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野口恒のインターネット江戸学講義(13)第6章 境界・周縁・無縁の世界に生きた「漂白の民」―身分制度から外れた世界(上)

   

日本再生への独創的視点<インターネット江戸学講義(13)>

 
第6章 境界・周縁・無縁の世界に生きた
「漂白の民」身分制度から外れた境界・周縁・無縁
の世界に生きる「漂白の民」(上)
 
 
野口恒著(経済評論家)
 
 江戸時代は封建社会であるから、人々は士農工商の身分制度にしっかりと縛られていた。士農工商は「四民」(しみん)といわれ、封建秩序を担う最も重要な構成単位であった。
支配階級としての武士を最上位に置き、その経済的基盤であった農民を次の位置に、さまざまな職業に従事する職人(工人)をその下に、さらに生産活動に関わらない商人を最下位に置いた。封建社会はこうした厳格な身分制度を社会秩序や組織の根幹とする共に、その経済的基盤は石高で示されるように米作りを中心とした米経済が基本であった。
 
まさに封建社会は、政治的には身分制度、経済的には米経済を根幹においた社会であった。支配階級としての武士と経済基盤の担い手である農民が階級社会の上層をなし、職人や商人はインサイダ-(内部者)ではあるが、封建社会を下支えする下層階級に位置付けられた。
 
ところが、江戸時代には封建社会の根幹をなす身分制度から外れた、あるいは身分制に縛られない「境界・周縁・無縁の世界」に生きていた人たちが大勢いた。彼らは、封建社会の身分制度から外れた世界に生きるアウトサイダ-(外部者)であり、権力や組織にも守られることのない弱者ではあった。しかし、彼らは封建社会を最下層から支えながら、さまざまな職業を生業に持ち、弱者の強みを生かして真に社会を動かす力を持っていた人たちである。
 
具体的には、農業以外に多様な職業を生業に持っていた「百姓」、廻漕業・海運業など海の仕事を生業にしていた「海民」、専門技能を身に付けた手工業者としての「職能民」、芸能文化に精通しその伝播者でもあった「芸能民」、社会の最下層で生き多様な職業を生業にしていた「遊民」、陰陽師・虚無僧・山伏・修験僧などの「下級宗教者」たちの人々である。これらの人たちに共通するのは、封建社会の身分制度から外れ、土地や村落の組織にも縛られず、自由に移動することでさまざまな仕事に従事していいた非定住の「漂白の民」であることだ。
 
ここでいう境界の世界とは、相異なる村落共同体と共同体が出会い交わる場所であるが、いずれの共同体の側にも属さず、いずれの制度や組織にも縛われない中立的な“開かれた場所”を指す。周縁の世界とは士農工商の身分制度から外れ士農工商に含まれないが、身分制社会の周辺で生きる多様な職能を持った人たちの世界である。そして、無縁の世界とは、都市の遊郭のように封建社会の身分や法律、徴税される義務や世俗の縁やしがらみを断ち切った世界をいう。
 
境界・周縁・無縁の世界で生きる人たちは封建社会の身分制度や組織に縛られないぶん自由な側面もあるが、しかし基本的に法律や組織に守られない弱者の立場にあり、さまざまな差別や迫害を受けていた。それゆえに、彼らは仲間同士のネットワ-クを通じた連帯感や団結心が人一倍に強いのである。彼らには、どうしても弱・貧・飢・賤・穢・無法といった暗いイメ-ジばかりがつきまとうが、しかし彼らこそ江戸庶民の暮らしと文化を底辺で支えた人たちである。
 
百姓は農業専従者にあらず、多様な職業を生業にした職人ノマド
 
 江戸時代はどうしても土地に縛られた農業中心の定住社会であり、日本の人口の大部分は農民で、多くの村落は農村であったというイメ-ジが強い。
しかし、そうした固定観念や常識を決定的に打ち破ったのが網野善彦(1928~2004年)らの歴史学者たちの実証研究である。それらは、中世の職人や芸農民など、農民以外の非定住の漂白民(筆者のいう「漂白の民=ノマド説」)の世界が日本の歴史の中で、いかに社会を動かす大きな働きや力を成してきたかを具体的な事実・資料を上げて実証した。
そして、日本は天皇を頂点にした農民中心の均質国家とされてきたそれまでの国家像に大きな疑問を投げかけて、日本の中世・近世史研究に多大な影響を与えたのである。
 
中世から近世にかけて「百姓」といわれた身分の人たちは土地に縛られ農業に従事した定住の農民だけでなく、廻船業・製塩業・商業・手工業などさまざまな職業を生業にしていた非定住の「ノマド」(漂白の民)でもあった。
四方を海に囲まれた日本列島の社会はそもそも自給自足の農業中心の定住社会だけでは成り立ち得ないのである。当初から海上交易を含めさまざまな交易活動によって成り立ち得た交易社会でもあった。
 
確かに江戸の経済社会を支えたのは米作りを中心とした農業社会であったことは明確である。しかし、当時の社会が米作や農業、定住の農耕民だけで経済的に支えられていたかというと、決してそうではない。「ノマド」といわれる非定住の漂白・流動の民は、陸や海でじつに多様な職業を生業として経済的に社会を下支えし、庶民のこころを魅了したさまざまな芸能文化を生み出し、最下層で庶民の暮らしや生活を支えていた。そうしたノマドの代表的な存在が「百姓」といわれる多様な職業を持った人たちである。
 
 そもそも百姓という言葉は語源からいっても農民とイコ-ルではない。百姓という言葉が日本で使われ始めたのは、中国・唐の律令制度が日本に導入され、整えられた7世紀後半からだといわれる。百姓とは文字通り“百の姓を持つ人びと”を意味し、それには多くの職業を生業に持った人たちという意味も含まれていた。
 
中世から近世にかけて、百姓といわれた人々はもちろん農業に従事するものもいたが、それ以上に“非農民・非定住”の手工業者、廻船業、船乗り、漁民、商人、行商人なども多くいて、多様な職業を持った人々を総称して「百姓」といっていた。そうなると、百姓とはそもそも農民のことではなく、検地帳(土地台帳)に名前が載っていて、村落に住んでいる「普通の人びと」を指している。
 
 百姓=農民、村落=農村、封建社会=農業社会=定住社会というのは江戸時代から現在まで長く続く根強い俗説であって、実際の百姓は多様な職業を持っていたし、村落には農民だけでなく多様な職業を持った人びとが多く住んでいた。彼らは土地や村落に縛り付けられ定住していたわけでなく、さまざまな職業を通じて活発に各地を移動していたのである。百姓の本質は、他の国や職業を自由に移動したノマドにある。
 
 江戸時代中頃になると、貨幣経済の発達と社会変動によって、また度重なる飢饉(江戸時代の三大飢饉といわれた「享保・天明・天保」の大飢饉だけでなく、地方村落の小飢饉も含めて)の影響などもあって、百姓内部にも貧富の格差(階層格差)が生まれた。同じ百姓であっても家屋敷や土地持ちの高持ち百姓(本百姓)と高持ちから転落した自らの土地を持たない水呑百姓に分解して行った。
 
ただ、高持ちから転落したからといって、水呑百姓がすべて貧しかったかというと決してそうではない。農業で食べていくことができないとなれば、彼らは生きていくために農業以外の多様な職業を選択した(すなわち転職した)。彼らはもともと自らの家屋敷や土地を持たない“自由の身”であるから、土地=農業、土地=定住という土地に縛られた固定観念や土地を媒介にした価値観に対する執着やこだわりがほとんどなかった。
 
転職した廻船業や製塩業、あるいは商業や行商、さまざまな職業で能力を発揮し、成功してお金持ちになった水呑百姓もたくさんおり、水呑百姓=貧民という固定したイメ-ジは決して正しくない。廻船業や製塩業、商業や行商、手工業者などの非定住の職業は、土地をベ-スにした定住型の米作りや農業と違って、貧乏に転落するリスクも高いが、能力さえあればお金持ちになれる可能性もあった。
 
水呑百姓がノマド型の海運業や商業、職人の世界に転職したのは公権力の介入や監視が比較的に少なかったことも大きかった。苛酷な年貢徴収や厳しい村落の掟に縛られた農業に比べて、幕府や大名などの公権力の介入が比較的に少なく、あまり事細かに手出しをしてこなかった。農業から得る年貢収入は幕藩体制の経済的基盤だから、幕府も厳しく目を光らせ、事細かに介入して監視していたが、商人や職人の世界にはあまり介入せず、その監視も比較的緩やかであった。
 
百姓でもう一つ重要なことは、江戸時代を通じて百姓はよりよい生活を求めて、自分たちが生まれ育った村落を離れて他(領)の土地に移ったり、農業を離れて他の職業に就いたり、百姓から町人や足軽などの身分に移動するノマド型の百姓が結構多かったことである。大名たちは大事な年貢を生み出す百姓をより多く手元に置こうと、他領から来た百姓を好条件で優遇し、去って行った百姓は他領主と交渉して取り戻そうと必死であった。
 
とくに、新田開発などに熱心な大名ほど、労働力確保のために他国からの百姓の移住を積極的に受け入れた。そのため、大名間で大切な労働力である百姓を取り合い、奪い合う百姓獲得合戦さえあったという。(参考:「逃げる百姓 追う大名-江戸の農民獲得合戦」宮崎克則著 中公新書)。
 
享保期以降は、生まれた村落を離れ、他の土地・職業・身分に移動する「走り者」と呼ばれたノマド型の百姓の移動を禁止する「走り者禁止令」が緩和されたことにより、百姓は比較的自由に他国に移動し、他の職業に転職したり、他の身分に移動することができたのである。百姓=土地に縛られた農民といった固定観念はまったくの誤りであり、江戸時代の“百姓は意外にノマド(他の土地・職業・身分への移動民)”であった。
 
経験と技能だけを頼りに各地を渡り歩いた職人ノマド
 
 江戸時代の士農工商のうち、工にあたる職人(職能民)は江戸の初期にはまだその職種が限られていて、鍛冶、大工、大鋸引、屋根葺き、畳刺し、銀屋、塗師など築城・建築技術と武器生産技術にかかわる専門職(技術屋)が多かった。
 
しかし、17世紀後半になり、社会が安定し庶民生活が豊かになると、生活に密着した多様多様な職種が増えてきた。職人といっても、幕府や大名など公権力に認められた公認の職人身分と、実態は手工業者であるが、身分としては町人や百姓とされた非公認の職人との2種類に分かれていた。
 
多くの城下町では当初、職人身分のものは職種ごとに集まった「職人町」に集住させられていた。職人町は別名「国役町」とも呼ばれた。そこに住む職人は地子(ちし、税金のこと)免許の特権が与えられる代わりに、親方は年に日数間無償で江戸城の建築修理に従事するなどの国役(くにやく)を務める義務があった。
 
幕府にとって職人たちを職人町に集住させた方が管理・監督しやすいからだが、職人たちにとっても仲間同士で同業ネットワ-クを作って情報を交換し合うなど、仕事や生活上で助け合うことができた。ただ、職人身分のものは同じ職人町にずっと定住していたかというと、決してそんなことはなかった。
同業者同士の組織とネットワ-クを通じて、仕事を紹介し助け合ったりして城下町の各所を点々としたり、また仕事のある別の町に移り住んでさまざまな仕事に従事した。とくに、明暦の大火(1657年)によって多くの職人たちが職人町を追われたり、逆に大火後の復興建築ブ-ムの影響もあって、周辺農村から大工や左官など大勢の職人が江戸に流入したりした。その結果、職人町は急速に崩れて行った。
 
職人には、①自立した親方職人(棟梁)、②親方ではないが直接仕事の注文を請け負う独立職人、③独立しておらず親方から仕事を分けてもらう手間職人、④親方の家に住み込みで働いている雇われ職人、⑤親方の下で技能の修得・修行している弟子職人、⑥その時、その都度仕事をもらう渡り職人など、さまざまな職人階層に分かれていた。このうち、親方になれる職人は非常に限られており、親方の家に生まれたものか、親方から跡目を許されたものに限られていた。
 
土地に縛られた農民と違って、職人が仕事を求めて簡単に移動できたのは、優れた技能・技術とものを作るための道具さえあれば、どこでもすぐに仕事ができたことが大きな理由である。
たとえば、大掛かりな城郭修理や寺社建築を行う場合、同じ城下町内で必要な御大工(おだいく)や宮大工を調達できないときは、大工組合の組織とネットワ-ク、親方同士のつながりを通じて、他の町の御大工や宮大工を紹介してもらい調達することも多かった。
 
職人たちは当初個々の存在であったが、やがて親方を中心に組織化され地域ごとに同業組合(たとえば内仲間)を形成して“横の結束”のネットワ-クを作り、得意先関係の開拓と調整、手間賃の協定、新規参入の職人や弟子たちの扱いなどを話し合って決めていた。
 
幕府は元禄期(1688~1704年)に、御用職人(親方)を世話役にして職人たちの統制・監督を行うための「肝煎り」(きもいり)制度を定めたり、また徳川吉宗の享保の改革ではそれまで任意組合であった内仲間を公認組織として認めることで、町人支配の一環として職人たちを町奉行の統制下に置こうとした。この内仲間の組合組織は、田沼意次の時代(1767~1786年)になると「株仲間」へと発展した。幕府は株仲間に営業権を認める代わりに税金を徴収しようとしたのである。ただ、株仲間も水野忠邦の天保の改革(1830~1848年)では解散を命じられた。
 
 職人の世界では、基本的に親方が仕事を請け負い、親方を通じて配下の平職人や手間取り職人に仕事を配分していく請負制度が行われていた。親方はいわば請負業者のような存在で、平職人や手間取り職人は親方から仕事を分けて貰っていた。
 
 ただ、江戸後期になると親方や組合組織の統制に入らない、自由な職人たちが各地を渡り歩き、雇用主(請負人)から直接仕事を請け負うケ-スが増加した。日雇い職人や渡り職人などが農村から江戸に多数流入して、親方を通さず雇用主の請負人から直接仕事を請け負って収入を得るものが増えた。そうなると、親方との関係も微妙になり、時には対立して従来のような家族的な師弟関係や家業としての職人仕事の伝統は急速に崩れていった。
 
 
 

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