片野勧の衝撃レポート『「太平洋戦争<戦災>と<3・11>震災 『なぜ、日本人は同じ過ちを繰り返すか』㉗終
太平洋戦争<戦災>と<3・11>震災㉗
『なぜ、日本人は同じ過ちを繰り返すか』(終)
第4の震災県―青森・八戸空襲と津波<4>
片野勧(ジャーナリスト)
占領軍が押収した日本の極秘文書
本田さんは『八戸市史――近現代資料編 戦争』を編集した一人だが、多くの資料は戦後、GHQに押収されたものだ。
「この資料はアメリカから返還された資料の一部です。多くの学者やジャーナリストが調査して持ち帰ったもので、本来なら、日本政府がやるべきものなのに、きちんとやってくれないのは残念です」
私はこの話を聞いていて、真っ先に思い出したのは、今は亡きジャーナリスト松浦総三氏の次の言葉である。彼はかつて「東京空襲を記録する会」の事務局長で、「アメリカ押収資料の返還・公開を要求する会」の代表を務めていた。
「日本では金輪際、読むことのできない戦中の極秘や『マル秘』の公文書が、アメリカでは自由に見られました。しかし、日本に返還されると、『マル秘』文書だからという理由で、閲覧を断られたりしました」
日本政府は情報公開にきわめて消極的である。それでもアメリカが押収した太平洋戦争期の資料は今、日本に返還されているが、その全体像――つまり、すべての文書が一般公開されているのか――についてははっきりしない。公開分の資料については国立公文書館や防衛研究所で閲覧できることになっているが、はたして極秘資料は自由に見られるのだろうか。
八戸空襲の全体像を明らかにするためには、GHQが押収した文書を精緻に分析し、調査しなければならない。これらの文書の公開は、八戸空襲の全体像だけでなく、日本軍のシステムに内在するさまざまな問題をも明らかにしてくれるかもしれない。
それにしても、ワシントンの国立公文書館や議会図書館、メリーランド大学マッケルディン図書館がアメリカ側の資料とアメリカにある日本側資料(第2次大戦中及び戦後の米軍資料や旧日本軍関連資料など)を公開するようになって、かなりのことが分かってきたのは一歩前進だろう。
本田さんによると、八戸を攻撃したアメリカ軍が持っていた極秘資料から、米軍機は釜石と室蘭の間を行ったり来たりしていた。また沖縄戦が終わった後、米艦隊は北上して八戸沖に居座り、ここから艦載機が飛び立っていったという。
「これまでそういう事実を日本人のどなたも調べてこなかったのです。これからも新しい資料が出てくると思いますが、八戸空襲の全貌が明らかになるのは、まだこれから先でしょうね」と、本田さんは語る。
エリートを育てた江田島海軍兵学校
「これから取材にお邪魔してもよろしいですか」
面識のない私に対して、彼は、「どうぞ、どうぞ」と言って、八戸市の自宅高層マンションで迎えてくれた。島守光雄さん、84歳。海軍のエリートを育てた江田島海軍兵学校(第77期)の出身である。以下、島守光雄著『無位無官を愉しむ―私とメディアのめぐりあい』(平成17年11月1日、発行)を参考にさせていただく。
昭和20年(1945)8月6日朝。島守さんは遊泳訓練のため、広島の陸岸に相対する能美島南岸にいた。突然、大きな雲が広島方面でむくむくと空へ伸びていった。原子爆弾投下直後のキノコ雲である。
そして8月15日の終戦の日を迎えた。この日、午前中の講義は「原子爆弾」。講義の途中、正午に重大放送があるので、全員盛装して練兵場に集まるようにとの達示があり、午後の日課は中止。それは天皇の終戦詔書があるためである。
「その瞬間、海軍兵学校の生徒館はすべて色を失い、かつその呼吸が止まったかのようにみえました」
島守さんは、まさか日本が負けるとは思っていなかったと、当時を振り返る。さらに言葉を継いだ。
「私は同期生ともども特攻に志願して死ぬ覚悟を決めていました。それなのに、上の方から一方的に戦いをやめろ、というのは何たることか、と」
当然、天皇をはじめ元帥大将たちは自ら切腹して戦死者へ謝罪するに違いないと思った。しかし、この思いとは裏腹に戦争指導者の大半は、東京裁判で生き恥をさらすようなことになったのである。
数日後、復員帰郷が決定した。能美島南岸から瀬戸内海を渡って乗車駅の広島へ。瀬戸内は乗艦実習で訓練した練習艦「出雲」をはじめ、連合艦隊の精鋭といわれた戦艦、空母、巡洋艦などがいたが、目に飛び込んできたのは、あちこちに座礁・転覆・沈没している艦船だった。そこは、まるで海の墓場だった。
さらに広島に降り立ったところ、見渡す限り荒漠たる荒野が広がっていた。35万を誇った軍都・広島の姿は消えていた。勝つことを信じて疑わなかった島守さんにとって、この風景に粛然とする。「やはり、日本は負けたんだ」。島守さんは直感したという。
手紙や日記などすべてを焼却せよ
帰郷の際、武官教官から身元の分かる手紙や日記、教科書まですべてを焼却せよとの命令が出された。見つかると、米占領軍によって皆殺しにされるといわれていたからだ。島守さんは持ち返るべき衣服、下着類などに書いてあった氏名も墨で塗りつぶしたという。
「今、思うと、すべて流言飛語のたぐいです。しかし、当時は真剣そのものでした」
すべてを焼却処分せよ――。これは決して過去の話ではない。現在も国家権力や企業といった様々な組織が危機を乗り越えるために、証拠を隠ぺいする。しかし、いざ戦争となると、その代償はあまりにも大きい。組織を守るため、個人が犠牲にされるからだ。それが戦争という現実だ。
今も世界各地で戦争は続けられている。イラク戦争では罪のない市民が殺害された。悲惨な内戦が続くシリアでは化学兵器が使われたと見られている。日本でも不穏な空気が漂い始めている。尖閣諸島をめぐって中国と緊張関係が続き、北朝鮮の脅威も高まっている。同じ過ちを繰り返さないために、どうすればいいのか。今、再び、われわれは問われているのだ。
海軍兵学校の存在感
たった4カ月、過ごした海軍兵学校は、島守さんにとってどんな存在だったのだろうか。とくに海軍士官は戦士である前に紳士であれ、と英国のパブリックスクールに似た伝統が受け継がれていたことは、島守さんの人生を決定づけたといってよいだろう。
同期生は日夜、寝食・学業・訓練を共にしているので、お互いにすべてを知り、かつ知られているため、何でも率直に自分をさらけ出すことができた。そこから絶対的な信頼が生まれ、それがまた団結を強めたのである。
「私が兵学校で得た最大の誇りは、信頼のおける人間を日本のあちこちに持つことができたことです」
島守さんは敗戦直後の3年間、弘前高校北溟寮で学生生活を送った。そして昭和24年(1949)4月、東京大学文学部社会学科に入学した。青森県の学生寮である清思寮から大学に通っていた3年間、下山・松川・三鷹の3事件やレッドパージ、朝鮮戦争などが相次ぎ、学生運動の昂揚期だった。島守さんも国会や各省庁へのデモに参加した。
一方、ゼミナール担当の福武直助教授らと秋田県の農村調査に同行したこともあった。福武助教授の推薦もあって、昭和27年3月、東大を卒業した後、広告代理業の電通に入社した。
「広告は興国に通ずる。敗戦ですべてを失った故国を興すため、天職とする広告にすべてを賭けよ」
入社時の吉田秀雄社長の訓示である。この社長の言葉に内心、抵抗があったが、大半の部分、間違っていなかった、と島守さんは回想する。
マスコミは販売と広告を収入源としている。その経営が健全でなければ、時の独裁者や政府の干渉を招きやすい。このことによって戦前、戦中、一方的な報道で目隠しされた民衆がどれほどひどい目に遭わされたことか。
だから、新聞社や民間放送局が独立性を維持していくためには、広告収入はなくてはならぬ重要な役割を担っている。要するに、広告業は経済の動因になるだけでなく、報道の独立性を守ることを自覚せよ、と吉田社長は言ったのである。この考え方は今も島守さんの心の中に息づいていることは言うまでもない。
島守さんは業務に追いまくられながら、物を書いていた。その第1は河出書房刊
第2は電通の社内公募の広告八火賞一般論作に佳作賞をとったこと。論文テーマは「広告料率算定におけるABC機構の価値」である。第3は電通従業員組合で「電通発展の道」というテーマで書いた論文。いずれも渾身の力をふりしぼって書き上げただけに、その後の著作活動の原点になっているという。
26年後の卒業証書授与式
「私たちは熾烈な戦争下において学徒動員に参加、川崎の三菱重工株式会社で必勝の旗の下に努力してまいりました」
終戦記念日の昭和46年8月15日。26年ぶりの母校の復元卒業式が行われた。式場は青森県立八戸高等学校体育館。集まったのは八戸中学校第49回並びに第49回繰り上げ卒業生、復員卒業認定・修了者。
島守さんは江田島海軍兵学校に行くことに決まっていたので、川崎の学徒動員には参加していないが、1年繰り上げで卒業した。その卒業生を代表して答辞を読み上げた。
式は修礼で始まり、君が代斉唱、物故者への黙祷。次に戦死者を含めた卒業生350名の名前が読みあげられ、高橋晃武校長(当時)から卒業生代表に卒業証書が授与された。証書の発行日は昭和20年3月31日。この昭和20年は、日本教育史上において中学5年生と4年生が同時に卒業するという、かつてない異例のものだった。
――昭和20年3月29日。神奈川県立横浜第一中学校で卒業式は挙行された。しかし、戦時下の混乱で卒業証書を受け取れず、そのまま保管されていた。その卒業証書も同年4月15日のB29の空襲によって、灰燼に帰した。
「やっと、もらえたよ。同期の皆さんとも再会できて、うれしいね」――。島守さんらは26年ぶりに卒業証書を手にして喜び合った。
島守さんは電通を定年と同時に郷里八戸に帰るや八戸大学に勤務の傍ら、「まちづくり」のために奔走し、数々の提言を行ってきた。今回の東日本大震災の「八戸を軸とする東北地区の復興基本方針」として、「富と人を太平洋ベルトライン地域に集中させた明治以来の中央集権体制を地方分権、地産地消、資源環境型の自然と人間が抱擁する温かな社会への転換を図る」「三陸海岸一帯を観光地に組みかえる」など8つの試案を掲げている。
八戸ペンクラブを立ち上げる
不羈独立の気概をもって意見を発表し合い、地域の文化活動を刺激し、ひいては人間の連帯と世界の平和に寄与する――。
国際ペンクラブ、日本ペンクラブに連なる八戸ペンクラブも設立した。2003年5月24日、八戸会館1階ホール。
ペンクラブは1921年、第1次世界大戦の悲惨な経験を繰り返さないために詩人、作家、編集者などが国や人種を超えて話し合い、人間の自由と平和のために必要な言論、報道の自由を堅持することを目的につくられたものだ。
また日本ペンクラブも昭和10年、島崎藤村を会長として言論報道の自由を堅持することを目的として発足した。日本ペンクラブが国内や国際的文化組織であるとすれば、八戸ペンクラブは八戸地域を発展させ、文化向上のリベラルな組織と島守さんは位置付けている。
その一環として八戸ペンクラブは戦争を忘れないために「戦中暮らしの実物史料展」などを連続的に開催し、非戦と平和を訴えてきている。
八戸ペンクラブは太平洋戦争が終結してから68年、戦争体験者も年々、少なくなっている中、再び、同じ過ちを繰り返さないために、島守さんが中心となって立ち上げたものだ。島守さんは自伝本でこう書いている。
「近年になって、非常に気がかりなことは、偏狭な正義感や排外的な国家主義をあおっている御用学者や文化人、その尻馬に乗るマスメディアが増えてきたことである。これは、中国や韓国はじめアジア諸国からつきつけられる各種の補償問題に対して反応の鈍い日本政府を許容するだけにとどまらず、むしろ開き直る態度などに端的にでている」(『無位無官を愉しむ』)
これは戦争の生々しい記憶が消え、戦争責任問題が薄れかかっていることと無関係ではない。島守さんは今、慙愧の思いでこう振り返る。戦前に受けた皇国民教育がいかに虚構に満ちたものであったか、と。
同時に、自分がかつて生きてきた昭和初期(昭和元年~昭和20年)、軍事が政治の上位に位置し、しかも当時の指導者が「世界」を忘れ、「日本」だけを誇示する政治的能力を欠いた者たちであったか、と。そして時代の動向を見通すことができず、国際連盟さえ脱して、世界の孤児になった日本は敗れるべくして敗戦を迎えたと指摘する。
誤った大国意識は捨てよ
なぜ、日本はドイツとは対照的に賠償や補償問題が遅々として進まないのか。島守さんは述べている。
「日本のリーダーたるべき政治家、官僚、財界人、裁判官たちに人間としての良心の痛みがないからだろう。いや、むしろ、これらのリーダーたちが、石原慎太郎前東京都知事の『第三国人』発言のように、たかが『第三国人が何を言うか』という誤った大国意識が心の底に沈殿しているのではないのか」
島守さんは大正・昭和期に活躍した陸羯南、内村鑑三、幸徳秋水、石橋湛山のように自国の政策に敢然と立ちはだかる操觚者がいまの日本には一人としていないことを嘆く。内村鑑三著『デンマルクの国の話』の1節。
「国の大なるは決して誇るに足りません……外にひろがらんとするよりは、内を開発すべきであります」
島守さんの明晰な論に、ここは立ち止まって熟考すべきではないのか、と思った。
片野 勧
1943年、新潟県生まれ。フリージャーナリスト。主な著書に『マスコミ裁判―戦後編』『メディアは日本を救えるか―権力スキャンダルと報道の実態』『捏造報道 言論の犯罪』『戦後マスコミ裁判と名誉棄損』『日本の空襲』(第二巻、編著)。近刊は『明治お雇い外国人とその弟子たち』(新人物往来社)。
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