片野勧の衝撃レポート(41)太平洋戦争とフクシマ⑭悲劇はなぜ繰り返されるのか「ビキニ水爆と原発被災<上>(14)
2015/01/01
片野勧の衝撃レポート(41)
太平洋戦争とフクシマ⑭
≪悲劇はなぜ繰り返されるのかー
★「ビキニ水爆と原発被災<上>(14)
片野勧(ジャーナリスト)
偏見と差別にさらされて
永田さん 「大石さんは被ばくされて、お子さんを死産されることがありました。そういう体験の中で、世の中の偏見や差別にもさらされてきました。自分が被ばくし、子々孫々までそれを背負っていかなければなりませんから、親せきの方にも迷惑がかかることもあったと思います。でも、被ばくの事実を伝えなければならない一方、政府側から被害はないよ、と否定されるわけですが、その狭間に立った苦しみというものはどういうものだったのですか」
大石さん 「言いたいことがあっても言えない。しかし、それを言うと家族に及んでいく。また実際に及んできました。最初はみんなに隠して生きていましたけれども、誰かが言わなければ、また同じことが繰り返されるということを長い年月の間で知りました。私は今、元気そうに見えるかもしれませんが、被ばく者特有の症状があります。肝臓がんの宣告も受けました。被ばく者であることを認められないで、今日まで来てしまっています。原発がある以上、皆、被ばくする可能性を背負っています。そこで原発をどうすればよいのか、みんなで真剣に考えてほしいと思います」
永田さん 「今、福島原発の事故を受けて多くの人たちが声をあげています。その声は小さくなるどころか、今日もこのようにたくさんの人たちが集まっていらっしゃる。これは何か可能性のようなものを大石さんは感じられますか」
大石さん 「やはり皆、心配しているのだと思います。特に植物連鎖で放射性物質が口の中へ入ってきたということに驚いているのだと思います。放射性物質には色はないし、臭いもありません。しかし、間違いなく、放射性物質があったことが証明されました。
第五福竜丸は広島・長崎の原爆と違って、内部被ばくです。その点では福島原発と全く同じです。福島原発からはたくさんの放射能が海に放出されました。チェルノブイリ以上の放射能が放出されていると言われています。これからいろんな形で問題が出てくるはずです」
故郷を離れる辛さ
核や放射能をめぐる大石さんと永田さんの対談は約1時間に及んだ。終わった後、私は2人と名刺交換した。「今日の話を書かせていただきます」と言ったら、大石さんは「結構です。ご自由に書いてください」と言われた。
名刺をよく見たら、大石さんの住所は焼津ではなく、東京だった。なぜ、東京に? と問いかけると、大石さんはこう答えた。
「あのころ、故郷にいるのがとても辛かったんです。見舞金のことでもさまざまな憶測があって、いわれのない反感をかったりして、それも悲しかったんです。それ以上に、被ばくの後遺症がいつどんなふうに出るのかと、自分の身体が不安でならなかったから、専門病院のある東京に出てきたのです」
被ばくした当時、まだ20歳。第五福竜丸の乗組員だということを誰も知らない東京へ。しかし、それまで育ててくれた故郷、家族も先祖もいる故郷を離れることは、どんなに辛かったことか。この話を聞いていて、私は原発事故で家を追われ、苦しんでいる福島の人々のことが脳裏に浮かんできて、思わず目頭が熱くなった。
対談でも語られたように、やがて大石さんは結婚し、最初の子供が生まれた。しかし、死産だった。やはり、被ばくの影響かと考え、ずっと長い間、そのことを隠してきた。しかし、本当は、その子は奇形児だった。それを知った時の驚きは言葉で言い表せなかったと、大石さんは自著『第五福竜丸とともに』(新科学出版社)に書いている。
なぜ、隠してきたのか。大石さんは言う。
「それは、私たち家族の問題でもあり、いっしょに被ばくしたほかの乗組員や、その家族の問題でもあったからです。それは、みんなに知れたら、大騒ぎになるのではないかということ。そしてこのことで、就職や結婚、暮しの中での差別が生まれるかもしれないということがあったからです」
もう時計の針は午後の4時半を回っていた。“被曝さえしていなければ……”――大石さんの無念の思いを抱きながら、私は「夢の島」をあとにした。
その後、大石さんは脳出血を起こし、講演を中断していた。しかし、後遺症で言葉は出づらいが、講演依頼があれば、いつでも出かけていくという。
米国によるマーシャル諸島・ビキニ環礁での水爆実験から60年目の今年(2014)3月1日。マーシャル諸島の首都マジュロで開かれたビキニ被災60年集会。大石さんは杖をついて登壇。訪問は10年ぶりだった。
「東京電力福島第1原発事故による汚染はビキニ事件と同じです。核は人類と共存できません。私は核兵器にも原発にも断固、反対します」
「ドーン」不気味な地鳴りのような音
第五福竜丸の元乗組員23人のうち、存命者は7人。その中の一人、見崎進さん(87)にも会った。静岡県島田市の見崎さんの自宅で。2014年3月4日午後2時――。被災当時、見崎さんは舵を操作する操舵手だった。
その日、デッキにいて夜が明けるころだった。みそ汁をかけたご飯をかき込み、丼に注いだお茶を飲んでいるときだった。1954年3月1日早朝。
ドーン。不気味な地鳴りのような音がした。その瞬間、光が走った。見崎さんは「お天道様みたいに光った」と表現したが、太陽にも似た光であたり一面、明るくなった。
「逃げろ!」という怒声が聞こえた。
「でも……」。「陸なら車で逃げられるかもしれませんけど、船の中は逃げられません」
――船にはお風呂があるんですか、と私は聞いた。
「ありません。甲板や体を覆った灰は塩水で流していました。今、思えば、その海水も放射能で汚染されていたのですね」
空から雪のような白い粉が降ってきた。これは水爆実験で爆発したサンゴの灰で、「死の灰」と呼ばれる放射性降下物だったことを、その後入院した国立東京第1病院で知った。
「当時は放射能なんて知らないから、みんなで『これは何だ、何だ』って、騒いでいました。なかには雪だという人もいたね。でも南洋に雪が降るのか、って言ってね」
そのうち、船の上で異変が起こった。髪の毛が抜ける、首が痛い、手が痛い、歯が痛い、お腹が痛い……。
3月14日、第五福竜丸は母港の焼津に帰った。下痢や嘔吐、脱毛は続く。やけどのように火ぶくれができ、皮がむけてきた。
3度死んでここまで生きてきた
「しかし……」。見崎さんは「3度死んでここまで生きてきたのだから、がんばろう」と思った。死にかけた1度目は戦争で。2度目も戦争で。そして3度目はビキニ事件で。
戦争中、17歳で商船に乗った。その船は沈められたが、見崎さんは運よく乗っていなかった。
その後、徴用船に2年駆り出された。大砲と機関銃を積んだだけの「監視艇」の乗組員として硫黄島まで行った。監視のためマストにのぼったところ米軍機から機銃掃射された。
見崎さんは弾で足をかすっただけだったが、甲板にいた5人のうち4人が亡くなった。船が揺れて、死体がごろごろ転がったが、何とも思わずに釜石に上陸した。「8・15」終戦は函館で迎えた。そして第五福竜丸事件である。「私は人生の終わりを平素から受け入れているんです」と穏やかな口調で語った。
その後、見崎さんは国立東京第1病院に1年2カ月、入院した。同室の隣のベッドには無線長の久保山愛吉さん(当時40歳)がいた。黄疸がひどくなり、真っ黄色。それが脳に回ったらしく、半年後に亡くなった。
「次は俺の番かも……」。
こんなことばかりを考えていた。しかし、病室には同じ仲間が一緒だったから、耐えられたのだろう、と見崎さんは言う。
――結婚はおいくつで?
「22、3歳だったかな。よく覚えていません、ハッハッハッ。恋愛結婚で式も挙げていません」
――お子さんは?
「3人います。2人はビキニ事件の前に生まれました。もう1人はビキニ事件後に生まれましたが、元気です」
ビキニ事件後、見崎さんは体が心配で船に乗る仕事をやめた。豆腐屋を始めた。ラッパを吹いて、一軒一軒、訪ねて売った。時には「原爆豆腐!」と陰口をたたかれたことも。しかし、客商売。けんかしてもしようがない。バカなことばかり言っているな、と見崎さんは笑い飛ばしてきたという。
豆腐屋の傍ら、静岡市でアパートを経営し、ホテルもやっていたが、今はやめて妻と一緒にそこに住んでいる。
料亭「百小屋」。見崎さんの息子さんが島田駅近くで料理屋をやりたい、どうせやるなら変わった店に、ということで、建物は白川郷の合掌造りにした。白川郷から専門の大工さんに来てもらって移築。今は息子さんが料理を担当し、娘さんがそれを手伝って店は繁盛しているという。
「私は食うだけ」。見崎さんは豪快に笑った。
第五福竜丸事件を語り継ぐ
昨年(2013)9月、市民団体の要請を受けて、地元の高校生ら約10人を自宅に招き、「第五福竜丸とビキニ事件」について語った。被ばく当時、入浴時に浴槽の水を放射線測定器で測ったら、針が振り切れた。水揚げしたマグロは捨てた。焼津は風評被害にもさらされた……。そして40~50代の働き盛りで死んでいった仲間たち。その無念を晴らしたいと、証言を始めた。余命いくばくもない見崎さんは、
「俺らがみんな死んだらどうなるか。記憶は消えちゃいます。あまりしゃべる機会もありませんでしたが、大勢の前で話をしてもいいです」と言った。
今年(2014)3月1日。「被災60年 3・1ビキニデー集会」が焼津市で開かれた。見崎さんはビデオメッセージを寄せた。「放射能は怖い。悪いことをしていない人が被害に遭う」と切実な思いを語った。
今、原発事故でふるさとを追われ、風評被害に遭っている福島の人々に胸を痛める。
「福島の野菜も魚もおいしいのに、なんで悪いの? 福島は悪くない!」
片野 勧
1943年、新潟県生まれ。フリージャーナリスト。主な著書に『マスコミ裁判―戦後編』『メディアは日本を救えるか―権力スキャンダルと報道の実態』『捏造報道 言論の犯罪』『戦後マスコミ裁判と名誉棄損』『日本の空襲』(第二巻、編著)。近刊は『明治お雇い外国人とその弟子たち』(新人物往来社)。
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