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*

日本リーダーパワー史(206)『米軍の大空襲(放射能汚染)を警告し、日米戦争(原発推進国策)の敗北を予言した水野広徳』(上)

   

日本リーダーパワー史(206)
 
真の科学者・小出裕章氏ら京大6人組の先駆者を探る
 
米軍の大空襲(現在の放射能汚染)を警告し、日米戦争(原発推
進国策)の敗北を予言した救国の海軍大佐・水野広徳(上)
 
今、求められている真のリーダーシップのキーワードとは
科学的、論理的、総合的、長期的な思考力と行動力を持続する
②真実であれ、ハングリ―であれ、馬鹿正直であれ、
③排除され、村八分にされても、異端者として、断固、信念を貫く
④すべての情報を公開発信し、説明能力を磨く
⑤いまやらねば、いつできる、ワシがやらねばだれがやる
(107歳世界の超人・平櫛田中の一喝を心に刻む)

ーことである。

前坂俊之(ジャーナリスト)
 
 
 
空襲の大被害をいち早く警告し、日米戦争の敗北を
予言した“救国の海軍大佐”水野広徳とは

 
水野広徳は松山の出身で、伯父の妻が秋山好古、秋山真之の親戚筋にあたるという関係で、水野は真之より7歳年下です。
戦略家と戦術家はどう違うのでしょうか。戦略家の真の意味は「戦い」を『省く』もの、つまり戦争をしない方法を考える人の意味です。これが最高の戦略家です。一方、戦術家は戦う術を考える人、戦争の作戦、戦術を考えるのが戦術家であり、戦略家が戦術家よりはるかに上なのです。

古来、日本の戦術は武田信玄流の軍略でも、『戦いは5分5分をもって上とす、7,8分は下、10分は下の下』〈不正確かもしれません〉と書いており、勝ちすぎるとおごって、次の負けにつながるのです。日露戦争、日本海海戦の空前の勝利が、おごりとなり、次の太平洋戦争の大敗北につながったのです。

柳生流の剣術の秘訣でも「強いものは戦わない」「逃げるにしかず」とあり、戦いは最後の手段として、いろいろ策を考える、謀略、外交戦略を駆使するのが真の戦略家の考えることです。水野は「秋山真之」の伝記を監修しており、秋山を世評ほどは高く評価していなかったと、聞いています。海軍最高の戦略家の水野についてもっと知ってもらいたいものです。
 
                                  
 
大空襲を予言するビラがまかれた
 
太平洋戦争の敗戦が差し迫ってきた一九四五年(昭和20)五月中旬、東京を初め全国各地に米軍機から、降伏を求める伝単ビラが大量にばらまかれた。その中に次のようなものがあった。
 
 「大正十四年四月の中央公論に水野広範氏は次のように掲げた。
 『われ等は米国人の米国魂を買い被ることは愚かなるとともに、これを侮ることは大なる誤りである。米国の兵力を研究するに当り、その人的要素は彼我同等のものとして、考慮するにあらざれば、英国人に対したるドイツ人の誤算を繰返へすであろうことを恐れる』
軍部指導者は水野氏の注意された間違いをくり返したのである。彼等は今では誤算を自覚している。この強欲非道的軍部指導者を打倒するには米国が日本本土を衝かなければならないのであろうか。祖国を救え!」
 
文中の水野広範とは水野広徳のことであった。水野が一九二五年(大正十四)四月号の『中央公論』で発表した「米国海軍と日本」の一節を引きながら、日本国民へ警告を発していた。
 
 水野広徳が二十年前に警告した日米戦争は日本の破滅という予告通りの悲惨な結果となり、その土壇場で敵側の米軍機から降伏勧告のビラとなってまかれたのである。何たる歴史の皮肉であろうか。水野はこれからわずか半年後に、疎開先の愛媛県越智郡の瀬戸内海の小島で七十一歳の生涯を閉じた。
 
日米非戦論を唱え、日米戦えば日本は必ず敗れると結果を見事に予見し、軍縮、平和主義者として大正、昭和戦前の困難な時代に一貫して節を曲げなかった水野は、米国では注目されながら、日本では不遇のうちに死を遂げたのである。
水野広徳(一八七五―一九四五)は明治の日露戦争での日本海海戦を記録した海戦記「此一戦」の著者として知られる。これは当時一大ベストセラーとなったが、その後、水野は第一次世界大戦後のヨーロッパを視察し、軍国主義者から一転して平和主義者になり、大正・昭和前期にかけて高まってきた「日米戦争」に対して、「日米戦うべからず」と唱えた後半生の部分はあまり知られていない。
 
 水野の真骨頂は実はこの後半生にある。
 
水野のように、海軍軍人として大佐にまで登りつめた人物が反戦・平和主義者になった例はない。しかも、海軍と決別し、筆一本の評論家生活に入った水野は当時の論壇の中心であった「中央公論」「改造」の常連執筆者として、軍縮キャンペーンの先頭に立って、大正・昭和戦前期に軍事評論の第一人者として活躍した。
一九三一年(昭和六)の満州事変前後からきびしい言論統制になり、水野もそれまでの軍事、政治、外交の評論から-部、戦記や軍談などに韜晦し、時局への批判や痛嘆の本音は手紙や日記の中で書いたり、狂歌に託した。節は曲げず太平洋戦争直前にはついに執筆禁止となった。
 
第一次大戦、最激戦地のフランス・ベルダンの丘に立ち、反戦平和に転換!
 
パリから北東へ約二百キロの北フランスにべルタンという町がある。約四年間にわたった第一次世界大戦でフランス・連合軍とドイツ軍が対峠し、両軍合わせて七十万人以上の戦死者を出した西部戦線随一の激戦地であり、天王山となった町である。
 一九〇五年大戦終結半年後に、この地を視察した水野は近代戦のすさまじい破壊力、勝敗に関係なく戦争による国民の悲惨さを目のあたりにして、大きな衝撃を受けた。
 
「その凶暴なる破壊、残忍なる殺りくの跡をみて、僕は人道的良心より、戦争を否認せざるを得なかつた」
水野は戦争を国家発展の最良の手段と考えていた軍国主義思想を打ちくだかれ、一転して、平和主義者へと一八〇度転換したのである。
 
水野の思想的大転換をひき起こしたベルタンの地を自分の目で確かめたいーそう思った私は一九九五年五月末、一週間にわたり北フランスの西部戦線を回ってみた。
ベルダンに入ると、町のあちこちに巨大な戦勝モニュメントが立ち並んでいる。特に、激戦地となった北約十キロの丘陵地帯には戦争記念博物館や墓地、要塞跡がそのまま保存されていた。
 博物館に入ると、当時の塹壕や戦場の模様がそのまま展示されていた。 昼夜をわかたぬ砲弾の雨によって、塹壕は破壊され、地面はまるで月面のように穴ぼこだらけ。その上に、焼けただれた樹木や幹、飛び散った鉄カブト、ガスマスク、武器の破片、戦車の残がい、鉄条網の断片、スクラップなどがあちこちに散乱し、当時の戦場のすさまじさを再現していた。
 
 すぐ横にある墓地には、フランスの連合軍の兵士たち約五万人近くの十字架が緑の芝の中に整然と並んでいる。当時、フランス軍の司令部のあったドーモン要塞もすぐ近くにある。地下数十メートルにわたって内部をセメントで堅固にかためた一大要塞である。
 この要塞は周囲三六〇度がふかんできる丘陵と平原の高台にある。両軍はこの要塞をめぐって激しい攻防をくり広げ、両軍の兵士は「肉ひき機」にかけられたように屍の山を築いた。
水野が一九一九年(大正八)年六月に訪れた時のベルタン高地はドイツ軍の連日の猛爆によって焼けただれ、全山一枝の緑も残されておらず、太陽を妨げる一本の樹木も、身を隠す一塊の地物もなかった。
 
 ドイツ軍はフランス軍の機銃掃射によって全滅につぐ全滅。一方、フランス軍はドイツ軍の大砲や砲弾によって打ち上げられた土砂のため、全隊生きながら塹壕に埋められ、研ぎすまされた銃剣の先のみがスズキの穂のように地上に突き出ていた、という鬼気迫る光景が続いていた。ドイツ軍は約五十万人の犠牲者を出したといい、屍で全山埋め尽くされ、軍服姿のまま白骨化した遺体が散乱していた。
 破壊し尽くされ“ポンペイ”のさながらのベルタン市街と、全山黒く焼けただれ十字架の墓標と土饅頭が延々と並ぶ無人の草原に立った水野は、戦争と人間の道徳と生命的価値について深く考えこんだ。
 「彼等とて決して死にたくて死んだのではあるまい。ただ国家の為(命令の為〉という一念の下に、子を捨て、妻を捨て、親を捨てて、はては己の命まで捨てたのである。弱い国民からは、そのかけ替えのない生命さえ奪いながら、強い国民からはその有り余れる富すら奪い得ない国家、それが最高の道徳と言い得るであろうか」
 水野の心は大きく揺れ動いた。戦争を正義とし、国家発展の手段と考えていた軍国主義はこれほど多数の国民の犠牲の上に、正義として成り立ち得るのか。戦争は果たして国民のため、国家のためになるものなのか。
 「この極めて簡単で明白な、又、極めて平凡な問題があたかも天の啓示でもあるが如く、電光の様に僕の脳裏に閃いた。僕は鉄槌を以て打砕かれ、利刀を以て胸を突刺された様な鋭く烈しい衝動を感じた」
 
 水野のそれまでの思想は音を立ててくずれていった。戦争否定、軍備撒廃、平和こそすべての礎えでないのか。約一千万人という第一次世界大戦の犠牲者の屍と破壊を凝視して水野は生まれ返ったのである。私はベルグン丘陵を三六〇度ふかんする高地に立って、人っ子一人いない平原をしばらく見つめながら、水野の原点に思いをはせ、その思想的な転換が理解できた思いであった。

一家離散の中で育つ
 
一八七五年(明治八)五月、水野は愛媛県松山市内に旧伊予松山藩士の光之の第五子として生まれた。光之は三十七歳の時、明治維新にあい、家禄奉還金五、六百円の金禄公債をもらい、駄菓子屋、荒物屋などを次々に開業したが失敗、やっと県庁の役人に採用されたが、その直後に四十九歳で亡くなった。
 明治維新による各藩の下級藩士の末路を象徴したような哀れさだが、水野はこのような不幸な家庭の下に生まれた。 兄一人、姉三人の兄姉五人の末っ子の広徳(ひろのり)は一歳で母を、父光之も五歳で亡くし、兄姉はそれぞれバラバラに、親類に預けられるという一家離散の中で育った。
家庭において不遇だったため、そのはけ口を戸外に求めた。広徳は小年時代から無類のワンパクであった。父母の愛情を全く知らずに育った少年は逆境に負けず強情さ、反抗心、独立心の強い子としてたくましく成長していった。
小学校時代、成績は常に三番以内、時には首席であったが、イタズラ、ケンカの常習犯で、ガキ大将の典型であった。着物の袖が満足にくっついていたためしはなく、ほころびを縫うことが、伯母の毎夜の仕事となった。
十二歳の時、いつものようにワンパク仲間とほかの生徒をいじめながら帰宅の途中、巡査に見つかった。クモを散らすように他の生徒は逃げたが、水野一人が逃げなかった。当時、松山一の繁華街にある交番に連行された。強情者の水野は一切ロもきかず、返事もせず、巡査から殴り飛ばされた。それでも、泣かなかった。地元紙はこの一件を針小棒大に書きたて、「小学生が乱暴!」と大きく掲載、水野は停学処分を受けた。
 
この事件は水野の幼な心を深く傷つけた。水野に弱い者への同情心と権力の乱用への強い怒りと反抗心を植えつけた。
その後、水野は幡随院長兵衛の話を聞いて感動し、「長兵衛のような人間になって、無茶な巡査に苦しめられている弱い人を救ってやりたい」と書いた。
幡随院長兵衛は侠客かバクチ打ちの親分だと聞いて、この熱もさめたが、大塩平八邸や佐倉宗五郎の話に関心を持ち崇敬の念さえ持った。この事件は水野の第二の性格を形成するエポックとなった。
 水野はこの頃、「ホコラ」というニックネームを頂戴していた。ホコラというのは松山地方の方言で、瓦製のぶさいくな祠からきたもので、友人のあだ名がいつの間にか水野につけられた。
 
 乱暴者の水野を知らぬ者は、松山ではいないほど有名となり、「ホコラ、ホコラと軽蔑するな、ホコラ天下の暴れ者!」と歌われるほどになった。
 水野は操行点で落第するという中学校始まって以来の記録を作って退校させられた。道草をくって念願の海軍兵学校に入学したのは二十二歳。三年間は江田島で鋳型にはまった人形のように校則大事、勉強第一と青春を世捨人、仙人のように過ごした。同期生の中には終生の友となる野杯吉三郎や小林斉造(海軍大将)がいた。
 
日本海海戦で活躍、感状を2回授かる
 
一九〇四年(明治三七)、日露戦争が起きた。水野は水雷艇長として、ツシマ海峡の警戒や旅順ロで閉塞船の活動援護や戦闘などに従事して活躍する。日本海海戦は勝利に帰したが、水野の水雷艇の武勲は目ざましく、東郷平八郎司令長官から前後二回にわたって感状をさずけられた。
 この間、少年時代あれだけ鳴らした水野の武勇伝がこともあろうに、佐世保鎮守府司令長官邸での天長節の祝賀会で発揮された。
 当時、「鳥海」航海長だった水野は泥酔し、上村彦之丞第二艦隊司令長官に向かって「長官、御杯を頂戴します」と進み出た。「お前たちのくるところではない」とドナられたが、酔いの勢いで水野は「上村彦之丞の馬鹿野郎!」とドナリ返して、近くにいた幕僚と取っ組み合いのケンカになった。
 
 酔がさめて、事の重大さを知った水野は停職などの辞令がくるものと毎日ビクビクしていたが、結局、何のおとがめもなかった。日露戦争開戦前夜の海軍士官の雰囲気と、水野の蛮勇を伝えるエピソードとしで興味深い。
一九〇六年(明治三九)、水野は三十二歳で、海軍軍令部戦士編纂部に出仕を命ぜられ「明治三十七、八年海戦史」 の編纂の仕事にたずさわることになった。水野が従事した日露戦争での閉塞隊の活躍が新聞に掲載され、その文章力が注目されて編纂部への出仕となったのである。東京在勤は四年半に及んだ。戦史編纂という特殊な任務とはいえ、海上勤務が本分の海軍将校としては全くの不具者となってしまった。
 
 と同時に、海軍部内のきっての文筆家として知られるようになり、勤務の合間、水野は読書によって、目を世界に開いた。余暇を利用して「此一戦」の執筆を始めた。
 「小説のように平易でなく、そうかといって専門的過ぎず、読者を中学校三、四年生に置き、漢文くずしの口語体によって書く」ことに執筆の基準を定め、役所までの徒歩往復の途上で構想を練って、東京・青山の自宅で毎晩十二時過ぎまでランプの下で書いた。
 「此一戦」は発売されると、二日に一版、またたく間に四十版、最終的に百数十版という空前のベストセラーとなる。 当時の海軍には従軍記者はおらず、海戦の実体が不明な上、言文一致のわかりやすい出版物が少なかったせいもあり、水野の執筆のネライは成功した。
 「此一戦」について、大町桂月は「この書を読んで先ず喜ばし思はるるは、精しく我軍の偉勲を記したるのみならずして、大いに敵軍を審にしたるにあり。しかして、寄せるべき限りの同情を寄せたるにあり。武夫(もののふ)は物のあはれを知る。著者の態度が既に日本武士の精神を発揮せるを見るなり」と書評した。
 
この書評を水野は一番喜んだ。「自分は海軍の飯を食っているのではなく、国家の飯を食っている」という強い自負心があった。国家の利益に反すると信じた場合は、海軍の悪口を平気で言った。こうしたことが多くの海軍士官とソリの合はない原因ともなった。
 「此一戦」で水野の文名は一躍上がったが、この間、一九一〇(明治四十三)年九月に第二十艇司令として舞鶴に赴任した。ここで上司と部下の処分問題で対立し、翌一一年七月、佐世保海軍工廠副官に左遷された。さらに翌年二月には再び、東京勤務となり、海軍省文庫主管に転じるという、海軍将校として不遇の道、傍流を歩んだ。
 
日米戦争仮想戦記「次の一戦」で謹慎処分に
 
一四年(大正三)、日米戦争仮想戦記「次の一戦」を水野は友人の窮迫を救うために刊行した。「一海軍中佐」という匿名での出版であったが、内容の一部に軍事、外交の機微にふれる点があり問題化し、匿名がバレて謹慎五日間を命じられた。
陸上勤務にあきた水野は一五年(大正四)に強引に海上勤務を願い出て、軍艦「出雲」副長に転進した。ところが、十年の間に艦務はすっかり変っており、マゴつくことが多かった。ついで戦艦「肥前」副長に転じたが、海上の人としてはすでに過去の人物となったことを痛切に感じた水野は悩んだ。
 
 水野は四十三歳で方向転換を決意する。第一次世界大戦はすでに三年目に入っており、軍事研究と視察のために欧米各国へ二年間の私費留学を願い出て許可された。約一年一ヵ月の旅であった。
 一六年(大正五)七月、「諏訪丸」に乗って、インド洋から喜望峰を回って、ロンドンに到着した。イギリス、フランス、イタリア、アメリカと回って、翌年八月に帰国した。
 第一次世界大戦は約五年間にわたり、死者約一千万人、負傷者二千万人、捕虜六百五十万人も出し、約四百年の栄華を誇ったヨーロッパを没落させた。
 
 この欧米旅行が水野の思想、世界観に大きな転機となった。国力、経済力、軍事力はもとより、その繁栄ぶり、文明の進歩、その文化の発展を日本と比較し、その圧倒的差異を感じざるを得なかった。
 近代戦争は物量の戦いであり、経済力、工業力で比較にならないほど脆弱な日本は堪えられない。日露戦争は第一次大戦に比べれば、子供の戦争ゴッコのようなもの、勝っておごった軍部は近代戦の真の実相を知らない。そう考えた愛国主義者・水野の思想は戦争否定に大きく傾いた。
 
ツェッペリンが初めて英国を空爆したのは一九一五年一月のことだが、それ以来、第一次世界大戦でのドイツの空爆は飛行船五十回、飛行機二十五回におよび、ロンドンっ子をふるえ上がらせ、神経衰弱におとし入れた。
水野がロンドン滞在中、飛行機からの空襲を初めて体験した。水野は無事だったが、約六百人の英国人が死傷した。この体験をもとに一早く東京大空襲を予言し警告した。 「もし、日本の如き脆弱なる木造家屋ならんには、一発の爆弾で三軒五軒と粉々となりて飛散せん。加うるに我が国には難を避くべき地下室なく、地下鉄なく、従って、人命の損害莫大ならんのみならず、火災頻発、数回の襲撃に依って、東京全市灰塵に帰するやもしれず」
 太平洋戦争下での日本空襲をすでに二十六年前に指摘したのである。
 
さらに、ドイツの潜水艦を避けながら到着したアメリカで目にしたものは世界の富を独占した圧倒的な経済力であり、ケタ違いの国力であった。当時、問題化していた「排日移民法」についても、あまりにずる賢く、身勝手な日本人移民の方にこそ問題があることを冷静に観察していた。
水野は一七年(大正六)八月に帰国して軍事調査会に勤務していたが、一九年三月、再び第一次世界大戦終了後の欧米の視察旅行に出かけた。
 
  第一回目の視察旅行で達した水野の思想は圧倒的な国力の差から、経済戦、総力戦となった近代戦では「貧乏国日本は戦争すれば敗れる」という愛国主義者、国家主義者からの戦争否定で、軍国主義者のワクを依然超えていなかった。
 
 ところが、この第二回目の視察で水野は、人道主義的立場から戦争の絶対否定、軍国主義、侵略の否定、軍備の撤廃を主張する平和反戦主義者に一八〇度転換した。フランスの西部戦線、敗戦国ドイツの惨状を観察し、それまでの思想を脱ぎすれたのである。
  北フランスの西部戦線で見たものは戦勝国ながら屍体累々、数百万人の犠牲者であり、都市の石造りの堅固な建物はガレキの山と化した近代戦での破壊のすさまじさであった。敗戦国ドイツで目にしたのは何十万人という失業者の大群であり、乞食の廃傷病兵であり、売春婦となったおびただしい女性たちであった。戦争には勝っても、負けてもいずれにしても悲惨な結果しかない。
 
 

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