日本リーダーパワー史(251)「日本を救った男」というべき空前絶後の参謀総長・川上操六(31)田村怡与造について
2015/02/17
日本リーダーパワー史(251)
「日本を救った男」というべき空前絶後の
参謀総長・川上操六(31)
参謀総長・川上操六(31)
前坂俊之(ジャーナリスト)
明治のリーダーの大多数は、清国、ロシア、西欧列強の超大国を前にしてその圧倒的な軍事力、国力、外圧に怖れおののき、日本全体が敗戦ムードに入りつつあった。
その時、陸軍参謀総長川上操六は日本が侵略される「最悪のシナリオ」を想定し、軍事力の増強につとめて「あらゆる危機から目をそむけず」清国、満州、シベリア、ヨーロッパ、ロシアに情報網を張り巡らせ、的確な情報収集と諜報に基づいて、断固たる行動をとり、先手必勝で日清、日露戦争での勝利の礎を築いたのである。
「最悪を怖れず、準備した」稀有のインテリジェンス・リーダー・川上操六のおかげである。仰天の日清・日露戦争裏話。
前坂俊之(ジャーナリスト)
① 日清、日露戦争を考える場合も、現在の視点から勝ったという結果論からみては間違う場合がある。当時の日本全体の雰囲気はどうみても勝てる相手ではないので、戦争はやりたくなかったのが本音であり、やむを得ず戦争に踏み切ったというのが正直なところではないか。
② その面で、開戦に至るまでの朝鮮をめぐる各国の対立、紛争を経過を仔細に見て行く必要がある。
③ 日清戦争への道では、日清の海軍力の差、清国東洋艦隊の日本派遣、それによる長崎事件の発生、金玉均暗殺事件、ロシアの満州、朝鮮進出などをどうみていたかをチエックする必要がある。
④ 話は変わる。消費税引き上げをめぐる一連の民主党、野田首相の攻防戦や日本の政治力、リーダーパワ―と川上操六らをくらべて感じた点を上げる。
⑤ 野田首相は確か就任第一声で,ドジョウのように泥くさく、粘り強く、庶民的にやると述べた。日本人には通じる野田首相の気さくな面をアピールしたものだが、外国人にはまるで意味不明であろう。英語で「ドジョウ」はどう翻訳されるのかはしらないが、これはまさしく翻訳不能であろうと思う。なぜなら、世界で日本のようなドジョウが生息しているところは少ないし、泥地、湿地そのものがすくないからである。
⑥ ただし、『ドジョウ宰相』の意味不明、態度曖昧、粘り強く説明、融和をはかっていく政治手法はまさにヌメヌメクネクネその正体の不明なドジョウに似ているでありその点ではまさに適切なタトエといえよう。
⑦ ここでは野田首相に提言する。ドジョウから、『まな板のコイ』となって、
『鯉の滝のぼり』をおこなえ、と。
『鯉の滝のぼり』をおこなえ、と。
⑧ 総理はいうまでもなく国難突破の最高責任者、最高指揮官である。
⑨ 最高指揮官は命令しなければ意思は伝わらない。命令は決心の表現である。
⑩ 戦争(けんか)は避けることばかりを考えていてはますます不利になる(マッキャベリ)
⑪ 決断力のない君主は中立に逃避して滅びる((マッキャベリ)
⑫ 統率とは統御し、指揮することである。政治集団を統率するためには、人材を集め、教育し、適材適所に配置し、人材を評価、抜擢し、組織力を発揮できるように編成する。
⑬ 時は善も悪もかまわず連れてくる(マッキャベリ)。チャンスは刻々と過ぎて行く。だから「兵は拙速を尊ぶ」(孫子)、決心の先延ばしが後の祭りとなる。
⑭ これこそ日本病(死にいたる病)である。
空前絶後の参謀総長・川上操六
明治の陸軍誕生以来、昭和20年の敗戦に至る陸軍参謀本部史67年間でそのトップにいた者は前後18人、このうち真に陸軍軍令府の長官として、その名を恥ずかしめなかった謀将といえば、一体誰であろうか。
軍政史の第一人者/松下芳男『日本軍事史実話』(文園社、昭和52年)は「川上操六と児玉源太郎の二人をあげざるをえないであろう。しかも、その任期と功績とからいえば、児玉は川上におよばない。川上こそわが陸軍軍令界の空前絶後の名将であった」と書いている。
1899年(明治32)5月11日、参謀総長川上操六が病に倒れるという報は、当時の社会に一大ショックを与えた。国民の中で、川上を知ると、知らざるとを問わず、陸軍のために彼の死を惜しみ、ひとしく「ああ、川上あらしめば」と嘆声を発した。それは当時、日露間で暗雲が立ちこめており、いつ爆発してもおかしくない情勢であったからである。
当時の川上は、陸軍軍令府の首脳、参謀総長であったというよりも、むしろ全陸軍の中枢的存在であった。当時陸軍には、山県有朋、大山厳、野津道貫、桂太郎、黒木為楨(くろき ためもと)の諸将がずらりと並んでいたが、対ロシア作戦の用兵計画のインテリジェンスとその能力によって、川上に匹敵するものではなかった。
日清戦争は「川上が起こして、全作戦を指揮して完勝した戦争」であったが、この10年後の対露決戦をいかに進めるかに全知全能をしぼっていたのも川上である。
西南戦争では熊本城で戦い、歩兵第13連隊長となり、1885年(明治18)年5月、少将に進んで、参謀本部長山県有朋の下で、参謀本部次長となった。山県は陸軍卿を本職としていたので、川上は事実上の本部長であった。翌年、近衛歩兵第二旅団長に転補されたが、この閑職を利用して、ヨーロッパの諸国の兵制を視察しドイツに留学、1年余にわたって、50歳以上も年の離れた「世界一の将軍」86歳のモルトケ参謀総長からクラウゼヴィッツの「戦略論」の手ほどきを直々に受けて、帰国した。
明治二十二年三月、参謀本部条例の改正とともに、彼は再び参謀次長に任ぜられたが、時の参謀総長は有栖川宮熾仁親王で、事実上、川上が仕切って、幼稚な軍制をドイツ軍制に範をとって一大改革したのである。師団編成の充実、内外の軍事調査、動員、兵站、通信、運輸、測量、演習、行軍等の規制や、数々の計画は、川上が断固として実行したものである。
川上の優れたリーダーシップは当時、「長の陸軍、薩の海軍」といわれたように藩閥意識にガチガチに凝り固まった人事、登用、抜擢に一切囚われることなく、藩閥を越えて幅広く内外から英才、偉才、優秀な人材を参謀本部に集めて、適材適所に配置,部下の意見を十二分に取り入れて、自由な行動に任せたことである。川上が参謀本部に君臨していたころは、溌剌とした、自由闊達な空気が部内に横溢していたという。「軍閥」「派閥」という言葉は彼にはなかった。
明治27年の日清戦争では、彼は大本営陸軍上席参謀(このと時は海軍もその指揮下に置いた)として、『インテリジェンス』(情報、諜報)と、兵站総監(ロジスティックス)を兼ね、作戦を一手に取ったが、ことごとく成功した。戦争の末期、小松官彰仁親王の征清大総督の下で、参謀長に任じて出征したが、戦いにいたらないうちに講和となった。
戦後、参謀本部の部下を従えて台湾、南清(中国南部)、安南(ベトナム)、さらに東部シベリアを回って、「日露戦争」の戦略に智慧を絞ってきた。
陸軍大学校を充実し、作戦部の人事行政を刷新し、対露戦に当てる参謀を養成するとともに、参謀本部の全能力をあげて、対露作戦計画の立案に努力させて、戦勝の礎石を据えた。
彼は対露作戦計画立案の過労のために斃れたので、日露戦争の戦死に準ずるものであろう。川上はその一生を隊務と軍令府勤務とに捧げ、軍政、政治には一度も足を入れなかった。当時の軍人では稀有な存在であって、軍人の本分に徹した〝軍人らしい軍人″であった。(以上、前掲『日本軍事史実話』を参考)
<リーダーシップ必須法>
リーダーは悍馬(かんば)を使いこなし、生前から後継者を明示せよ。
川上が後継者に生前から決めていた田村怡与造(陸軍中将)
リーダーは悍馬(かんば)を使いこなし、生前から後継者を明示せよ。
川上が後継者に生前から決めていた田村怡与造(陸軍中将)
松下の前掲書によると、日清戦役後、陸軍は、ロシアを想定敵国として着々作戦を練ったその作戦計画の中心はいうまでもなく参謀総長川上操六。ところが明治三十二年五月、その大事な川上総長が急逝する。
「川上の後を継ぐ者は誰だ!」これが国民の一致した悲痛な叫びだったが、衆望一致したのが、時の参謀本部第一部長・田村怡与造(たむら いよぞう)少将。日露開戦直前の最も大事なときに、参謀本部次長の位置についた。事前に川上はモルトケ流のドイツ参謀本部のマンパワーの人事法則にならい、後継者を指名していたのである。
田村は山梨県出身で、「今信玄」と異名されたほどの智将である。その智将が対ロシアの作戦計画に骨身を削るほどの苦心をし、川上同様に過労のために倒れて病気になり、無理矢理に鎌倉に転地療養させられた。しかし、田村も病をおして毎日鎌倉から上京して来た。最後には参謀本部の二階の手すりにつかまっても階段が上れないほどの重態で、ついに病床に伏した。
「俺は毎晩夢を見る、その夢の中に西郷さんが出て来て、しっかりしろと激励してくれるんだ!」とうわ言を繰り返していたが、明治三十六年十月一日、48歳で、これまた過労死した。
日露戦争開戦のわずか3ヵ月前のことである。この日総理大臣の桂太郎は、折からの豪雨をもろともせず田村邸に息せき切ってかけつけ、棺を開き、その痩せこけた頬を撫でながら、「ああ惜しいことをした!」と号泣したといわれる。大国難迫る状況での相次ぐ参謀総長(次長)の急死に満座頭を上げる者がなかった。
この田村も明治の軍人に共通する傑物、直情径行、大胆豪放な将軍で、いわば知謀の人であると同時に【悍馬】(かんば・性質の荒々しい馬)であった。
田村はドイツ陸軍に長期に留学して、クラウゼヴッツ之戦争論を森鴎外と一緒に研究した参謀学の第一人者でもあった。
こうした荒馬、悍馬でなければとても千里の道を行くことはできない。才能のある者はとかく癖がある。名リーダーはひと癖もふた癖もある出来る人材をうまく乗りこなさなければならない。
川上はこうした【悍馬】を集めて、千里の道を行き情報網をはりめぐらせて、強力無比な参謀本部を築いたのである。あつめられた【悍馬】は田村を筆頭に、福島安正、明石元二郎らよりすぐりの精鋭参謀部員たちである。
田村の直情径行を示すエピソード。
日清戦争の時、第一軍司令官が山児有朋大将で、その参謀長が小川又次少将(のちの大将)、田村将軍は中佐で参謀副長だった。第一軍が既に朝鮮に進んだ時で、小川参謀長と田村参謀とが、作戦計画のことで衝突して大喧嘩となった。田村参謀の方に分はあったが、いきなり朝鮮から引返して広島大本営に飛び込み、時の参謀本部次長川上に直談判した。正しく軍規上の大問題であった。
しかし、田村の才能を認めていた川上は何とか山県大将との間を丸く収めて田村中佐を連隊長に転補させた。田村は大先輩の山県大将にでも、川上中将にでも、平気でアグラかいて論議して少しも臆しなかった。
また、
少将で参謀本部の総務部長のとき、時の陸軍省軍事課長井口省吾大佐(のちの大将)と、本部中に響き渡るようなどなり声での大議論をはじめことがあった。
「貴様は大佐の分際で、少将にタテつくとは何たることであるか。」
「何をいうのですか、私は軍事課長という職責でものをいっているのです」
という調子で二人のどなり声は庁内に響き渡り、延々と何時間も続き、議論は消燈時間になってはじめて止んだという秘話まで残っている。
この後の田村、井口の関係は実際はどうなったのか。この議論の数日後、田村少将は参謀本部次長になり、後任の総務部長に抜擢したのは、この井口大佐だったである。
明治の軍人たちの自説を曲げない強さ、真剣さと意気軒昂さ、リーダーたちの迫力が如実にその言動に表れている。これが『坂の上の雲』をつかんだ明治の先輩のすごさである。
感情抜きの男と男の関係、派閥だとか、好き嫌いとか、自己の感情をさった評価を田村が行っていたということであり、いまだに派閥、党略、私感情重視の政界とはまるで進んでいたのである。これが、日清、日露戦争に勝てた明治軍人、リーダーたちの人材抜擢法だったのである。川上操六の派閥跋扈退治と人材登用⑥
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