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野口恒のインターネット江戸学講義⑫海の物流ネットワ-ク「菱垣廻船・樽廻船・北前船―西回り航路の主役の「北前船」(下)

   

 
日本再生への独創的視点<インターネット江戸学講義
 
第5章 海の物流ネットワ-ク「菱垣廻船・
樽廻船・北前船」
―「西回り航路の主役を担った「北前船」(下)
 
 
野口恒著(経済評論家)
 
 
江戸の大消費市場で販売競争を展開した「伊丹・池田酒」VS「灘酒」
 
 江戸は独身者の多い移動の激しいノマド社会であったので、外食が盛んで食事したりお酒を飲んだりする総菜屋や居酒屋が結構多かった。江戸の居酒屋は、もともと食事用の総菜などを売っていた煮売り屋(総菜屋)がお酒も置くようになったのが始まりだといわれる。これらの店は入口に縄暖簾が掛けてあったので「縄暖簾」とも「煮売り酒屋」といわれた。
 
もともと総菜屋が前身なので、お酒を飲む客だけでなく、酒を飲まないで食事だけする客もいた。当時はお酒を“ちろり”(銚釐、酒を温める銅・真鍮製の容器)に入れてお湯で温めて杯で飲む燗酒が普通の飲み方であったが、後にちろりに代わり銚子が一般的になった。酒の肴は芋の煮っころがしや豆腐、煮物や焼き魚などであった。居酒屋での江戸庶民の酒の飲み方や酒の肴も、今の時代のサラリ-マンなどとそれほど変わっていない。
 
 ところで、当時の江戸庶民に大変好まれたお酒は、上方で生産され船で江戸に運ばれた“下り酒”であった。一般に上方で生産され江戸に運ばれたものを総じて「下りもの」というが、お酒は下りものの代表である。とくに、下り酒を生産する酒造業者が集中していた「摂泉十二郷」(大坂・伝法・北在・池田・伊丹・尼崎・西宮・今津・兵庫・上灘・下灘・和泉堺)でつくられたお酒は味や品質がよく、江戸庶民に大変評判がよかった。
 
 江戸は大消費市場であるから、上方の酒造業者はどこも自らのブランド(銘柄)のお酒を少しでも多く売り、江戸庶民に広めようと必死に販売努力した。江戸への売り込み・販売競争は熾烈をきわめ、そのためどの酒造業者も品質改良・技術革新・輸送手段の合理化・営業活動に並々ならぬ力を入れた。
 
江戸前期には、摂泉十二郷のうち伊丹酒や池田酒がトップブランドの評価を受け多く飲まれていた。しかし、後期になると後発の灘酒が猛烈な販売攻勢をかけ、トップブランドの地位を確立して市場を席巻した。後発の灘酒がトップブランドの地位を獲得できたのは、水車を使って精米度を高めた高級酒が評判になるなど、とことん味と品質にこだわった商品力の高さと高級酒のイメ-ジを巧みに浸透させたブランド戦略にあった。実際、灘酒を始め上方の下り酒とそれ以外の地廻り酒や藩造酒では、味や品質など商品力に圧倒的な格差があったのである。
 
 樽廻船で上方から江戸の品川沖に運ばれた下り酒の酒樽は小型の伝馬船に積み替えられて、新川・新堀・茅場町あたりに軒を連ねていた酒問屋(卸)の酒蔵に貯蔵された。そして、酒仲買人を介して小売酒屋にわたり、店頭で庶民が買い求めるというのが一般的な販売ル-トであった。上方の酒造業者の中には、問屋を通さず自社のお酒を直接小売りする直販所を設けているところもあった。当時の江戸庶民の代表的な嗜好品といえば、お酒、たばこ、お茶、菓子類などであるが、なかでもお酒は単価が高く市場規模も大きいことから、嗜好品の主役の地位を占めた。
 
西回り航路の主役を担った「北前船」
 
 江戸時代の海の物流ネットワ-クにおいて、北前船は菱垣廻船、樽廻船と共に非常に大きな役割を果たしている。とくに西回り航路の海上輸送で中心的な役割を担ったのは北前船である。
 
北前船とは、江戸中期から明治初期にかけて北海道(蝦夷地)・東北・北陸の日本海沿岸諸港と大坂を結んで西回り航路を往来した廻船のことを指す(千石船・弁才船・どんぐり船とも呼ばれた)。上りは、対馬海流に抗して北陸・東北・北海道の日本海沿岸諸港から関門海峡を経て瀬戸内海の大坂に向かう航路をいう。その反対に、下りは大坂から瀬戸内海を経て関門海峡をわたり、対馬海流に乗って北陸・東北・北海道の日本海沿岸諸港までの航路をいう。
 
北前船は、大阪や上方など西国で米・塩・砂糖・酒・鉄・綿・反物などの生活物資を仕入れて、北陸・東北・北海道で売り捌き、また北海道・東北・北陸で仕込んだ干魚・塩魚・魚肥・昆布・ニシン・米穀・木材など海産物や穀物を日本海から関門海峡を経て大坂や上方など西国へ運んで売った。北前船による海の物流ネットワ-クは船で瀬戸内海を経由して大坂まで輸送する海上ル-トが主流であったが、なかには若狭湾で陸揚げして琵琶湖を経由して淀川水系に沿って大坂や京まで輸送する内陸水運ル-トもあった。
 
北前船は、北陸加賀百万石や当時天領であった東北・出羽国など、北陸・東北諸藩の年貢米を天下の台所といわれた大坂まで効率よく大量輸送するのに大きな働きをした。北陸の加賀藩などは海上ル-トを使うより、内陸の街道や琵琶湖・淀川水系を利用した内陸・水運ル-トを使ったほうが速くて便利のように思えるのだが、現実は北前船を利用した海上輸送が主流であった。確かに海上輸送には海難事故などのリスクはあるが、それでも大量のお米を速く、確実に運ぶには内陸輸送よりも海上輸送の方が適していた。
 
北前船と加賀藩といえば、河村瑞賢に先立ち、寛永16年(1639年)に加賀藩の用命により、北前船の航路を開拓したのが、古くから“海のノマド”(廻漕業・海運業)として活躍した兵庫・北風家の一族である北風彦太郎であった。彼の北前船航路の開拓によって、加賀藩は年貢米を大坂に速く確実に大量輸送できるようなった。また、彦太郎はお米だけでなく、大量の下り酒を船でいち早く江戸に運んだことでも知られる。これは後の樽廻船の先駆けだといわれている。
 
北前船が菱垣廻船や樽廻船と違う大きな特色は、船主が荷主の依頼によって荷物を運送するだけでなく、船主が荷主を兼ねてその商才を存分に発揮して寄航する港々で商売をしながら航行することであった。まさに、北前船は“海の動くマ-ケット”のような存在であったことだ。物流では荷主の依頼によって荷持を運ぶ形態を「賃積み制」といい、それに対して船主が荷主を兼ねて商売しながら運送する形態を「買積み制」というが、北前船は賃積み制と買積み制を兼ねた機能を備えていた。
 
北前船の船主は北陸の港の出身者が多かった。北前船が寄航する港としては越前の小浜・敦賀・三国、能登・加賀の瀬越・塩屋・安宅・七尾・黒島などである。かつては近江商人の雇われ船頭を務めていたこれらの港の船頭たちは北前船が盛んになると船主となって商才を発揮したのである。
 
西回り航路の寄港地として栄えた酒田と豪商「本間家」
 
 寛文12年(1672年)に河村瑞賢によって西回り航路が整備されると、「西の堺、東の酒田」といわれ、西回り航路の寄港地として発展したのが庄内平野の酒田である。当時、酒田を中心とした庄内平野は、平らな土地が多く、きれいな水が豊富で、昼と夜の温度差が大きく、米作りには最適な土地であった。このため、庄内平野の米はおいしいと大消費地の江戸や大坂で大変評判になり、日本有数の生産量を誇った。庄内平野の米は、大坂堂島の米市場に運ばれて高い値段で売れて、大判小判の山に代わった。
 
それを可能にしたのが、西回り航路の主役である北前船による米流通の海上輸送ル-トであった。酒田から江戸までの約800里、天候任せの航海といっても、1000石の輸送船1艘、乗組員15人ぐらいで、平均して3カ月ぐらいで江戸に届けることができた。その海運ル-トは、日本海が比較的静穏な五月に酒田港を出帆して西下し、日本海の荒波を越えて下関から瀬戸内海を経て、紀伊半島を迂回して江戸に到着するまでだいたい3カ月間ぐらいかかった。速いものでは1カ月半から2カ月ぐらいで江戸に到着した。
 
これを陸上輸送するとなると、その費用が大変だ。酒田から江戸まで、馬一頭に4斗俵を2俵積み、馬子1人が手納をとったとして、1000石なら馬子1250人で15日かかった。途中の宿場での乗り継ぎの手間賃、食料代、宿泊代、さらにたくさんの馬や馬子の調達など、莫大な費用がかかった。しかし、海上輸送なら陸送にくらべてその費用を30~40%以上削減できたという。
 
「酒田照る照る、堂島曇る、江戸の蔵米雨が降る」
「本間様には及びもせぬが、せめてなりたやと殿様(酒井様)に」
 
と俗謡に歌われたほど、酒田の豪商本間家は江戸時代に栄華をきわめた。本間家は庄内藩主・酒井家など及びもつかない、当時日本一の大地主であった。その本間家の財力の元になったのが江戸時代の米相場の投機で大儲けしたことにあった。
 
本間家は初代当主も優れた人物であったが、何と言っても本間家繁栄の中興の祖は天才的な相場師として米相場で大儲けした本間宗久と義弟で本間家三代目本間光丘である。本間宗久は享保9年(1725年)に出羽国・酒田に生まれ、23歳のときに本間家の二代目当主に才能を見込まれ、本間家の養子になった。宗久は本間家の財力をバックに大坂や京の米相場で連戦連勝を続け、莫大な財産を築いた。本間宗久の相場観を元に作ったのが、現在でも株式投資法として人気のある、ロ-ソク足の組み合わせからチャ-トを読み解く「酒田の五法」である。
 
本間家に莫大な財産をもたらした本間宗久が当然本間家三代目当主を継ぐものと思っていたら、実際に三代目当主を継いだのは本間宗久ではなく、義弟の本間光丘であった。三代目当主の継承にあたっては、宗久と光丘の間で激しい葛藤があった。
 
「叔父上、あなたをこの家から追放します」
「それはどういうことだ!光丘。俺はこの家の財産を何倍にも増やしたのだぞ」
「しかし、叔父上のやり方はあまりに危険すぎます」
「何をいっているのだ。光丘、待て、待つんだ」
「確かに、叔父上は相場の天才です。しかし、投機を当家の家業するわけにはいきません」
「危険でも何でもない。俺は相場で確実に儲ける方法を考えたのだ」
「しかし、それでは叔父上亡き後、本間家は滅びます」
 
こうして、本間宗久は本間家から追放され、義弟の本間光丘が本間家三代目当主を継い
だ。光丘自身も蓄財術に優れて本間家の財産を増やしたり、商売を拡大するとともに、飢饉などで窮乏に陥った米沢藩の財政再建をも援助した。光丘は、「投機はその人の才能であるから、家業するべからず。余剰金は土地を買い、開墾や植林に励み、飢饉に備えるべし」との家訓を残している。彼が1801年に亡くなった時、本間家の財産は田地1万6000俵、貸金5万5000両、銀5万貫もあったという。地元の農民には、「取り立ての厳しい酒井の殿様よりも、本間様の小作になりたい」と言われたほどである。
 
北前船航路を舞台に海運業や密貿易で活躍した「銭屋五兵衛」
 
 北前船航路を舞台に“海のノマド”(海民・海商)として活躍した代表的人物に「銭屋五兵衛」(1773~1852年、略称は銭五)がいる。銭五は江戸時代後期の加賀の豪商の生まれで、代々醤油製造や質商を家業としていたが、質流れの船を調達して海運業を起こし、松前藩や東北地方との間で米や海産物の売買で商売を広げた。天保期(1830~1844年)の金沢藩の天保改革に際しては藩の特権的な御用商人を務めた。
 
 銭五が海運業の本拠とした宮腰(金沢の外港)は当時隆盛を誇った北前船航路の重要な中継港であり、海上交易を行うのには最適なところであった。北前船の船主には北陸出身の海のノマドが多数活躍しており、銭五もまたその一人であった。
彼は最盛期に千石船を20艘以上、その他中・小型船舶を加えると持ち船200艘を越えていた。全国に支店網を設けて“海のネットワ-ク”を構築し、江戸や大坂の米相場や廻漕業で莫大な財産を築いた。
 海のノマドとして銭屋五兵衛の優れたところは、廻漕業・海運業はいつ何時海難事故に遭遇して大きな損害を被るかもしれない危険がいっぱいの事業であるため、各地の用地を買収して新田開発事業を行うなど、常に業種・商圏の拡大に心掛けて、世の中の変化や経済の変動に備えてリスクヘッジを怠らなかったことである。
 
 銭五は国内での北前貿易だけでなく、外国との密貿易も盛んに行っていたことは知られている。もちろん、当時は鎖国体制であって外国との貿易は厳禁であった。しかし、薩摩・島津藩の琉球貿易にも見られるように、実際には各藩とも財政状態は苦しいため、献上金の見返りに密貿易を黙認していた藩が多かった。銭五の密貿易も金沢藩への献上金への見返りに黙認されていた。彼は、北前船を使って蝦夷地(北海道)や択捉島まで行ってロシアと交易したり、樺太ではアイヌを通じて山丹交易(沿海州民族の山丹人、アイヌ、和人との樺太貿易を指す。山丹人は中国製の古衣・織物・玉など、アイヌは狩猟で得た毛皮、和人は米・酒・鉄などを交換した)を行い、さらに香港やアモイなどの外国にまで自ら出向いて密貿易を行った。
 銭五は、藩主前田斉泰の時に勝手方御用掛として藩政改革の中枢で活躍した奥村栄実(おくむらてるざね、1792~1843年、金沢藩藩士、国学者としても有名)と結び、御用銀調達の任務に当たると共に、金沢藩の御手船裁許すなわち藩所有の北前船の管理人となって商売を広く行い、莫大な利益を得たといわれる。
 
しかし、奥村が天保14年(1843年)に亡くなり、対立する藩政改革派の上田作之丞の門下生による黒羽織党が藩政の実権をにぎると、銭五の立場は苦しくなり、政権内部で力を失って行った。彼は河北潟の干拓工事を請け負うが、難工事をきわめ、そのうちに伝染病も発生し、銭屋が毒を流したからだという噂まで広まった。この干拓事業は地元の農民・漁民の猛反発を受け、銭五はその責任をとって失脚し、子と共に投獄された。そのうえ、財産没収・家名断絶の厳しい処罰を受けて失意のうちに寛永5年(1852年)に獄中で亡くなった。
 米国のペリ-提督が軍艦7隻を率いて浦賀に再来航し、幕府が日米和親条約を調印し、下田・函館を開港したのは、銭五が獄死してからわずか2年後のことであった。彼は生前密貿易で巨万の利益を上げた悪徳商人にように言われたが、明治維新後は幕府の鎖国体制下にも関わらず、危険覚悟で外国貿易を試みた先駆者としてその開拓者精神が高く評価されることになった。
 
北方航路を開拓、ゴロ-ニンの釈放に尽力した「高田屋嘉兵衛」
 
 小説『菜の花の沖』を書いた作家・司馬遼太郎がこよなく愛した人物に「高田屋嘉兵衛」がいる。彼は江戸時代を代表する海のノマド(海民・海商)、北方航路の開拓者として知られているが、その人物は司馬遼太郎が同書で「世界のどんな舞台でも通用する人物」として高く評価しているように、単なる廻船業者に留まらないスケ-ルの大きな活躍をしている。
 高田屋嘉兵衛は、明和6年(1769年)淡路島に農民の子として生まれた。幼い頃は漁業の仕事に従事していたが、海を親しみ、船を愛した嘉兵衛は22歳の時に廻船業者を志して兵庫(神戸)に出て、大坂と江戸の間を航海する樽廻船の水主(かこ、船の漕ぎ手)となり、船乗りのスタ-トを切った。優秀な船乗りとして経験を積んだ彼はやがて北前船の廻船問屋・和泉屋伊兵衛のもとで船頭になり、酒田に航海し資金を貯める。寛政8年(1796年)に兵庫の北風家の援助を受けて庄内で千石船(1500石積み、当時の国内最大級)「辰悦丸」を建造し、西回り航路で交易する廻船問屋として本格的に海運業に進出した。
 
 嘉兵衛は、まだ寂しい漁村でしかなかった箱館(函館)を商売の拠点として蝦夷地の産物売捌(うりさばき)を広く請け負い、北方航路の開拓や蝦夷地経営に乗り出した。探検家として幕命により北蝦夷地・千島列島を探査した近藤重蔵(1771~1829年)、幕命により北樺太を探検し間宮海峡を発見した間宮林蔵(1775~1844年)、探検家として幕命により蝦夷地・千島列島・樺太を探査した最上徳内(1754~1836年)など幕府の役人と親しくなり、彼らの信頼を得て蝦夷地交易を許可された。
 
嘉兵衛は、当時千島列島を南下してくるロシアに危機感を抱き、海防対策を急いでいた幕府に協力して、近藤重蔵の依頼を受けて寛政12年(1800年)には国後島と択捉島間の航路(国後航路)を発見し、新たに北方漁場を開拓するなど、北方航路の開拓者として活躍した。そして、享和元年(1801年)に国後航路の発見と択捉島開拓の功績が認められて、幕府から「蝦夷地常雇船頭」を任じられ、苗字帯刀を許された。
 
嘉兵衛は、何も北方航路の開拓・北方交易の発展・遠洋漁業の開発など経済活動だけに取り組んだわけではない。文化3年(1806年)に箱館(函館)で大火災が起こり、街のほとんどが焼失した時、嘉兵衛は真っ先に被災者救済と復興事業に取り組んだ。彼にとって、箱館は北方航路開拓と北方交易の拠点となった重要な町であり、海のノマド(海民・海商)として彼を育ててくれた町でもあったからだ。彼は、市内の井戸掘や道路改修、開墾・植林などを自己資金で行った。道内初の造船所を建設し、故郷の兵庫から優秀な船大工を呼び寄せ、多くの船を建造するなど、箱館繁栄の基礎を築いた。箱館発展のために財産のすべてを投じ、個人所有の田畑や土地はほとんどなかったといわれている。
 
嘉兵衛が北方航路で活躍していた頃、幕府の鎖国政策のため通商を断られたロシア使節レザノフが武力行使で日本に通商を認めさせようと本国の許可も得ず、部下たちに択捉島の日本人集落を襲うという襲撃事件が起きた。これに怒った幕府は厳戒態勢をとっていたとき、文化8年(1811年)にたまたまオホ-ツク海沿岸の地理探査するため南下していたロシア船ディアナ号のヴァ-シリ-・ゴロ-ニン艦長ら8人が、国後島で水・食料の補給を得ようと上陸したとき、警備隊に捕捉され、拘禁された。幕府から見れば、択捉島の襲撃事件に対する報復の意味もあった。
 
ロシア側もこれに応酬、文化9年(1812年)にゴロ-ニン事件の報復として嘉兵衛ら5人は副艦長リコルドによって国後島で捉えられ、カムチャッカに連行抑留される事件が起きた。捕らわれた嘉兵衛とリコルドは同じ部屋で寝起きするうちに心が通じ合い、人間同士の友情が生まれた。
 
彼はリコルドに、一連の襲撃・蛮行事件はロシア政府の許可を得ずに部下が勝手に行ったもので、ロシア政府は一切関知していない旨の証明書を日本側に提出するよう説得した。何としても日露両国の和解を図ろうとする嘉兵衛の熱意と努力を理解したリコルドは彼の申し出を受け入れ、嘉兵衛と共に日本に戻った。帰国後、嘉兵衛は松前奉行を説得し、「ロシア側には侵略の意図のない」ことを納得させ、ゴロ-ニンら人質解放に尽力した。
文化10年(1813年)幕府はゴロ-ニンら人質をリコルドに引き渡し、人質は解放されることになった。日露両国の和解を願って人質解放に尽した彼の熱意と努力は並々ならぬものがあった。それは“海のノマド”としての誇りと気概、感謝と報恩の気持ちを感じさせるものであった。
 
リコルドはその後出世してロシア海軍の提督になるが、文化10年(1813年)に人質となった高田屋嘉兵衛ら当時の日本の乗組員たちに、次のような友情の手紙を送っていた。
 
「尊敬する村上テスケ(貞助)、クマジェロ-(上原熊次郎)、誠実なタイショウ(敬愛する高田屋嘉兵衛)、皆さんと箱館で別れてから三十二年が経ちます。三十二年間、これを口にすることは易しいことですが、この間を生き抜くことは大変なことです。私の友人ゴロウニンが亡くなって久しくなりますが、私は彼を悼むことをやめていません。彼の死によって、ロシアはきわめて賢明にして高潔な人を失いましたし、彼の友人であるわれわれも善き友をなくしました。 (中略) 日本とロシアはふたつの大国です。両国には、人間の生活にとってすべてのものがあり、両国には何も不足しているものはありません。
 
しかし、皆さんの隣人であるわれわれと友好関係をもたないのは、あなた方にとっても善くない事であり、罪であることに同意してほしいです。私はもう年老いた身ですが、なんとかしてもう一度皆さんとお会いしたいし、こうしたあれこれのことにつき、皆さんとお話がしたいです。私はおかげで健康ですし、私にとって海は恐ろしいものではありません。私が皆さんとお別れしてからも、私はわが国の大艦隊の司令長官としてあらゆる海を航海してきました。私の善き友人である皆さんのご多幸をお祈りすると共に、皆さんの友、ペ-・リコルドがいつでも皆さんの姿を記憶にとどめ、愛していることをどうか信じてください」(P・I・リコルドの手紙(通訳:キセリョフ・善六)
 
鎖国下でありながら、大海原を舞台に活躍した海のノマドたち
 
 江戸時代は封建社会であるから、普通の庶民が自由に移動したり、活動することは基本的に許されなかった。それでも、多くの庶民は旅行や行楽、商業活  動や文化交流を通じて土地や村落に縛られず、自由に移動することの素晴らしさや楽しさを享受していた。そうした中で、海上航海や海上輸送に携わる“海の仕事”“海のネットワ-ク”は、陸上に比べて幕府など公権力の介入も緩やかで、はるかに移動の自由や未知への冒険を経験することができた。
 
ただ当時は鎖国体制下であるから、航海とはいっても外国への遠洋航海は許されず、日本近海の沿岸航海でしかなかった。それでも、海上は陸上と違って人の移動を取り締まる厳しい検問(関所)や監視もなかった。
 
土地や村落に、領国内に人を縛り付ける秩序や規則もなかった。海の仕事といっても基本的に沿岸航海であったが、それでも菱垣廻船や樽廻船、北前船に乗って日本全国主要な港を自由に航海できた。時には外国船と遭遇したり、暴風雨や海難事故のため外国の港に漂着することもあったであろう。船乗りの仕事は常に命懸けの危険がいっぱいではあるが、彼らはそうした危険と隣り合わせだからこそ、航海の自由と未知への冒険に強い憧れを持っていた。
江戸時代の代表的な“海のノマド”に中濱万次郎(通称ジョン万次郎、1827~1898年)がいる。彼はもともと幼い頃から海に親しみ、航海を愛した土佐国の漁民であった。15歳の時に漁の手伝いで仲間の漁師と一緒に漁に出て遭難し、太平洋の無人島に漂着してアメリカの捕鯨船に救助された。船長ホイットフィ-ルドに気に入られて米国本土に渡り、船長の好意で米国の学校に通って英語や数学を学び、本格的な航海術や造船技術を修得した。 
万次郎は、やがて嘉永5年(1852年)に帰国し、英語や米国の知識を買われて幕府で外交書簡の翻訳等に従事した。万延元年(1860年)日米修好通称条約の批准書を交換するため遣米使節団の一員として咸臨丸(艦長は勝海舟)に乗って米国に渡り、命の恩人であるホイットフィ-ルドとも再会した。明治維新後は開成学校の英語教授を務め、教育者としての道を歩んだ。
 
中濱万次郎の数奇な生涯は、海の上の仕事は常に命懸けの危険と隣り合わせでありながら、未知の冒険と幸運に遭遇する可能性を持った、“海のノマド”としての生き方の典型でもあった。鎖国体制下にも関わらず外国貿易を試みた銭屋五兵衛や高田屋嘉兵衛の生涯も、中濱万次郎のそれに劣らない自由な航海への憧れと未知への冒険心に満ちている。封建社会で鎖国体制下の江戸時代でも、海に親しみ自由な航海を愛した海のノマドたちはいっぱい居た。危険を恐れず、海のノマドとしての気概と覚悟、旺盛な冒険心を持った彼らの活発な活動が、封建社会・鎖国体制の扉を開き、開国の準備を促したといえる。

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