当局なりや、はた検察当局と政府当局との事実においていかんともすべからざる軍部それ自身なりや、国民はそれを知らんことを要求する」
軍部ファッショにこそ問題があることを誰もが知りながら恐れて言わないなかで、菊竹は堂々と指摘した。
宇垣一成・朝鮮総督は事件について「動機がいかなるところにあっても、かかる暴力行為は絶対に許すべきでない」と述べたが、菊竹は宇垣の談話を「最も当を得たもの」と賛成し、宇垣談話に寄りながら、軍部の責任をより明確に指摘、荒木陸相、陸軍省の態度を強く批判した。
「宇垣総督の談」――。
「とくに、朝鮮総督宇垣一成大将が『動機がいかなるところにあってもかかる暴力行為は絶対に許すべきでない』と冒頭まず、この不法不達の行為を非難せることは、今回のごとき事件に対する態度としてもっとも当を得たものといわねばならぬ。
今回のごとき事件に対し、その基因いかんを探求し根本的救治の策を講ずることの肝要なるは、三歳の童児といえどもよく知るところである。
それを今さら、その基因を探求することが先決問題であるといい、その根源を絶滅せざるかぎり、いかに取締まりを厳重にするも効果は挙がるまい、というがごときはていのよい兇行の弁護であって、要位大官の言動としてもっとも慎まねばならぬところである。
8・・ 他の新聞が軍部を恐れ、沈黙し、問題点をずらして論ずる
今回の事件に対する陸軍省公表が劈頭『帝国国内の現状に憤激し、非常手段に訴え』とせるがごとき、三百代言的弁解はいずれともあれ陸軍省の名において、今日の事件を暗に弁護し肯定せるかの非難を回避しえぬであろう。
今回の事件は国民士気の弛緩を示すというよりも、不幸にしてわが軍隊綱紀の弛緩を立証せるものとして反省せらるべきものである」
他の新聞が軍部を恐れ、沈黙し、問題点をずらして論ずるなかで、菊竹の軍部ファッショへの怒りは日ごとにエスカレート、論調はますます鋭くなり、続く「当面の重大問題」では張本人である荒木陸相、陸軍省を名指しで糾弾しており、迫力がある。
「荒木陸相はじめ陸軍首脳者がしきりに後継内閣に関しとかく注文をつけ、その主張を堅持してゆずらず、ために政局の前途ははなはだ不安を告げつつあり……。国民ははなはだそれを不快とする。陸軍当局者はなんのいとまありて政治を語り、後継内閣を論ぜんとするか。
陸軍当局者は、昨秋以来、かれがごとく全国民を恐怖せしめたる、軍隊内部における政治運動、革命的運動の一爆発としての重大にして複雑なる事件の善後を策して、はたして遺漏なきや。
……軍部は組閣について、軍部との了解の精神を天下に声明することを要求せるのみならず、政策上の条件さえ提示しつつある。はたして事実とすれば、天下これほどの奇怪事はない。
もし、かくのごとき要求をいるるならば、これ政党が軍部の手先となり、軍部専制の道具に使われるものというほかはなく、軍部のためにデクノボウとなりてまで、しいて内閣を組織せねばならぬ必要は毛頭ない」
こればかりではない。何者も恐れず、勇気ある言論を実行した菊竹は、一番言論が必要とされる時に節を曲げ、沈黙した他の新聞へも呵責なき批判を加えた。菊竹が軍部を歯に衣を着せぬ批判をしたことはよく知られているが、同業の言論人に対してもきびしく批判したことは案外知られていない。
「騒擾事件と与論」(五月十九日)では、「今回の事件に対する東京大阪の諸新聞の論調を一見して、何人もただちに観取するところは、その多くが何ものかに対し、恐怖し、畏縮して、率直明白に自家の所信を発表しえざるかの態度である。
9・・朝日、毎日の大新聞の畏縮した論説を批判
いうまでもなく、もし新聞紙にありて、論評の使命ありとせば、かくのごとき場合においてこそ、充分に懐抱を披瀝して、いわゆる、文章報国の一大任務をまっとうすべきである。しからずして左顧右眄、いうべきをいわず、なすべきをなさざるは、断じて新聞記者の名誉ではない(中略)われわれは、同業者を誹謗するの意思は毛頭ない。
けれども今日において、事実を事実として指摘するのわれわれに課せられる一大義務であることを痛感せざるをえない」
わが国を代表した二大新聞である『朝日』『毎日』の姿勢にこそ、菊竹の激しい不満が爆発し、こうした形で現れたことは察しがつく。
『朝日』『毎日』の、軍部に迎合し、沈黙していった弱腰ぶりを菊竹は七月二十三日の社説「新聞紙と保護」の中で、再び痛罵した。この中で、『朝日』が「村山商店」と称し、『毎日』の本山社長が「新聞は商品である」と唱えたことを皮肉り、言論機関として信念を失い、魂を売ったとまで痛烈に批判している。
ところで、こうした菊竹の徹底した軍部批判はおひざ元の久留米歩兵第十二師団や在郷軍人会、右翼などから激しい抗議となってハネ返ってきた。それをものともせず、菊竹は強い調子で論説を書き続けた。
『西日本新聞七十五年史』(一九五一年)、『西日本新聞百年史』(一九七八年)、御手洗辰雄『新聞太平記』(鱒書房、一九五二年)などによると、同師団参謀・井上官太大尉ら軍人たちが『福岡日日』へ抗議の電話をし、軍部を非難する論説の取り消しを求めてきた。抗議、脅迫の電話、手紙は日増しに増え、激しくなってきた。
10・・抗議、脅迫電話が軍部から増える
井上大尉は久留米支局に対し出頭を命じ、軍担当の舟津和夫記者に対し「社説は軍部を誹謗するものであり、取り消せ!」「福日の社説は軍部攻撃を改めない。今、軍部を攻撃する輩をピストルで撃ち殺して、自分は死ぬとも敢て心残りはない(5)」と脅した。
同師団は在郷軍人会と一体となって『福岡日日』の不買同盟をもくろんだが、これはうまくいかなかった。井上大尉の後任の片倉衷大尉は脅迫状を寄こし、『福岡日日』を航空機から爆撃するとのデマも飛びかった。同師団との交渉の矢面に立った北島磯次支局長はついにノイローゼに追い込まれた。
これに対し、菊竹は一歩もひかず、軍人からの脅迫電話には「国家のことを想っとるのが、あなた方軍人たちだけと考えるなら大まちがいだ。国を想う気持はあんた方に一歩も劣りはせん」と激しくやりあった。
また、別の電話では「田舎新聞をつぶす?いいでしょう。用意はできとる。いつでも来なさい」とガーンと受話器を置いて対決した(6)。
菊竹は毎朝、徒歩で出勤していた。社では身の危険を心配して車の送迎を申し出たが、六鼓は断わった。死を賭しても、言論は守るという気概に満ちていた。
『福岡日日』は外部からの攻撃に社が一体となってたたかい、在郷軍人会や司令部を説得、不買運動を阻止し言論を守り通した。編集、営業の足並みは一致して乱れなかった。菊竹の言論と同時に、『福岡日日』のこの態度こそ称賛に値する。
さらに、もう一つ見過ごせないのは『福岡日日』の創刊以来の伝統である。『福岡日日』は明治二十四年以来、征矢野半彌(自由党員)が経営していたが、社内の蓄積金を出資株に割当て、出資株は政友会の代議士、県議が党員と同じように負担していた。
株主は編集、経営に一切口を出さず、編集は主筆・編集局長に一任して、社長は干渉しない伝統が築き上げられていた。これが菊竹の勇気ある言論を生み、守ったのである(7)。
当時の永江真郷副社長は「正しい主張のために、わが社にもしものことがあったにしてもそれはむしろ光栄だ」と六鼓を励ました。不買運動や弾圧を恐れる販売担当が「このままでは会社がつぶれるかも……。お手柔らかに……」と泣きついたのに、「バカなことを言ってはいかん。日本がつぶれるかどうかの問題だ」と一喝した、という。
11・・会社よりも日本がつぶれるかどうかが問題
菊竹はどのような気持ちで五・一五事件の論説を書いたのか。その心情は一九三三年五月十九日に長女にあてた手紙によくあらわれている。
「今度も実は一生の仕事に思い切って書かねばならぬと思ったが、禁止命令ずくめで存分に書けなかったのが残念です。
私一個の事はどうせ国に捧げた身体と諦めて居りますけれども、新聞を差し押えられては何にもならぬので言いたいことも言わずに、アレだけの事ですました。でも何だか、為すべき事をなしたような安神」を覚えます(8)
「今、私は日本の誰れよりも最もよく君国を憂い、そして其の憂いを徒らに懐くのではなくて、日本をヨリよくするために、イーエ日本をこの危機から救うために有力な発言をなしうる地位にあることを誇らしく思います(9)」
菊竹にとって誇らしく思った〝地位″に同じようにいた他の記者たちは一番肝心な時に沈黙したのである。
(つづく)
< 引用資料・参考文献>
(1)『六鼓菊竹淳!論説・手記・評伝』 木村栄文編著 葦書房一九七五年三月刊 569P
(2) 『同上』 569頁
(3) 『同上』 572P
(4)『西日本新聞百年史』 西日本新聞社 一九七八年刊 359P
(5) 『同上』 359P
(6)『六鼓菊竹淳!論説・手記・評伝』 木村栄文編著 葦書房一九七五年刊 532-533P
(7)『新聞太平記』 御手洗辰雄 鱒書房 一九五二年刊 130P
(8)「『菊竹六鼓追想録』 小宮章編 新聞評論社一九三七年刊 11P
(9)「『同上』 12P
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