片野勧の衝撃レポート(65)戦後70年-原発と国家<1955~56> 封印された核の真実「平和利用で世論を変えよ」(下)
片野勧の衝撃レポート(65)
戦後70年-原発と国家<1955~56> 封印された核の真実
「平和利用で世論を変えよ」(下)
片野勧(ジャーナリスト)
平和利用使節団の講演会は超満員
読売新聞が招へいした米原子力平和利用使節団の講演会は1955年(昭和30)5月13日、東京・日比谷公会堂で開かれた。超満員。日本テレビは生中継した。当時、力道山のプロレス中継で人気を集めていた街頭テレビも設置した。
また朝日も「原子雲を越えて」という記事を連載した。最終回は「未来の夢」。
「もしも死の灰の出ない水爆エネルギーが使えるようになったら、原子力で山をくずし、運河を掘り、湖や海をつくることさえ可能になる。…(中略)原子力時代には自動化(オートメーション)も並行して進む。工場は無人化の一途をたどる。人間は日に二時間も働けばよい」(「朝日」1955/8・17付)
新たな産業としての原子力発電の必要性をアピールした。バラ色一色。やがて原子力開発へとなだれ込んでいく。
平和利用使節団の講演会から5カ月後の1955年11月1日。「原子力平和利用博覧会」が東京・日比谷公園を皮切りに名古屋、京都、大阪、広島、福岡、札幌、仙台、水戸、高岡など57年8月まで全国主要都市10カ所を巡回した。この博覧会は読売新聞、日本テレビのメディアを駆使した大宣伝の結果、期間中の入場者は総計260万人を超えた。
このキャンペーンを後押ししたのが読売新聞をはじめ、朝日新聞、中部日本新聞、西日本新聞、北海道新聞、河北新聞など。足並みをそろえたメディアは連日、原子力平和利用キャンペーンを繰り広げた。この年の新聞週間(1955年10月1日から7日まで)の入選標語は「新聞は世界平和の原子力」。
博覧会の展示は「原子力の進歩に貢献した科学者達」から始まり、「原子力の工業、農業、医学面における利用模型」「動力用原子炉模型」と続き、さらに「原子力機関車、飛行機、原子力船の模型」と来場者を原子力による明るい未来へと誘(いざな)う。
被爆都市・広島でも平和利用博覧会開催
被爆都市・広島でも56年5月27日、開催された。会場は原爆の被爆者を追悼する平和記念資料館。中国新聞は社説でこう書いた。「原子力を応用した兵器の使用禁止を要請するには、原子力に関する真の知識を獲得する必要がある」と。
また夕刊1面で中曽根康弘(元首相)は次のように述べた。
「広島の人は世界に向かってもっとも原子力平和利用を叫ぶ権利がある。われわれはこの業火を新しい文明の火に転換することを広島の人たちの前に誓わねばならない」
原爆によっておびただしい命が奪われた広島。当時、高校教師だった森下弘さん(84)は生徒たちとともに博覧会を見学した時の模様を日記<6月6日(木)雨>にこう記している。
「学校から生徒と共に原子力平和利用博覧会を観にゆく。原子力の平和利用に関する一応の知識が、実物模型や係員の説明でたやすく得られ、整理されて有益だった。…(中略)エネルギー、アイソトープ、農、工、医各方面への利用の無限に大きいことも知った」
生徒たちは係員(アルバイト学生)たちの説明に対して質問に余念がない。「しかし……」。森下さんは原爆資料館を観にいって、急に暗い気持ちにさせられたという。日記は続く。
「被爆当時の悲惨な写真、みにくいケロイドの写真――を見て、『今晩怖くて寝られないかも知れない』そう言う生徒。実物の傷痕をもつ私はそこに居たたまれない気持ちになった」
核は両刃の剣
1945年8月6日。原爆が広島に投下された時、森下さんは14歳、旧制中学校の3年生だった。広島市内東南の鶴見橋地区、爆心より1・7キロの地点で建物疎開の作業中被爆し、顔、手に熱線による火傷を受け、ケロイドになった。
同時に家は焼かれ、母を失い、多くの学友を、そして師を失った。原子力旅客機や原子力列車の模型が展示されているのを観て、核は両刃の剣か、と考える。森下さんは「原爆と原発は別物」と思い込むようになった。
原子力の平和利用と軍事利用――。二つを分離して、一方に期待を持たせ、もう一方に憎悪を同時並行的に膨らませることは、当時の国民感情として当然だったのかもしれない。しかし、原爆と原発を簡単に切り離すことはできないのだ、ということに気づくのは、ずっと後のことになる。
2011年3月11日。東日本大震災による福島第一原発事故で、その考えは180度、間違っていることに気が付いた。森下さんの証言。
「被爆者として恥ずかしい話ですが、原爆と原発は別物という考えは間違いでした。放射能の恐ろしさは誰よりもわかっていたはずなのに、博覧会をきっかけに平和利用という幻想に惑わされてしまいました」
科学技術は悪用さえしなければ、人類を幸せにしてくれる――。当時、原子力という言葉はいかに明るく、未来に夢を膨らませていたか。森下さんは原子力技術は、本質的に核兵器技術と共通すること。そして原爆も原発も、その根は同じであることに、ようやく気が付いたのである。
その後、森下さんは原爆体験語りや平和行脚で世界各地をめぐる機会に恵まれた。映画「チャイナシンドローム」を観て、ほどなく原発事故を起こしたスリーマイル島に行ったり、チェルノブイリ事故後のぐちゃぐちゃの原子炉や汚染された無人地帯を訪れたりした。 また移住させられた人々を訪ね、交流を持ったりした。そして福島原発事故である。
日本やアジア諸国に原子炉の導入を
ところで、「日本やアジア諸国に原子炉の導入を」――というホプキンスの提案とは別に日本への原子炉導入を主張するアメリカ人がいた。アメリカ原子力委員会のトーマス・E・マレーである。彼は1954年9月11日、全米製鉄労組年次大会で、「日本こそは最初の原子力発電機の一つをすえつけるのに適した土地である」と演説した。さらに続けてこう述べた。
「広島と長崎の記憶が鮮明である間に、日本のような国に原子力発電所を建設することは、われわれのすべてを両都市に加えた殺傷の記憶から遠ざからせることの出来る劇的で、そしてキリスト教徒的精神にそうものである」
もう一人、広島に原子炉の建設を――と提案した人物がいた。アメリカ下院議員のシドニー・イェーツ。彼は「広島が世界最初の原爆の洗礼を受けた土地であることにかんがみ、米国は同地を原子力平和利用の中心とするよう助力を与えるべきである」と言って、「広島に原子力発電装置建設のための上下両院合同決議案」を提出したのである。(山本昭宏『核エネルギー言説の戦後史1945~19600』人文書院)
平和利用キャンペーンの背景に米国の思惑
これらの原子炉提供の話は、どれも実現しなかったが、これら「原子力平和利用」キャンペーンの背景にはアメリカの思惑が色濃く反映していた。先に述べたように、米ソ冷戦が深刻化していた50年代、アメリカは日本の反共・親米化を目的にした空前絶後の日本洗脳工作を展開していた。
暗号名を「パネル-D-ジャパン」といい、莫大な秘密資金を投じて、日本の映画・ラジオなどのメディアを操作したばかりでなく、早大・京大など多くの大学教授たちの反共・親米化を図ったのである(月刊誌『VIEWS』1995/1)。
正力が原子力開発に、なぜ、執着したのか。当時、電気事業連合会をはじめエネルギー業界では、石油資源の枯渇が大問題となっていた。余すところ15年、いや30年だろうという、石油の限界論も出されていた。
正力松太郎は真っ先に僚友三木武吉と打ち合わせ、鳩山一郎首相(当時)に談じ込んで、原子力導入の必要性を説き、そのためには確固たる政治的基盤を確立する必要があると力説した。いわゆる自由、民主両党の保守大合同の提唱である。
正力は両党領袖の三木武吉、大野伴睦という犬猿ただならぬ仲の二人を説得して、大合同の実現に向かわせたのである。三木とは京成事件に連座した時以来の因縁であり、大野は院外団として官房主事時代から小遣いをやっていた仲だった(柴田秀利『前掲書』)。
正力は初代原子力委員長に就任
こうして、1955年11月14日、民主・自由両党はそれぞれ解党を宣言し、翌15日、わが国憲政史上未曽有の417名という絶対多数を誇る自由民主党が結成された。以来、今日に至るまで保守政権は長期安定の礎石が打ち立てられたのである。(1993年に成立した細川連立政権、2009年7月の民主党政権によって一時中断するけれども……)
この功によって正力は鳩山内閣で原子力の平和利用を推進することを条件に入閣を果たし、初代の原子力委員長に就任した。しかし、正力はそれにとどまることなく、原子力カードを利用して、鳩山の後の総裁の座を狙っていたフシがある。1955年12月6日のCIA文書は伝えている。
「①原子力平和利用博覧会のことで大統領に手紙を書く。②正力の伝記をアメリカで出版する。③アジア原子力センターを日本に設置する。④訪米する。……」(有馬哲夫『原発・正力・CIA』新潮新書)
正力は自分の知名度をアメリカで上げておく。そうすれば総理大臣の座を引き寄せることにもなると踏んでいたのだろう。
なぜ、正力は原子力開発にのめりこんだのか
なぜ、正力松太郎は原子力開発にのめりこんだのか。それは総理の座を射止める政治的野望なのか、それともほかの理由なのか。その真相は今となってはわからない。しかし、アメリカは原子力の平和利用を日本に定着させることを最重要課題の一つに据えていたことを考えれば、正力はアメリカの対日心理戦に取り込まれていたことは想像に難くない。
しかし、正力が原子力開発にのめりこめばのめりこむほど、CIAのほうは逆に冷めていった。正力を抱き込んで、「原子力平和利用博覧会」を行ったが、それは反原子力・反米の動きを鎮めるための米国の“巧妙な工作”だったといってよい。
CIAのいう「総理を狙う男」は原子力導入へのめりこみ、剛腕ぶりを一段と発揮した。しかし、米国との間に溝ができ、米国の描くシナリオは狂い始めていた。
(かたの・すすむ)
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