片野勧レポート③戦災>と<3・11>『なぜ、日本人は同じ過ちを繰り返すのか』艦砲射撃・釜石と津波<上>
片野勧レポート
太平洋戦争<戦災>と<3・11>震災③
『なぜ、日本人は同じ過ちを繰り返すのか』
―艦砲射撃・釜石と津波<上>―
片野 勧(フリージャーナリスト)
釜石は4度、死んだ
私は釜石の被災地を回って、言葉を失った。2012年5月15日――。3・11から1年2カ月余がたっているのに、手つかずのままの泥土と見渡す限りの荒野が目前にあった。そこは市街地だったのか、集落の跡だったのか。
家族や友人を失った悲しみに打ちひしがれている人の話を聞きながら、何度も自問した。圧倒的なこの現実は一体、何なんだろう。
「北の鉄人」。1979年から85年まで、日本選手権を7連覇した新日鉄釜石ラグビー部の街だった。そして釜石は「鉄の街」として栄えた。日本の資本主義の象徴のような街だった。
しかし、栄えた街もすっかり人がいなくなった。被災した沿岸部の商店主たちは頭を抱えている。がれき撤去に追われ、計画策定のめどが立っていないからだ。
釜石港近くの商店街周辺には飲食店やホテルなど約270店が軒を連ねていたが、店舗の多くが津波で全壊した。人口約4万人の町の死亡者数は889人(うち身元不明12人)、行方不明者数は155人(『復興釜石新聞』7月28日号)。
「釜石は4度、死にました」
艦砲射撃の語り部を続けている「花貌」の元編集代表、千田ハルさん(88歳)はこう語る。「花貌」は戦後の昭和22年2月、文学好きの人たち10人が集まって結成した詩人集団だ。
1度目の死は明治29年の三陸沖大地震による津波。死者は釜石町、鵜住居村、唐丹村合計6477名。全人口の50%以上が死んだ。2度目は昭和8年の三陸地震津波。死者404名(釜石市「津波防災教育のための手引き」)。
3度目は終戦間際の1945年7月14日と8月9日、洋上に展開した第2次世界大戦(大東亜戦争)時の連合国艦隊の艦砲射撃を浴びたとき。4度目は今回、襲った3・11「東日本大震災」による津波。
国内で唯一自給できる製鉄所
製鉄所の繁栄は釜石港を抜きにしてはありえなかった。製鉄に必要な石炭や、製造された鉄鋼を運び出すには貨物船が出入りできる港が必要だ。釜石港はそれを担う港として発展してきた。
第二次世界大戦が始まると、釜石港は一段と重要な港に位置づけられ、昭和19年(1944)には軍港に指定された。文字通り、釜石は軍需都市と化していった。当然、米英軍の攻撃目標にさらされた。
昭和20年(1945)、太平洋戦争が重大な局面を迎える中、全国主要都市はB29による空襲を受け、さらに地方都市までその猛攻が広がっていた。国内で唯一自給のできる製鉄所を持つ釜石も艦砲射撃によって狙われた。
千田さんは釜石市平和委員会編『私の八月十五日』(第一集)に手記を寄せている。
それによると、当時、千田さんは21歳。女子挺身隊で横浜と釜石製鉄所と2回、徴用されたあと、釜鉄総務課タイプに就職して2年足らずの時だった。
7月14日午前11時40分。突然の空襲警報で職場の30人ぐらいと事務所の近くの鈴子館の防空壕に駆け込む。「シューッ・ドッカン」。ものすごい音が続き、うずくまっていた。悲鳴や鳴き声も聞こえた。
「空襲警報解除!」の声で助かったと思い、外に出て、びっくり。製鉄所の駅前の5本の煙突はへし折れ、一面、焼け野原。家族は無事だったが、住宅は焼失した。
8月9日。2回目の艦砲射撃だった。この日の朝は家族11人、東京空襲と名古屋空襲から逃れた弟や妹、甥、年老いた伯母らと賑やかにしていた。「シューッ・ドッカン」。突然の爆音で甥を抱いて山に逃げた。
手で土を掘り、顔を埋めて息をひそめていたら、ザーッと土が降ってきた。その後は気絶したらしく、何も覚えていないが、しばらくして「空襲警報解除!」の声がしたので、また助かったと思った。家に帰ったら、砲弾の破片が押入れに無数に突き刺さっていた。まさに生と死は紙一重。
戦災資料館も8カ月で流失
「津波で多くの友人や知人を失いました。本当に悔しいです」
千田さんは今回、津波に襲われる心配はなかったが、電気とガスが使えなくなり、孫と3人の幼児と一緒に双葉小学校へ避難した。暗く寒い不安な夜を送ったが、最も悲しかったのは友人、知人の死の知らせだった。
なかでも釜石の「戦災資料館」建設のために8年間、毎年一緒に陳情に行っていた郷土史家の昆勇郎さんや原田伝さんらの死は心にこたえた。その戦災資料館が2010年夏にようやく完成したのに、わずか8カ月で流失してしまったのである。
今も続く「日本製鉄元徴用工裁判」
「釜石は大きな津波に呑み込まれました。戦災も震災も二度と起きてほしくないです」
悲しみにうちひしがれている千田さんらを励ますために、またボランティアのために東京から金曜日の夜行バスで来て、1日働いて土曜日の夜行で帰っていく人たちがいた。「日本製鉄元徴用工裁判を支援する会」のメンバーである。
日本製鉄元徴用工裁判というのは戦時中、植民地とされていた朝鮮の青年たちが軍や官憲の威力で強制的に釜石製鉄所に連行され艦砲射撃で犠牲になった、その遺族が新日鉄と国を相手取り、損害賠償と遺骨の返還を求めている裁判のこと。
父親の顔も知らない遺族の裁判は困難を極めたが、千田さんも証人として出廷。1997年9月、釜石製鉄所が慰霊費用として2千万円を支払うことで和解が成立した。しかし、この問題を国連にも提訴したが、国は取り上げてくれないという。
曖昧のまま放置されている戦争責任
「この裁判はまだ終わっていません」
千田さんのこの言葉を聞いて、私は大きな憤りを覚えた。非道な歴史(南京大虐殺、従軍慰安婦、強制連行、毒ガス人体実験……)に対する反省のなさと、いまだ曖昧のままに放置されている戦争責任に対して――。
1985年5月8日、西ドイツ連邦議会で当時のワイツゼッカー大統領は演説でこう語った。
「過去に眼を閉ざす者は、未来に対してもやはり盲目となる」(『荒れ野の40年』岩波ブックレット)
この日はドイツ降伏40周年にあたり、ワイツゼッカー氏はこの記念日を「ナチスの暴力支配による非人間的システムからの解放の日」と形容。ドイツはナチスの犯罪を認め、謝罪と補償をしただけでなく、膨大な被害を与えたポーランドとの間に歴史認識の共有などを行ったのである。
翻って、日本はどうか。一貫して「戦争責任はすべて解決済みである」「すべて時効である」と主張する。この彼我の差はどこから生まれてくるのか。戦時中、強制連行や捕虜に強いた奴隷労働について謝罪し、賠償せよ――。
アジアからそんな訴訟が起こされているのは、なぜなのか。しかも「国」ではなく、「企業」に対して。それは戦争の加害責任を問うてこなかったツケではないのか。
アジアからそんな訴訟が起こされているのは、なぜなのか。しかも「国」ではなく、「企業」に対して。それは戦争の加害責任を問うてこなかったツケではないのか。
過去を知らぬ者は、永遠に同じ過ちを繰り返すという。歴史の事実に真摯に向き合い、日本人が行った過ちを我々日本人の力で克服して行かない限り、この問題は何度も繰り返されるだろう。
釜石はなぜ、狙われたのか
ところで、釜石は艦砲射撃でなぜ、狙われたのか。『アメリカ戦略爆撃調査、艦砲射撃調査班報告書』によると、「日本の重要産業を破壊し、輸送を混乱させ、日本国民の戦意を低下させるため、日本本州の特定地区を砲撃することであった」という。
つまり、釜石は北海道の室蘭とともに鉄を生産し、日本が戦争を遂行していく上で、軍事的に極めて重要な拠点であったからだ。(以下、『日本の空襲-1 北海道・東北編』三省堂を参考にする)
つまり、釜石は北海道の室蘭とともに鉄を生産し、日本が戦争を遂行していく上で、軍事的に極めて重要な拠点であったからだ。(以下、『日本の空襲-1 北海道・東北編』三省堂を参考にする)
まず7月14日。3隻の快速戦艦、2隻の重巡、9隻の駆逐艦によって艦砲射撃を受けた。製鉄所の構内を中心とした工場地帯と市街地は、昼の12時10分より14時18分にわたって行われ、16インチ砲など約2600発の砲弾が撃ち込まれた。
砲撃開始とほとんど同時に、製鉄所や市街地域から煙の柱が立ち上がり、その煙は巨大な煙雲となって上空に覆いかぶさった。市内の中心部、寺町、只越、鈴子、松原町の倒壊家屋から火災が発生。
上空は敵機が旋回し、艦砲の砲弾は絶え間なく飛んできて、消防活動は全く封ぜられ、家屋はただ燃えるにまかせるほかなく、市街は焦土と化した。死没者数は478名(釜石市郷土資料館)。釜石市民にとっては明治29年、昭和8年の大津波以来の大惨事だった。
防空壕に避難した市民の中には直撃を受け、死んだ人も多くいた。また砲弾の破片と爆風で死傷した人も。なかでも、釜石駅構内、駅前の防空壕、嬉石の防空壕では70余名が死んだ。
家を失った市民は、ある者は焼失を免れた知人、親戚を頼り、行くところのない者は釜石国民学校、石応寺、宝樹寺、仙寿院に身を寄せて一夜を明かした。先の千田ハルさんはこう語る。
「本当に生きた心地がしませんでした」
日本本土初の艦砲射撃
このように重要産業都市として、第一の目標とされた釜石は日本本土で最初の艦砲射撃を受けたのである。これは製鉄所を狙ってはいたが、事実上は市民への無差別砲撃であった。
次いで8月9日。破壊された高炉の再開を翌日に控えた日だった。3隻の快速戦艦、4隻の重巡、10隻の駆逐艦によって2度目の艦砲射撃を受けた。16インチ砲など約2800発の砲弾は釜石の全市と製鉄所の全施設、社宅に向けられた。製鉄所は全機能が停止するほどの甚大な被害を受けた。死者318名(釜石市郷土資料館)。この日は長崎に原爆が投下された日だった。
当時、国内の労働力不足を補うために国策として、多くの中国人や朝鮮人が強制的に連行され、日本各地の鉱山に送り込まれていたが、釜石も例外ではない。俘虜収容所も置かれ、オランダ人、イギリス人、アメリカ人、ニュージーランド人が収容されていた。
彼らの使役企業は日本製鉄釜石製鉄所。終戦時には351人が収容されていたが、そのうち32人が艦砲射撃で犠牲になった。なお、2回の艦砲射撃による死没者数(兵隊、俘虜、工場関係者含む)はその後の調査によって1千名を超しているという。
市民の証言から
7月14日の艦砲射撃を受けた時の和田乙子さん(82)の証言。彼女は当時、15歳で大槌高女1年生。学徒動員で釜石製鉄所にいた。
――この日の正午過ぎ、空襲警報が発令された。けたたましいサイレンに騒然とした。たちまち避難命令でトンネルに避難した。艦砲射撃のものすごい音は、トンネル内にも響く。やがて、「外へ出ろ」と言われて出てみたら、どこも火の海だった。
「歩くことも座ることもできない惨憺たるものでした」
道端には死人が横たわっていた。製鉄所の構内から担架で運ばれてくる死人もいた。やっとの思いで釜石駅にたどり着くと、駅前は地獄。汽車など走っているはずがない。橋を渡って帰ろうとしても、大渡橋がない。
そこで駒木まで歩き、そこから泣きながら山道を越えて、自宅のある鵜住居へ。とっぷりと日が暮れていた。家に着いたとたん、母は言った。
「お前たちは生きて帰るとは思っていなかった」
和田さんの目には大粒の涙が「どっ」と流れた。
戦争の残酷さ、平和の尊さを語り続けよう
戦後、和田さんは教壇に立った。請われて幼稚園や小・中学校などで戦争体験を語ってきた。戦争の話を聞いた児童・生徒たちから感想文が多く寄せられた。
「僕たち、私たちが大人になったとき、日本を戦争する国にはしない」等々。
子どもたちは純粋で正直で美しい。美しい心のまま大人になって欲しいと和田さんは願う。しかし、戦争をしない国を誓った日本国憲法の九条をいま改悪する動きが出始めている。和田さんは書いている。
「何を馬鹿なことを考える政治家たちよ、あなたたちは戦争の苦しみを知ってるか、自分の息子たちを餓死させた悲しい経験もない人たちの政治だから九条を変えることなど平気なんだろう」(「花貌終刊に思う」2004年8月31日)
戦争の記憶が風化するにしたがって、戦後生まれの政治家を中心に植民地や侵略の歴史に、当時の日本を正当化しようとする声が目立つ。この風潮に対して、一人憤りを隠せない日々を送っている和田さんは、美しい心の子供たちが再び銃を持つ戦争を絶対に許さないためにも、懸命に戦争の残酷さを語り、平和の尊さを語り続けているのだ。
「艦砲射撃と津波だけは忘れません」
和田さんは4年前に手術してからはリハビリを続けていて、昨年(2011)3月いっぱいで鵜住居の自宅に戻る予定だった。しかし、その矢先に津波が襲ってきた。
「あの艦砲射撃と今回の津波だけは忘れません。あの世に行っても頭から離れないでしょう」
和田さんはそう言って涙ぐんだ。67年前、海の向こうから爆音を轟かせながら釜石に向かってきた艦砲射撃と重なって見えたのだろう。
和田さんは現在、釜石市甲子町の有料老人ホームに住んでいるが、鵜住居の自宅を見に帰れたのは津波から100日後だった。家も実家も故郷の街並みも押し流されていた。
「実は艦砲射撃を受けたあとの釜石の中心街は一面、焼け野原でしたが、いくらか建物は残っていました。しかし、今回の津波で私の住んでいる村は何一つ残っていません」
艦砲射撃と津波――。同じ悲劇といっても、そもそもの原因が異なる。津波は避けようがなかったにしても、戦争がもたらした艦砲射撃は避けることができたかもしれない。
寺の境内に遺体が次々と
市中心部の町内会長を務める菊池新之助さん(73)の証言。当時、国民学校1年生。
菊池さんは震災のあと、避難所で次々と運び込まれる遺体の身元確認に追われながら、艦砲射撃の「あの日」の光景を思い返していた。
父は海軍に出征。長兄は学徒動員で花巻の軍需工場で働いていた。三兄は学童疎開。その日(1945年7月14日)、沖に浮かぶ軍艦から砲弾が間断なく飛んできた。新之助さんは次兄と姉と弟、母親の5人で防空壕に避難し、やがて近くの山に逃げた。
「あまりの恐怖心で一晩、泣き崩れて、そのうち寝てしまいました」
夜が明けたら、あちこちに火の粉が舞っていた。そんな中、寺の境内に毎日のようにトラックで遺体が運び込まれ、焼かれていくのをじっと眺めた。首や手足のない遺体もあった。まさに阿鼻叫喚地獄。さらに話を続ける。
「あの時はたしか3日も4日も燃えていましたよ」
消防隊員はいない。男性は戦地に征っていて、残っているのは女性や高齢者、子ども、障害者たちだけ。消す人がいない。いや、消すことより、人命を助けることに精一杯だったと思われる。
当時の釜石は全国の中小都市がそうであったように、90%が木造建築。その上、消防隊は全く機能していなかった。木造家屋は消火活動をしない限り、全部燃え尽きるまで燃え続けるのだから、菊池さんの言うように何日も燃え続けていたのだろう。
「焼け跡は足の踏み場もありません。惨憺たるありさまに、ただ唖然とするばかりでした。工場内は全地域にわたり壊滅的な被害を受け、まさに復旧不能の様相を呈していました」
今回の震災も似たり寄ったり。電気もガスも電話も水道もストップ。「鉄の街」は「地獄絵」と化してしまった。政治の世界では足の引っ張り合いで、何も進まない中で街は大崩壊。
交通網も生活基盤も、学校も病院も、職場も地域も、人々の笑顔も語らいも一瞬の間に崩れ去った。それはまさに67年前、艦砲射撃でやられた釜石の焼け野原とまったく同じ情景だった。
菊池さんも今回の震災で自宅を流され、蔵にあった郷土史の資料を失った。救われたのは、菊池さんが集めた艦砲射撃の記録や砲弾の破片、聞き取り調査の記録……などが残ったこと。
菊池さんは私を被災地へ案内してくれた。釜石大観音の前に二人の人影があった。老人のようだった。
老人はじっと釜石湾を見つめていた。湾は残酷なほど穏やかだった。
二人の老人は何を見、何を考えているのだろう。その姿は誰かと対話しているようだった。似たような光景を、私は何度も目撃した。石巻や女川で、また同じ釜石市の唐丹で、ただ黙然として海と向き合っていた。その相手が誰なのかは分からない。だが、私はそれを知りたくて、津波被災地を歩いた。これからも歩くつもりだ。
戦争体験集の原稿も流された
震災のあった2011年には3冊目の戦争体験集を出すはずだった。釜石市の市平和委員会会長であり、釜石・東日本大震災を記録する会代表の前川慧一さん(74)は2009年から毎年『戦争体験集・私の八月十五日』を出版してきた。しかし、3月11日の津波で鵜住居にある自宅は全壊。編集を進めてきた原稿も流された。
コンクリートの土台だけを残した廃墟、瓦礫が積み重なる風景……。前川さんの目には終戦後、朝鮮半島から引き揚げる途中で見た広島と東京の焼け野原が重なった。
「釜石は戦災と震災の町です。明治29年の三陸沖大地震から含めますと、戦災と震災で1万人以上が死んでいます」
連合艦隊の艦砲射撃で1千名以上の死者と多くの負傷者を出した悲劇の記録を途絶えさせるわけにはいかない。また大震災の悲劇も伝えていかなければならない――。
市民が戦争体験を語り合う平和集会を開いた。そこで出会った人や、原稿を寄せてくれた人を訪ね歩き、改めて原稿を依頼した。
弟の1人をパプアニューギニアで、もう1人を釜石の艦砲射撃で失った91歳の男性は、津波で亡くなった。その老人は前川さんに体験を語ってくれたが、その時の録音テープも流出した。
「ここまで生き延びてきたのに、さぞ、無念だっただろうね」
震災後、全国から多くのボランティアが集ってきた。黙々と瓦礫を片付ける若者の姿を見て、前川さんは人間の絆の尊さと日本人の誇りを、悲劇の中に見い出したという。
前川さんは現在、仮設住宅に身を寄せながら、戦争と津波体験の聞き取りを進めている。今年の3月11日に津波体験集、8月15日に戦争体験集を発行した。
※ 太平洋戦争(東北地方の空襲、東京大空襲、ヒロシマ・ナガサキの原爆、沖縄戦、引き揚げ等)と今回の大震災の両方を体験された方がおられましたら、編集部(公評社)へご一報ください。電話03(3264)0078(代) (かたの・すすむ)
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